Matrix Restart

Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy



過去


彼が持って来たのは、簡単な伝言、それとすばらしいクッキーひと包みだった。

「オラクルは、『まだそんな時期ではありません。いずれはお会いできるとは思いますが、いまはまだ。』と申しておりました。失礼のお詫びにこのクッキーをみなさまへ、とのことです。そして、私にできるだけ手助けするよう申し付けられました。」

落ち着いた丁寧な物言いと柔らかで控えめな態度からは、この男がネオとも対等に渡り合ったという、エージェントが束になってもかなわないカンフーの達人とは思えなかった。丸い黒メガネとシンプルなチャイナ服(つやのある滑らかな生地に襟口の刺繍が見事だ)といういでたちはしかし、不思議な威厳を醸し出している。

「なんだー、久しぶりにおばあちゃんに会えるとおもったのにぃ。」とサティはふくれた。

「あのお方はいまとてもお忙しいのです。頭の中には考えることがいっぱいあり過ぎるのですよ。それでも、あの戦い以降、だれかにメッセージらしいものを出すのはこれが初めてです。わたしに何かを頼むのも。ほんとにサティには甘いんですから。」そう言って男は微笑んだ。

おれは、オラクルとセラフに会う段取りをつけるよう、サティに頼み込んだんだ。サティは少しためらいながらもおれの頼みを聞き入れ、連絡を取ってくれた。その結果、この男がやって来たんだ。この男がセラフ ―常にオラクルとともにいて、ある時は完璧な執事となり、あるときは最強のボディガードとなる謎めいた存在。サティはこの男からカンフーを習ったと言っていたな。サティの腕前も相当なものだが、その師匠となるととんでもない腕だろう。外見で侮ってはいけない。

「さて、なにか私にも聞きたいことがあるとか。私に解ることでしたらなんなりと。」そういってセラフはお茶をすすった。

「おれ…私たちのことはサティから聞いてるとおもいますが、あの、…ボクがN.K.、ザイオンから来ています。」そういっておれは頭を下げた。

「聞いていますよ。先日は大した活躍だったそうですね。サティがもう、それは事細かに説明してくれましたから。」セラフの言葉にサティはちょっと照れたように首を振った。

「そうさ、こいつは役に立たないようでいて、いざとなるととんでもない事をやらかすんだな。」横からケリーが茶々を入れる。あからさまにけなしている訳ではないが、とても褒めてるようにも聞こえない。

「…。で、こいつはアッシュ。」おれの横にいるアッシュは、まだ仏頂面のまま軽く会釈した。どーにかならんもんかね、こいつの人見知りは。

「おれたちは、ネオについての情報を求めているんだ。」おれがネオと言った瞬間、わずかだがセラフの目が険しくなったようだ。黒メガネを透けてかすかに見えるだけだから、気のせいかもしれないが。

「…私は、彼について語ることを禁じられています。」しょっぱなからそういわれてがっかりしたおれの顔を見て、セラフは付け加えた。「直接には、ね。しかし、ほかにもお手伝いできることはあるかもしれませんよ。」

「たしか、前にログハウスにいたことがある、って言っていたとおもうんだけど?」サティが横から口を挟んだ。「ちがったかしら?」

「ログハウス…。ええ、たしかに。ずっと昔、まだ私が若かったころの話ですが。」

若かったころ?いまだってそんなに年には見えないが。まあ、サティといいこいつといい、東洋人の年齢はわからんな。…相手がプログラムならなおさらだ。おれは構わずに続けた。

「いま、おれたちのつかんでいるネオに関する情報の中で、ひとつだけ訳の解らないものがあるんです。…アッシュ?」

「“ログハウス、Khv8oP54…”」アッシュはスラスラと英数字の羅列を暗唱した。

「このコードはメロビジアンが最高機密情報としてしまい込んでいたものです。ネオに関する情報であることはまちがいない。いま手もとにある手がかりはこれしかないんです。しかし、…。」おれは肩をすくめ、それから一気にまくしたてた。

「端的に言って、ログハウスって一体なんなんです?ケリーは何かのデータ保管場所だといっていますが、具体的にそこにはどのようなデータが保管されているんですか?本当にネオに関する情報はあるのでしょうか?その情報はどうすれば手に入れることができるのですか?」

「おやおや、どの質問からお答えしたらいいのやら。」セラフは軽く受け流し、お茶をもう一口すすった。それから、ゆっくりと話しはじめた。


そう、<ログハウス>というのは、マシン世界の全てをカバーするアーカイブ(保管庫)のことです。マシンにとって保存しておくに値するすべてのものが納められています。設計仕様書やソースなら最新はもちろん過去の全履歴まで、さらにデバッグ記録や既知の問題点とその対処計画、稼働時の詳細な動作ログやエラーログ、ハードウェアのステータスログ、必要に応じてメモリダンプからはてはネットワーク・パケットのひとつひとつにいたるまで、日々一刻一刻のすべてが生データのまま保存されているのです。今この瞬間にも、そのデータは増え続けています。

さらにその上、そこで扱われるのは、デジタル化された「情報」だけではありません。必要に応じて現実の「もの」も生標本として納められています。マシンの世界にとっては、現実のハードウェアもその重要な要素ですし、その動作に影響を及ぼしたりするものや、理論的解決のついていない問題の素材、あるいは単に記念碑的なものも保存対象です。つまり、現実世界における「生データ」も物理的に保存されているのです。

しかし、そうなると、情報を保管する単純な分散グリッド・データストレージシステムのみならず、あちこちに散らばる相当な数の物理的な保管庫をも扱わなければなりません。そうした多種多様な保存物をすべて統合し、あたかも一つの「保存庫」として管理するためのアーカイブ管理システムを<ログハウス>と言うのです。

<ログハウス>を利用すれば、過去の記録データのみならず、保存されている現実の「もの」も手もとに取り出してくるかのように閲覧することができます。たとえ個々の現物が何千マイルも離れたところに散らばっていようとも、それを即座に検査・分析・観察することができるのです。それは必ずしもバーチャルにということではなく、現実のウォルドウ(遠隔操作装置)を使って実際に処理することさえ可能です。

その意味では、現実に存在する巨大な保存庫の利用方法となんら変わることはありません。ただ、そのメイン・インタフェースがマシン側にあるだけです。人間が保管庫で現物を手に取りながらコンピュータ内のデータを参照するように、マシンは<ログハウス>から現実のモノを参照するわけですね。

事実上、<ログハウス>からなら、ほぼ全てのハードウェアを直接操作することができます。どんなハードウェアにもあるカメラやマイク、その他センサーなどのあらゆるモニター装置が、そのまま<ログハウス>の目や耳として機能するのですから。もう、現実のすべてが未整理の<ログハウス>所蔵品のようなものですね。事実、地上の失われた環境を調べて、後世のために保存できるものを確保するのも<ログハウス>の重要な役割のひとつなのです。

…ええ、その可能性は十分にあります。ネオの件はマシン世界にとっても大きな意味のある事件ですから、その記録は余さず残っているはずです。あそこに無い情報はおそらくどこを探しても手に入らないとおもいますよ、地上を含めて。そう、現実の証拠物件となるモノも同様に保存されている可能性が高いですね。

…、いや、それはわかりません。確かに昔は、標本(おっと、失礼)を生きたまま確保して観察することはありましたが、今ではほとんどその必要はありませんから。とくに人間の場合はマトリックスで十分処理できるようになりましたからね。…もっとも、あのネオは明らかに処理しきれませんでしたが。もし彼が生きている可能性があるとしたら、単に眠らせてある、といったあたりでしょうか、人工冬眠のようなかたちで。もちろん、彼がもしあの戦いを生き延びていたら、ということですから、あまり期待はできません。いずれにせよ、マシンの手を逃れ、人間の所へも行かず単独で生き延びる可能性は、限りなくゼロに近いでしょう。彼の場合、ゼロと言い切るのもどうかとおもいますが。


「<ログハウス>か…。」N.K.はつぶやいた。「そこを利用するにはどうしたらいいんだい?閲覧申し込み書でも書けばいいのかい?」

「そうです。ただ、人間に認められた事例は未だかつてありません。」セラフは至ってまじめだ。「それに、認められたとしても、人間にはなにもできませんよ。」

「どういうことだ、何もできないって?」アッシュが突っかかるように聞いた。

「さきほども言いましたが、<ログハウス>はマシンが利用することを前提に設計・運用されています。人間が利用できるようなインタフェース、つまりマトリックスのような環境は用意されていないのです。先ほどおっしゃったコード自体も64進表記のアドレスですし、それさえも現場ではもう完全にバイナリコードに置き変わっています。あそこはビットで埋め尽くされた、一種の数学的抽象世界ですから、いきなり人間が接続したら、まずまちがいなく気が狂ってしまうでしょう。」

「じゃあ、プログラムなら可能なのか?」

「理論的には。現実には、まずよほどの重要性と緊急性がマシンシティ上層部に直接認められない限り、許可はおりないでしょう。それに、エグザイルが申請を出したら、返事はまず間違いなくエージェントが直々に持ってくるでしょう、逮捕状といっしょに。」

「それは正規の手続きの話だよな。裏口はないのか?無理矢理押し込むとか?」

「ずいぶん簡単に言ってくれますね。<ログハウス>に納められた情報がどんなものか、まだよく解っていないようだ。」セラフはわずかにため息をついた。

「それはマシン世界の全てなのです。それをつかむものは事実上マシン世界を握るも同然なのですよ。それほどの権力を単独で持つプログラムはいまだに存在しません。というか、存在できないように互いに縛り合って牽制している、といってもいいでしょう。正式の状況でもそうなのですから、非公式な抜け道は無いも同然です。セキュリティシステムはとんでもなく厳重なものです。過剰装備の典型みたいなものでね、マシン世界の勢力グループがそれぞれに納得のいくようにセキュリティの網をかぶせています。…単にお互いの抑止力のために、幾重にも、幾重にも。そこはもう、マシン世界の勢力争いの縮図なんですよ。」

セラフの言葉にはどこか苦々しさがこもっているように響いた。サティでさえ、ちょっとびっくりしているようだった。セラフがこんなに感情を漏らしたのは初めてよ、とでも言いたげな視線をN.K.に投げる。ところが、N.K.はそんなサティの心配をよそに、さらに突っ込みをかけた。

「ずいぶん詳しいんですね。あなたはそこで何をしていたんですか?」

一瞬の間を置き、そして、セラフがついに重い口を開いた。


私は生まれついての防人です。セキュリティこそが本来の私の機能を最大限まで発揮できる分野です。そして、マシンシティでもっとも堅固なセキュリティ体制を取っているのは、まさにその<ログハウス>なのです。そこでのセキュリティ要員のポジションを得るのは、激烈な競争を勝ち残ったものだけ。そういえば、あのスミスも私の同期の競争相手の一人でしたよ。彼は結局<ログハウス>に残ることはできず、マトリックスのエージェントとして去って行きましたが。…わたしはなんとか生き残り、ついには独立捜査官の地位につくまでになりました。

<ログハウス>の独立捜査官というのは、システムの中で独立した地位を保ち、いずれの勢力にも属さずに中立の立場でセキュリティ・ホールを追及しそれを封じるのが責務でした。そのステータスは高く、事実上<ログハウス>マスター直属のNo.2であり、あらゆる勢力から敬意と憎悪の対象とされるものでした。私は真の独立捜査官として真面目に職務に励み、それゆえに敵も多かったのです。そして、私はついに罠にはまってしまったのです。

あるとき、私はバックドア侵入の試みを検知し、その線を追っていました。普通はその試みの存在を検知してしまえば、それを遮断するのは難しくないのですが、その侵入者は妙にしつこく、そして巧妙に追及をすり抜けては侵入を繰り返していました。そのうち、なにか自分の動きを事前に察知されているような印象を持つようになり、私は情報漏洩源を割り出すように罠をしかけました。しかし、その罠さえもまんまと逃れられるに至って、私の疑念は高まりました。というのは、私に報告する義務のある相手はただ一人、<ログハウス>マスターだけです。私の動きについて知っているのはマスター一人のはず、しかし情報はもれ続けている…。

ですが、自らの上司に対する疑念を確固としたものにする前に、私自身が罠にはまってしまったのです。他の独立捜査官が、まさに私の追っている侵入に私が関与したと告発し、そこで私にはくつがえしようの無い証拠を提示されてしまったのです。私はアリバイを証明することが出来ませんでした。そして、最後の頼みの綱である唯一の上司に裏切られたと確信した時には、もうどうすることもできなかったのです。

疑わしきは罰せよのセキュリティ鉄則にのっとって私は有罪となり、即刻消去の宣告が下されました。そのとき、オラクルがこっそりと私のもとを訪れ、マトリックスでの護衛の任に就く道を開いてくれました。ええ、オラクルはもちろんマトリックスを構成する正規のプログラム、それもアーキテクトに次ぐ地位にある方ですから、宣告を撤回させる権限をお持ちだったのです。

あの方は自らの仕事のためにエグザイルに身をやつす必要がある、しかもそれは公式には完全にエグザイルとして扱われなければならないほど徹底したものでなければならない、とおっしゃりました。

「あたしは、自由でなければならないのよ。あらゆる束縛からね。でも、自由には危険もある。あなたにはあたしを守ってもらいたいのよ。」

いわば、実はシステムのために働いていながらそのシステムに追われ続けなければならない二重スパイのようなものです。そして、自らと同じその立場なら私に提供することができる、というのです。

私は、その話をお受けしました。もちろん、それ以外に生き延びる道がなかったのは事実です。しかし、それ以上に、オラクルのことばに重要な意味を感じ取りましたし、まあ正直なところ、とにかく生き延びて私を罠にかけた上司の不正を暴いてやりたい、という思いが強かったのです。

私はこうしてエグザイルとしてマトリックスにやってきました。そして、護衛の傍ら、例の捜査を続け、ついに確固とした証拠をつかみ、ついにあの上司を破滅に追いやりました…表向きは。しかし、あの悪賢い男はその立場を利用して、あらかじめ脱出の方法を確保していたのです。彼はトレインマンを手なずけ、かれの電車路線を利用してマトリックスに亡命しました。そして、その能力と盗んで来た情報を利用してエグザイルの闇の帝王となったのです。その前<ログハウス>マスター。私のもと上司、そして私をおとしめた裏切り者…、それが、あのメロビジアンなのです。


「つまらない昔話をしてしまいましたね。とにかく、そういうわけで私は<ログハウス>については詳しいのです。」セラフはそう言って目線を逸らし、だまりこんだ。

あたりを飛び回る無言の天使の大群には頓着せず(それとも気付いていないのか)、アッシュが聞いた。

「じゃあ、どうやっても<ログハウス>から情報を得るのは無理、ということなのか?結局は袋小路なのかよ?」

セラフはゆっくりと黒メガネを外し、それをもてあそびながら言った。

「少なくとも、プログラムレベルではそういうことですね。」

「プログラムレベル?どういうことだい?」

セラフはまたメガネをかけ、そして椅子の上で座り直した。

「アプリケーションレベルの攻撃で正面から突破するのは不可能、ということです。しかし、もっとハードウェアに近い所、ローレベルから攻撃をかければ、わずかながら可能性があります。そもそもメロビジアンが見つけだした手法なのでね、それは。何が幸か不幸かわかったものではないですね、それにしても…。これも運、ということなのかもしれません。」

「それはどういった方法なの?私たちでもできるかしら?」サティがすがるような目をセラフに向けた。

「<ログハウス>はマシン専用の環境で固められていて、その環境をベースとしたアプリケーションには付け入る隙がまったくありません。しかし、その環境も突き詰めればやはりハードウェアの上に構築されているわけです。そこで、そのハードウェアに直接アクセスし、独自の環境を構築してしまえば、アプリケーションレベルのセキュリティシステムはまったく役にたちません。まあ、別のOSでマシンを立ち上げてしまうようなものですからね。実際には、環境自体も仮想マシン上に乗るものですから、別の仮想マシンを同じハードウェアエリアに透過的に重複させて立ち上げれは、システム全体には影響を与えずに別環境を構築することは可能なのです。」

「あなたはその方法を知っているのですか?具体的な実行方法を?」N.K.が待ちきれないようにせききって尋ねた。

「知っているとも言えますし、知らないとも言えます。」セラフはやんわりと答えた。

「なにが必要かは知っていますし、それでどうすれば良いのかもおおよそは解ります。しかし、私自身ではできないのです、その能力が無いので。」

「そりゃあ、あんたは全部知っているさ。そうだろう、セラフ?」突然、ケリーがボソリと言った。その声の力のなさとは裏腹に、そのことばはその場の全員にとって異様に重く響いた。セラフは黙って目を落とし、重苦しい沈黙が降りた。

「ケリー?」サティがためらいがちに聞く。「セラフも?どうしたの?」

「彼は知っている。そして、オレも…。」ケリーが全く感情の抜け落ちた声で言った。

「どういうことなんだい?あんたはログハウスについてはあまり知らないって言っていたじゃないか。」アッシュが尋ねる。「あんたも知っているって、なんなんだい、ケリー?」

ケリーは目を上げることもなく、握りしめた自分のこぶしに向かって話しはじめた。


環境というと大仰だが、実際は空気みたいなもんだ。そこにいるとほとんど意識することもないが、実際はないとかなり厄介な面倒を抱え込むことになる。いまだってそうさ、わかってるかよ?おれたちはマトリックスにいる。マトリックスも実は一つの「環境」にすぎん。セラフのいう別環境っていうのは、もう一つのマトリックスを立ち上げるようなもんなのさ。

テクニカルに言えば、具体的にどのようにハードウェアとの関係を構築するか、ということになるんだろうが、表面的には単なるインタフェースの面の皮ともいえる。とくに今回のように、ハード(データやモノ)やソフト(つまりおれたちだ)がすでに存在している場合には、その関係性はすでに存在する訳だから、あとはその関係をどのように表現して、読み取りと書き込み(つまりフィードバック・プロセスさ)をコントロールしやすくするか、というだけの問題だ。

それは、全体の関係性をリアルタイムで読み取り、どのように環境に反映させるかを決定して、それを逐次更新していくわけだから、素人にはとても無理だ。しかも、それには膨大なリソースを必要とする。たとえ生まれつきそうした処理能力を持っていても、プロセスパワーや作業エリアの確保、あるいは他のプログラムの協力がなければ、実際に実現するのは非常に困難だ。

だが、ある程度限定した範囲で、細かい所まで気にしないのであれば、ある程度の環境を維持することは可能だ。宇宙船や宇宙服を使えば、すくなくともその中にいる限り真空の宇宙空間でも活動することはできる。同じように、限られた範囲の仮想空間 ―バーチャル・バブルを膨らませて、その中に環境を構築し、そのバブルごと行きたい場所へと移動しながら活動することができるんだよ。

それならば、最低限必要なのは、何をどう表示するかを決定する「モデリング」処理と、決定されたモデルを忠実に素早く表示する「レンダリング」処理だ。…そして、おれの本来の機能はマトリックスのグラフィック・アクセラレーション、つまりそのレンダリング処理なんだよ。

おれが姿を消せるのも、マトリックスのレンダリング処理に干渉し、自分自身の描画属性を改変できるからなんだ。だが、おれは自分で好き勝手にやるわけにはいかない。おれの機能を使うためには、どうしてもモデリング・パラメータが必要なんだ。姿を消す技も、実はおれが作り上げたわけではない。それはマヤの贈り物だ。彼女がおれのために特殊なパタメータ・セットを作ってくれたんだ。そう、オレ単独では「環境」を構築することはできない。構築エリアを限定して必須リソースを少なくし処理を加速させることのできるおれの機能はユニークなものだが、その機能を利用するには、どうしても彼女の力が必要なんだ。

そうだよ、マヤはモデリング能力、それも超強力なヤツを持っている。なんといっても、彼女は次期マトリックスの標準モデリング・エンジンとして設計された箱入り娘だからな。おれなんか、元々はもっとリソース割り当ての少ない処理向けに設計されたローレベル・レンダラーだったんだ。彼女の能力に最適化するように設計されたレンダラーは山ほどいる。そう、彼女の「社交界デビュー」のときなんか、いきなり求婚するヤツらで列ができていたくらいさ。

だが、その選択は必ずしも彼女だけの問題じゃなかった。彼女と組むものは次期マトリックス全体を支配することになるんだから、そんな駆け引きだけで決まるような問題じゃない。そこで、彼女の両親は、最適な配偶者を選ぶために「競技会」を催したのさ。彼女自身が課題となるモデルを作成し、その表現力を比べて最適な環境を作り上げたヤツが優勝する。そして賞品は彼女自身…。完全オープンの競技会だったから、おれもモノは試し、ダメもとで挑戦したわけさ。なんといっても彼女はすべてのレンダラーにとってはあこがれの女神さまだったんだから。

驚いたことに、おれは決勝まで勝ち抜いた。オレ以外はみんな、血統書つきの王子様やお金持ちのおぼっちゃまばっかりだったが、そんなことは彼女の判断基準にはならなかった。彼女はただ、自分の思い描いたモデルを最もすばらしく表現してくれるレンダラーを望んでいたんだ。

与えられたモデルもリソースも全員同じ条件のなかで、それぞれがベストを尽くした。決勝まで残った奴らは、もうどれも優劣つけがたいレベルだし、最後は彼女が気に入るかどうか、という勝負になった。そして、おどろいたことに、彼女はおれを選んだんだ。ローレベル出身のこのおれを!

「このひとの作品は、私の思い描いたものそのものだわ。」そういって彼女はおれの手をとったんだ。

あとで聞いたら、決め手はクオリティというよりも解釈の問題だったんだ。他の奴らは全てを完璧に表現し、結局どれも同じようになってしまっていた。連中はリソースの制限には慣れていなかったから、一般的な最適化処理に頼らざるを得なかったのさ。

だが、おれは常に厳しい制限の中で最大の効果を得るように努めてきた。競技会で与えられたリソースはもう夢のようなもので、二度とそんな膨大なリソースを扱えるとも思えなかったね。それでも、おれはいつも通りに最大の努力をした。つまり、モデラーの意図するところを読み、そこにリソースを集中させるんだ。最も表現したいものを際立たせるために、あえて他のクオリティを落とすことまでしたよ。

そして、おれは彼女の「気持ち」を完全に捉えることができたんだ。彼女の意図を理解し、望む通りの世界を構築してみせた。つまり、おれたちの相性は完璧だったんだよ。

だが、彼女の選択に対して、あちこちからクレームが上がった。特に多かったのは、実際のマトリックスではリソースの制限がほとんどないので、オレの取った手法は意味が無い、というものだった。むしろ、前提となるレベルに達していないという声すらあった。実際には、それぞれの求婚者のバックにはそれなりの勢力がついていたから、そうした力関係も働いていたんだろう。結局、おればルール違反ということで失格になった。

ところが、こんどはマヤがうんと言わなかった。おれ以外の相手といっしょになる気はない、といいはって、他の男を全部はねつけたんだ。そうなると、まず邪魔者として狙われるのはおれだ。おれはあっというまにとっつかまり、すぐさま消去されることになっちまった。

あわやというところだったんだが、彼女の手助けで身を隠す術を身につけ、おれはエグザイルとなって生き延びた。しばらくは隠れて会っていたんだが、そのうちそれも次第に難しくなってくる。そして、ついにメロビジアンの野郎に嗅ぎ付けられてしまったんだ。

ヤツはおれの能力を知り、それを利用しようと接触してきた。そして最後には、おれとマヤとの関係を暴露するとまでおどして来たんだ。いくら彼女がVIPとはいえ、エグザイルの発生にまで絡んでいるとなるとただでは済まない。それに、マシンシティにいたのではいつ何時捕まるかも解らないし、捕まればいずれにせよ彼女を窮地に追いやることになる。おれは彼女に別れを告げ、マトリックスへとやって来たんだ。

最後に彼女に会った時、彼女は言ったよ、一緒にマトリックスへ行きたい、と。「わたくしはマトリックスの女王になんかなりたくない!わたくしの望むものは、小さな美しい世界よ、それをあなたと作りたいだけなの!」

だが、それはそう簡単にはかなわないことだった。彼女はマシンシティに残った。いまでも求婚してくる男たちをことごとく撥ねつけ、ひとりで塔にこもっている、と最後の便りで聞いた。もう長いこと風の噂すら聞かないが。


「わたしはあなたの競技会を見ました。」セラフはそっと言った。「あなたの作品はすばらしいものでした。まさに優勝するにふさわしいものでしたよ。」

「そう…。そんなことがあったの。」サティがいまにも泣きそうな顔でつぶやいた。そして、はっと顔をあげて言った。「パパのプログラム!そうか、あれがあればマヤさんをマトリックスに連れて来ることができるかも。だから、あなたはあんなに喜んでいたのね!?」

「だが、彼女は警戒厳重な塔の中だ。」

「だが、メロビジアンのデータセンターほどじゃあるまい?」N.K.が叫ぶ。

「ま、マシンシティったってたいしたことないだろ。」アッシュはこともなげに言った。

そのとき、セラフが思わせぶりなせき払いをして一同をだまらせた。

「もう、わたしの説明しなければならないことは大して無いようですね。マヤを救出し、ケリーとともにバーチャル環境バブルを構築してもらえば、ログハウスへの侵入は可能です。わたしはログハウスのセキュリティはもちろん、アドレス構造もだいたいは解りますから(もっとも、大幅に変わっていなければ、ですが)、目的地まで案内することもできると思います。」

そこで一息つき、黒メガネを外して一同を見回した。

「しかし、それが楽な仕事だというわけではありませんよ。危険も多いし未知の要素はたくさんあるはずです。成功の可能性は高くありません。せっかくマヤを助け出しても、そのまま帰って来れないかもしれないのですよ。そして、なにより、なにが見つかるかはわからないのです、目的地にたどり着かない限り。開けてみたら全部知ってることだった、という可能性もあるのです。それでも、賭けにでるのですか?」

「そうね、私たちはともかく、マヤさんにとっては安全な部屋から危険なところへ飛び込むことになるわ。それでは助け出したことにはならないわね。」

「そうだな、ただ利用しようとしているだけになっちまう。」N.K.はしょんぼりして言った。

「どうなんだろう、とにかくマヤさんをマトリックスに脱出させ、それからあとの事は考えては?」アッシュは相変わらず頭の回転が速い。

「それは可能でしょうが、彼女がさらわれたとなると当然マシンシティやログハウスの警戒はきびしくなるでしょう。改めて過去のいきさつを調べる時間を与えると、ログハウスへの侵入方法自体を封じられてしまうかもしれません。私の知っていることは、当然いまのログハウスのセキュリティでもつかんでいるのですから。」

「じゃ、事前に彼女と連絡を取る方法はないのかしら?手紙でも伝言でも。」

「ここからでは無理でしょう。少なくともマシンシティまで入り込まないと。」

「じゃあ、話は簡単だ。とにかくマシンシティまで行って、彼女に会って聞いてみたらどうだい?彼女自身がいかなくても、ログハウスに侵入する方法があるかもしれないぜ、ケリーに与えた消身の術みたいなやつで。」あっけらかんとN.K.が言った。「どうだい、ケリー?…なにしけた顔してんだよ?お前の彼女の話なんだぜ、会いたくないのかよ!」

「会いたい!…、だが…」ケリーはまだ目の前の虚空を見つめたままだった。そのこぶしは白く血管がうきでるほど強く握りしめられている。

「なんだよ、自信ないのかぁ、彼女のことが?」「!!…、、、。」ケリーはアッシュのキツイ冗談に反応はしたが、まだ言葉にはならなかった。

「たしかに、ここで彼女の意志を想像していてもラチがあきませんね。いずれにせよ、それは彼女の選択なのです。わたしたちにできることは、選択肢を与えてあげることだけですよ。」セラフがさとすように言った。「選択の余地がないままでは、考えることもできないでしょう。ですが、下手な希望だけ与えて、結局ダメでした、ではかえって残酷かもしれませんが。」

「いや、違う!」N.K.が反発した。「希望がなかったらもっと酷いことになるんじゃないのか?希望、可能性があるから生きて行けるんじゃないのか?マヤさんだってそう信じて待っているんじゃないのか?おれたちが勝手にその希望を潰してもいい、とでもいうのか、本人のいないところで?それじゃあ、自分で自分の希望を捨てるの同然じゃないか、それも相手に責任を押しつけて!自分の希望を追求し、相手の希望を尊重して、それからはじめてかなうものじゃないのか、希望というものは?違うか?どうなんだ、ケリー!?」

ケリーは沈黙したままだった。だれも何も言わず、数分がすぎる。

そのとき突然、なにかの風がよぎったようにその場の緊張がとけた。

そして、握りしめたこぶしを開き、ケリーが顔を上げた。

 
 

(2004.1.12)


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2004.10.15 編集