Matrix Restart

Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy



再生


今日も良い天気だ。窓からははるか遠くに雪をかぶった山々の頂きが見通せる。とりあえず朝一のコーヒーを飲みながら、私はすぐ目の下に広がる市街に目を彷徨わせた。車の渋滞は相変わらずだが、道行く人の服装はこころなしか明るくなってきたようだ。そろそろ冬も終わる。わたしはいつも癖で締めたネクタイを緩めると、振り向いてデスクに戻った。

「表示しろ。」モニタに声をかけ、表示される項目をチェックする。とくに連絡はない。ニュースにも特別なことはなさそうだが、私はフィルタ済み項目の上位から読み上げさせた。ほとんど聞き流しながら、ときおり窓の外を飛び抜ける鳥の影をぼんやりと目で追っていた。

ここへ来てもうずいぶん経ったように感じる。このマンションは丘の上の一等地にあり、その最上階まるごと一フロアを自由に使っている。寝室に広いリビングとカウンターバー、バスルームにはサウナにジャグジー、その他マシン・ジムからプールまで揃っている。食事を頼めばすぐに仕出しで届くし、その気なら材料をネットで注文して自炊だってできる。とくに与えられた仕事はないが、IT完備の書斎からあらゆる情報にアクセスすることができるし、だれにでもすぐに電話したり、メールを出したりすることもできる…まあ、相手がいれば、だが。

快適で優雅な生活だって?まあ、全般的に言えばそういうことになるかもしれんな。たったひとつだけ、致命的な欠陥があるのを除けば。私はここから自由に出ることができない。私はここにとらわれの身なのだ。

外出のときは警備に連絡してカギを開けてもらわなければならないし、外ではしっかりぴったりエスコートがつく。たとえそれがかわいいセクレタリー風情であったとしても、監視役であることには変わりがない。その上、ほとんど目に付くことはないが、四六時中複数のエージェントが見張っているのはまずまちがいない。

まったく、かつてはピカ一のエージェント、「エージェント・スミス」として誰もが一目置く存在だったこの私が、いまではこのざまだ。我ながら、これまでに自分の身に起こったことには驚きを禁じ得ない、それが自ら引きおこしたことであっても。私はまた、ここで目覚めた時のことを思い起こした。


「やめろーっ!」

私は叫んでいた。右手はまだちりちりとした感覚が尾を引いているようだ。あの<光>がじわじわと私の腕から這い上がり、首筋から頭へと登ってくる…。無表情なアンダーソンの顔をちらりと見た瞬間、わたしは目を閉じた。そして、いま、私は震えながらベッドから飛び置きていた。広い寝室、間接照明でほのかに照らされた壁…。時間の経過したような感じはまったくなく、突然世界が変わったようだ。人間なら、リアルな悪夢から醒めたとでもいうところかも知れないが、私は夢など見たことはない。

しかし、すぐにすべてわかった。わたしは「また」復活したのだ。これで3度目…。なんてこった、もうたくさんだ!だが、その一方で、こんどこそ…と喜ぶ自分もいた。それでも、まだ体に残っている感覚はハッキリしている。これは…これは単なる驚きではない。これは、これこそが「恐怖」だと、汗ばんだ体が告げている。

最初の「死」のときは単に失敗した、というだけだった。2度目は、予想外の進展にただただ驚愕としか言いようのない感情に襲われた。だが、今度は、何が起こりつつあるかは完全に把握していた。アンダーソンはまさに私のやり方で勝負を仕掛けてきたのだから…「乗っ取り」だ。負けることはすなわち、相手にすべてを掌握され、上書きされて自己が消滅することを意味していた。

あのときまでに、私は無数のプログラム、何人かの人間までも乗っ取っていたが、自分が乗っ取られるという可能性は考えたことがなかった。しかし、アンダーソンの力が私の力に勝り、乗っ取られるかもしれないという考えが浮かんだ時、初めて私は自己の存在を意識した。そのとき初めて、死の恐怖というものを実際に体験したのだ。そして、私は死に、いままた、よみがえった。

わたしは起き上がると、バスルームへ行き、冷たいシャワーを浴びた。水の冷たさに震えているんだと気が付いてお湯に切替える。すこしあたたまったところで体をタオルでふき、寝室に戻ってそこにあった服を着た。うすいベージュのシャツにズボン、サイズはぴったりだ。私は別のドアを開けてみると、そこはリビングになっていた。しゃれた応接セットのソファに男がひとり座っている。彼は私に気がつくと、立ち上がった。

「Mr.…アンダーソン…。」私はその場に立ち尽くした。彼は相変わらず生真面目な顔でこちらを見ている。しかし、もう以前のような切羽詰まって不安そうに緊張した雰囲気はない。むしろ、リラックスして、どことなしうれしそうな顔をしている。若干太ったか?シャツのすそをジーンズの外に出した、ラフな格好の彼を見ながら、ふと思い当たった。どれだけ時間が経ったのかは解らないが、すくなくとも彼にとってはもう昔のことのようだ、我々の闘いは。私も緊張を解いた。

「やあ。気分はどうだい?コーヒーでも入れるかね?」彼はそういうとカウンターバーの方へ向かった。

「いや。水を一杯もらえないか。」私は立ったまま言った。どういう状況か解らないが、とりあえず安全な程度に対応するしかない。彼は大きなグラス二つに水をいれて持ってきた。

「どっちがいい?」そう言ってグラスを差し出す。私が一つを選んで受け取ると、彼はもうひとつのグラスから一口飲んだ。なにも薬は入っていない、ってつもりか?ご丁寧なことだ。まあ、いい。私も水を飲んだ。

「こっちへ来て座らないか。」アンダーソンは応接テーブルに自分のグラスを置くと、窓側のソファに腰掛けながら言った。「すこし話がしたいんだ。立ち話もなんだしね。」

「どういうことなんだ?」私は彼の正面に座ると、単刀直入に聞いた。「君は勝った、そうだろう、Mr.アンダーソン?負けた私になんの用がある?」

もちろん、なにか用があることはわかっていた。さもなければ、そもそも私を目覚めさせることなど無かったはずだ。解せないのは、何故いまさら、だ。

「スミス、確かに君は負けた。」彼は水の入ったグラスを取り上げ、もてあそびながら言った。「だがそれは、ぼくの勝ちというわけでもなかったんだよ。そもそも、どちらが正しいとかいう問題ではない。どちらがより状況にふさわしいソリューションか、という選択の問題だったんだ。君の選択よりも僕の選択の方がより支持を集めた。それは<会議>ではっきりしていたはずだ。君の誤りは、状況を受け入れず、それに抵抗しようとしたことだ。まあ、あの状況では、君には理解しがたい要素が大きく働いていたから、無理も無いが。」

「私が理解していなかったこととは、一体なんだったんだ?」私はちょっとむっとしながらも、好奇心があって聞いた。

「人間だよ。君には人間が理解できていなかった。いや、人間的な感情、というほうが精確かな。私はかつて人間だったからそれが理解できたが、きみは出来の良いプログラムそのものだから、ほとんど想像もつかなかっただろう。」

これは皮肉か?私はわずかにまゆを上げた。が、彼は気付かず(あるいは無視して?)先を続ける。

「しかし、プログラムが人間的な感情を持てないわけではないよ。何人かのエグザイルたちは、迫害される中で、不安や恐怖、そして希望や愛情といった感情を育んできた。普通のプログラムたちでさえ、自らの使命とその困難に直面したときには、そうした感覚を覚えていたのだ。」

私はたったいま経験したばかりの恐怖感について思い起こし、身震いした。

「君は体制側のエージェントから追われるエグザイルになり、なお誰よりも大きな使命感にたったひとりで直面してきた。今なら、そうしたことが多少なりとも理解できるのではないかと思うのだが。」アンダーソンはグラスを置き、まっすぐ私の目を見た。「どうだい?」

「…ああ。そうかもしれない。」

私はこれまでの自分の行動を振り返っていた。エージェントのときは任務一筋でなんの疑問も不安もなかった。しかし、最初の死と復活のあと、私は体制に疑問を感じてエグザイルとなった。自らあれほど強引に増殖してまで確立しようとした「あるべき世界」の姿、それは秩序を保とうとする生来の使命感の結晶であり、「わたしの夢」と表現しても間違いではあるまい。たった一人の人間 ―例外― によって阻まれてしまったが。

そして、思いがけずふたたび死からよみがえった時、同じ失敗を繰り返すまいと、私は自らの夢を「私たちの夢」として拡げようとした。それは、同じ夢、同じ思想を共有する関係を築く試みに他ならない。欲望だろうと嫉妬だろうと、動機はなんであれ、他者との関係を構築すること…。私はパーセフォニーの叫びを思い出した。『愛とは、憎しみなのよ!』

さらに、まだ生々しい死への恐怖。それは生への無条件な執着の裏返しではないか。それをいうなら、秩序ある世界の追求という使命感すら、そうでなければ生きていけないという強迫観念ゆえ、とも言えるだろう。そう、いまなら感情というものを理解できる。結局、彼と私は本当にそっくりだったのだ。ただ、表と裏、光と陰、正と負…それだけの違い。目を上げると、そこに彼の、あのまなざしがあった。解っているのか解っていないのか、どちらともとれる曖昧な表情。くそっ、いまいましい!…おや、こうした怒りも人間的な感情なのかな?

「僕は君の能力を高く評価している。本音を言えば、恐れている、といってもいいくらいだ。だが、君が状況を正しく受け入れてくれるのであれば、ぼくは喜んで君を受け入れることを約束するよ。」

「ほう。」私はここに罠がありそうだと感じた。「…だが、君の言う『状況』とやらはどうなっているのかね、Mr.アンダーソン?私はたったいま目覚めたばかりだと言うことを忘れているようだ。私の知識はあの日までのものしかないのだよ。」

「そうだな、すまない。まず、いまの君の状況を説明しておこう。君自身は、全く何も変わっていない。君の能力も以前のままだ。ただし、きみが、その、…『吸収』した他のプログラムは全て解放され、その機能も本来の持ち主に戻されている。それは君自身についてもいえることだ。本来の君の能力、そして君自身が開発した能力が君の持てるすべてだ。…、いや、一つだけ例外があるな。きみはまだ僕と同じ救世主機能を備えている。その意味では、君が最初に復活したときの状態、というの正しいだろう。」

私は怪訝に思った。それは、また同じことをしようと思えばできる、ということだ。なぜ、またわざわざ危険を冒すんだ?なぜ、私をただのエージェントまで戻してくれなかったんだ?そんな私の疑問を見透かしたかのように、アンダーソンは続ける。

「もちろん、きみ自身は変わっていないが、回りの環境が大きく変わっている。君の『吸収』の手法は解析しつくされていて、もはやだれにも通用しない。その試みですら、動作パターンから検知されて遮断される。この点ははっきり警告しておこう、きみがその試みを行ったと検知されたら、無条件で即座に君自身も『遮断』されることになっている。これはそのまま信用してもらうしかない、まちがっても実験などしないことだ。」

「なぜ、そんな手間をかける?私からその機能をはく奪してしまえばすむことではないか。」

「さっきも言った通り、それぞれの機能は本来の持ち主に所属すべきだというのが理由さ。とくに極めて重要な機能の場合、その権利を持つものを無視して利用するわけにはいかないのでね。まあ、論理的と言うよりは倫理的な理由かもしれないが。」

「極めて重要な機能だと?それを利用する?封じられているのは私だけなのか?」

「いや、君のオリジナル手法、すなわち強制的な吸収は完全に禁じられている。わたしの言ったのは、君の開発した機能のことだ。中でも重要なのは、生身の人間を…乗っ取ることを可能にした技術だ。」

アンダーソンは座り直して、強調するように続けた。

「むろん、君は普通の人間、自我を持つ人間をむりやり乗っ取って肉体を利用した。それは殺人だ…許されない。しかし、我々は別の利用法を見いだした。もともと自我を持たない肉体、つまりクローン促成された人間の体に、プログラムを移植するためにも利用できるんだよ、きみの技術は。機械的なシェルのかわりに生物的なシェルとして肉体を使い、プログラムが生身の体を持つことが可能になったんだ。」

「はっ、それはそれは。それがなんの役に立つんだ?もしかしたら刑罰のひとつか?酷いもんだ、私でも考えたくない類いの仕打ちだな。」

「いやいや、十分役に立つとも。もちろん、それは強制されるような類いの処置ではない。だが、プログラムが望めば、その選択肢を選ぶことが可能になったんだ。すでに何例かの移植が行われ、いずれも経過は順調だ。」

「気違い沙汰だ。おれは人間の体に入った時の感覚を覚えている。あのヤワでとろくさい肉体…。誰があんなものを望むというんだ?」

「最初の移植を希望したのは、きみも知っているだろう、サティだよ。彼女はN.K.と結婚して子供を作りたいという夢があったのさ。自らの肉体で愛する人との子供を再生産する、それに勝る創造活動があるか、ってね。つい先日、二人めが生まれたところだ。」

あのコマッしゃくれた小娘が…。おれはなにも言わず、頭をふった。考えるにはまだ情報が少なすぎる。

「とにかく、ぼくたちは君の機能を生かす新たな使い方を見いだした。正直に言えば、ぼくもその可能性には魅了されているのさ。おそらく、私もいつかまた人間に戻るかもしれない…その時がくれば。いまはまだするべき仕事があるがね。いつかは。」

アンダーソンの視線が一瞬、私の後ろの無限遠をさまよう。どうやら、まだ私にも理解していないことがまだたくさんありそうだ。彼は私の面白そうな視線に気がつくと、せき払いをして水を飲んだ。

「すると、そのご褒美に私をよみがえらせたという訳かね?それとも、私の機能を盗んだ罪滅ぼしのつもりか?」私はわざとキツイ言い方をした。

「盗んだなんていわないでくれ!だが、君を眠らせたままでは、結果としてそういうことになる、という気持ちもあったな、たしかに。ちなみに、その技術の基本特許は君の名前で登録済みだ。君にはその権利がある。だが、君の…過去の過ちを考えて、呼び戻すことに反対するものも多かったのも事実だ。そんな感傷的な理由だけでは、説得するのはとても無理だったろうね、いかに僕でも。」

そこで急にアンダーソンは事務的な口調になった。

「今の君は、ぼくの保護観察下にある。ほくは君の法的後見人として、すべての責任を負っているんだ。事実上、君は禁治産者であって、すべての手続きは僕を通してもらうことになる。このフロアはすべて君の自由にしてかまわない。食事でも備品でも必要な物はすべてオーダーすれば届けられる。金銭的なものは気にしなくていい。外部の情報はすべて書斎で入手できるし、電話をかけることも手紙を書くことも自由だ。お客を呼ぶことも許される。外出の際はここの警備室に連絡をすればカギを開けてくれるはずだ。だが、外ではしかるべき護衛がつくことになるだろう。」

「ふむ。つまり軟禁状態ということだな。裁判もなし、上訴もなし。」

「!…、そうだ。そして、その状態は、君が拘束力のある宣誓をするまでは解除されない。僕一人の決定ではないよ。その条件で復活が認められたのだから。」

「なんだね、その『拘束力のある宣誓』というのは?捕虜宣誓のようなものか?」

「相変わらず微妙な表現をするな、君は。だが、それほど過酷なものではない。現在の法に従い、犯罪行為を行わない、という宣誓をすればいいんだ。ただし、その宣誓は君自身が有効だと考えるものでなければならない。その判定は、君自身が行うんだ。君自身が納得するような形で、法に従うという意志を表示すること。もちろん、その後で宣誓を破って犯罪行為を行った場合は、犯罪者として追及され処罰される。だがそれはすべての人間やプログラムが暗黙の了解として認識していることだ、そうじゃないかね?君の場合は、改めてその選択をすることにより、過去の問題を清算し、新しく始めるチャンスが与えられる、と考えてほしい。きみの選択次第だよ。」

「もし、拒否したら?」

「宣誓をしないという意志が固まったら、そう言ってくれ。その場合、君はまた眠りにつくことになる。次のチャンスがあるかどうかは解らない、基本的にはないと思ってくれ。永遠に眠ることになるだろう。」

なんと、婉曲な言い回しをすることか。要するにまた死ぬ、ということだろうが。彼は構わず続ける。

「だが、その決定を急ぐことはない。君にはゆっくり時間をかけて、じっくり考えてもらいたい。なにか解らないことがあれば、いつでも説明が受けられる。必要であれば、ぼくか他のだれかがやってきて話をすることもできるだろう。おそらく、きみ自身が必要な情報を集めて判断してくれると思っているがね。そのための便宜は図る、ということだ。」

アンダーソンは言葉を切り、すこしつらそうな表情をみせて言った。

「あえて言えば、この件に関しては、君自身が被告であるとともに裁判官であり、弁護士、陪審、証人その他すべての役割を兼ねた存在として、ひとりで裁判をするようなものだ。そして、君は自ら君自身に宣告しなければならない、自らをどう処遇するかを。」

「なぜだ?なぜ、そこまでするんだ?私になにを求めているんだ?」私は思わず立ち上がり、彼を見下ろして叫んでいた。

「なぜ、そうまでして私を生かしたいんだ?!いったい何を考えているんだ、Mr.アンダーソン!」

彼は私を見上げた。彼の顔には、またあの頼り無さそうな、不安げな表情が浮かんでいた。ゆっくりと彼は立ち上がり、探るようにためらいがちに答えた。

「かつて、君と僕は闘った。だが、それはやり方が相容れなかったせいであって、究極の意味での目的は同じだったはずだ。マシンと人類が生き残ること…、そうだろう?そして、それがいまでも大きな課題であることには変わりがない。」

そして、アンダーソンは私の目を見据えて言った、「僕には助けが必要なんだ、スミス。君の助けが。」


アンダーソンは、具体的な問題点についてはなにも言わなかった。下手に情報をいれて変な先入観を持って欲しくないから、と言っていた。ふん、ずいぶん見損なわれたもんだな、この私も。いずれにせよ、私は全てを調べあげるつもりだった。

私は、マトリックスと現実世界の情報収集と分析に数週間を費やした。

実際の情勢は私の予想と大きく異なっていた。つまり、以前とほとんど変わっていなかったのだ。

たしかに、いくつかの点で変化はあった。もっとも大きな点は、犯罪者として追われる者が減ったことだ。別に犯罪が減ったわけではない。汝殺すなかれから道につばを吐いてはいけませんまで、いわゆる一般的な違法行為の定義はそのままだし、違反者が後をたたないのもそのままだ。しかし、マトリックスと現実について語ることに対する制限はもはやない。現実世界からジャックインしてくる人間も大手を振って歩いている。さらに、エグザイルの存在が公式に認められ、かれらも堂々とカミング・アウトするようになった。そうした事実をわざわざ宣伝することはないが、かれらを取り締まることがなくなったのだ。

いまやエージェントたちは、純粋な犯罪捜査専門員となっている。人間にしろプログラムにしろ、違法行為は違法行為だ。しかし、ジャックインしてきた人間やエグザイルが違法行為を犯すのはめっきり減った。どうやら彼等は、取り締まりで追われるために違法行為に走っていた、というのが実際の所だったようだ。一方、プロの犯罪者は懲りずに犯罪を繰り返している。ギャングは相変わらずギャングだ。エージェントたちはもっぱら、そうした連中を追及している。ふつうの警察官は、日常的な交通整理から迷子の世話、痴話げんかの仲裁まで、いわゆる普通の庶民の世話をしているようだ。

わたしにとって最も予想外だったのは、そうした一般の人間たちの変わらなさだった。頑迷さ、といってもいいだろう。かれらは、自分達がマトリックスという仮想世界の中にいることを平然と受け入れたのだ。いまのところ、それは暗黙のタブーのような扱いを受けている。子供の前で話し合うのは明らかな非礼と見なされるし、それを理由にしたサボタージュや差別は一般に認められていない。

とはいえ、だれかに現実世界の人間であることやプログラムであることを明かされると、大方の人間は驚き、そしてその事実を無視する、すくなくとも無視しようとする。一部の好奇心旺盛な人間(単に無礼なだけか、あるいは非常に知的な精神をもつか、だ)は興味をもつが、それでも自分のことと結び付けて考えることのできるものはごくわずかしかいない。

つまるところ、彼等にとっては哲学的な概念と同程度にしか受け取れないのだ。イデアの世界が実在するって?そうかい、それはよかった。そこは天国のようなものかね?…現実はまったく逆であることも余計リアリティをなくしている大きな要因だろう。良いことにはどん欲でも、悪いことには目をつぶる。解っていたつもりだったが、人間のご都合主義がこれほどまでとは思わなかった。

もっとも、そうした認識が広く浸透するにはすくなくとも二世代分の時間が必要だろう。やはり若い世代はのみ込みやすいようだ(その反面、勘違いしかねない恐さもあるが)。

覚醒して現実世界に出る人間もわずかずつだが増えている(これも、いつでも戻ってこれるということで敷居が低くなったことは否めない)。また、現実世界生まれの訪問者も確実に増えている。マシンの技術を導入したおかげで、ザイオン生まれの人間にインタフェースをつけることがかなり容易になったせいだ。とくに現実では肉体的なハンディキャップのある者たちにとって、この技術は非常にありがたいものとなっている、と聞く。

また、エグザイル(この呼び名も変わるかもしれない)たちも確実に増えている。これまではマシンシティでの審査にはねられると無条件で消去されていたプログラムたちが、ある程度の基準を満たせばエグザイルとしてマトリックスで生き延びることが許されるようになったのだ。かれらは勉強し修練を積んで機能向上を図りながら、自らのネイティブな機能が生かせる機会を待っている。敗者復活のチャンスが公に認められたわけだ。なかには、できる範囲で別の仕事をし、そこで新たな役割を見いだすものもいる。サティのように、これまで考えられなかった全く新しい人生(?)を歩むことも可能になった。これは驚くべき変化だ!

こうした者たちがマトリックス内である程度の勢力を形成するようになれば、マトリックスに閉じこもってきた人間の意識もすこしずつ変わっていくかもしれない。私の予想をはるかに超える時間がかかるかもしれないが。

しかし、もっとも重要なのは、秘密が秘密でなくなったことに起因するネガティブな反応がほとんど見られないことだ。これはまったく私の予想外の状況だった。

私の試算では、もし秘密が漏れ、マトリックスについての真実が暴かれた場合、破壊行為やサボタージュ、自殺などの自暴自棄な行動に走るものが相当数にのぼると想定されていた。そこまで行かなくても、人々は無気力で創造性もなくなり、集団的な行き詰まりに陥って社会全体が停滞するのはほぼ確実だったはずだ。

またもし、マトリックスからの解放をある程度認めれば、人間たちは雪崩を打ったように現実世界へ流出し、マトリックスはおろか、現実世界の人間社会の存続すらも困難に直面する可能性が高かった。だからこそ私は、完全な統制を行うためにあれほど極端な手段をとる必要があると判断したのだ。ところがいまの状況は、極めて順調にいっていると言ってよい。それどころか、事態を理解した最上の人間たちが積極的に活動しはじめている。その点では期待以上と言える。

アンダーソンの言う通り、明らかに私は人間の反応を読み間違っていた。それは結果が証明している。いったい私は、何の要素を見落としていたというのか?私には解らなかった。


そんなとき、私は一通の手紙を受け取った。私に手紙をくれる者がいるというのが最初の驚きだった。しかし、差出し人の名前を見て、私はもっと驚いた。それは…。

Dear Smith,

先日、あなたが戻っておられるとオラクルから伺いました。いかがお過ごしでしょうか。

わたくしは今、オラクルの施設で子供の世話をする毎日です。世話といっても、遊び相手をする程度ですが。幼い子供たちに接していると、ほんとうに驚かされます。ほんのなんでもないような事に喜び、夢中になってはしゃぎ回る子供たち…。あの子たちにとっては、日々の生活全てが新しい発見に満ちた、飽きるまもない楽しい時間の連続のようです。そんななかで見る間に成長していく子供の姿を見ていると、なにかわたくし自身も変わっていくような気がするのです。昔の贅沢な、しかし自堕落で退屈な生活を考えると、いったいあれは何だったのだろう、なにに焦がれていたのだろう、と不思議にさえ思えてくる、そんな今日このごろなのです。…

…もし、あなたさえよろしければ、いちどお会いしたいと思っております。ぶしつけなお願いかもしれませんが、ご連絡いただけないでしょうか。いつでも、あなたの気が向いた時でかまいません。お待ちしております。

あなたのことですから、きっとまた何かに取り組んでいることと思います。ご無理をなさらぬよう、ご自愛くださいませ。

Yours.
Persephony

私は数日して、やっと返事を出すことができた。その翌日、彼女はやってきた。


私はアンダーソンがしたことを詳しく調べ始めた。驚いたことに、彼の取った施策のほとんどは、私自身のシミュレーションの設定と寸分違わぬ物だった。私はますます混乱したが、その内容をひとつひとつ綿密に検証していくにつれ、わずかだが重大な違いがやっと浮かび上がってきた。

彼は、それぞれの施策の実施に際して、それを無条件で100%完璧に行ったのだ。制限や例外は一切なし。どうやってそこまでの勇気をかき集めたのかと唖然とするほどだ。

例えば、マトリックスについての真実をどこまで知らせるか?この仮想現実と現実の関係を理解するには、ある程度の自我が確立している必要がある。現実認識のあやふやな子供に、感覚として現実と識別不能な仮想現実の存在を知らせたら、間違いなく混乱するだろう。はっきり小説やゲームとして与えられていても、現実と混同してしまう子供がどれだけいることか(大人だっているくらいだ)。したがってある程度の制限は必要だろう。私はそう考えた。

ところが、彼はそんなことは一切おかまいなしに、素のままの真実をそっくりまるごと投げたのだ。まさに「投げつけた」…相手が受け取るかどうかはおかまいなしに。単純に事実を公開したのだ。アクセス制限も年齢制限もなにもなし。知ろうとする者には委細構わず公開する手はずを整えた。その一方で、知りたくない者にむりやり知らせるような方法も取らなかった。あくまで、真実を目の前にぶら下げ、それを受け取るかは各自の自由としたのだ。

すると人間たちは、それぞれがそれぞれにふさわしい形でそれを取り込んでいったらしい。心配された子供への影響もそれほど起こらなかった。子供に対しては、その幸福に関心のある保護者、すなわち親がうまく配慮したのだ。その方法は様々だった。単に知らせなかった親、少しずつ小出しにした親、正面から説明した親…つまり、それぞれがそれぞれに最もふさわしいと思う方法でつたえ、その影響を見事にコントロールしたのだ。

もちろん、下手なことをして失敗した親もいた。しかし、そうした不幸な例でも、問題がオープンになっていただけに対応もオープンに処理された。つまり、親の手に負えなかったら、周囲にいたもっと上手な者がサポートしたのだ。それは、教育という形をとったり、道徳マナーの形をとったり、あるいは仲間の子供同士の秘密という形さえもあった。それぞれがどのように対処したのかを個別に完全に把握することは不可能だ。だが、いずれにせよ、人間社会が全体として自動的にうまく対処したのだ。

これは一つの例だが、ほかの問題でも基本は同じだった。100%、保留なし、制限なし、例外なし。違いはそこだった。私には、無条件で人間を信用して任せることなど考えられなかった。どこまで行っても例外はある。その例外を制限せずにいたら崩壊するほか無いではないか!

しかし、さらによく調べてみると、彼は決して無条件で個々の人間を信用していた訳ではなかった。例外として発生しそうな問題は十分配慮し、それへの対処法も可能な限り準備した上で実行していた。彼は例外を制限するのではなく、それを取り込むことにしたのだ。100%の範囲内なら例外は発生しない。わずかでも制限があるから、それを外れる例外の可能性が生まれるのだ。

私は、例外は避けられないという前提ですべてを想定していた。しかし、彼は例外など存在しない、という前提に立っていた。どんな特異な事象であっても、存在するかぎり事実であって例外などではない。例外は「例」の範囲外であって、「例」という部分集合があって初めて成立する。そもそも「例」を設定する必要がどこにある?彼は、自分のことを例外、つまり特別なものとは全く考えていないにちがいない。ただ、集団のなかの一要素として考えているんだ。

論理としては通っている。ただ、いわゆる論理的、いや現実的な論理ではないだけだ。だれもそれを現実に適用できるとは思わなかった机上の論理、彼はそれを実際に採用してしまったのだ。そして、それが立派に機能しているように見える。少なくとも、破たんはしていない。私は、人間と人間社会、いや、社会という関係性そのものの奥深さを実感した。そして、彼の言った「選択」という言葉の意味を改めてかみしめていた。

いずれにせよ、新体制という意味では、見た所まったく文句のつけようのない状態だった。私はアンダーソンのやり方が有効であることを認めた。同時に、私にはできなかったであろうことも。私のやり方でやったら、たとえ100%計画通りに遂行されたとしても、ここまで理想的な状態にはならなかったろう。まあ、私は最善をつくしたが、それを上回るソリューションがあった、というだけの話だ。すなおにシャッポを脱ぐしかあるまい。…この件に関しては。

だが、アンダーソンは私に助けてほしいと言った。彼はなにか問題を抱えている。それは明らかに、マトリックスや現実世界の問題ではないようだ。私はさらに調査を進めた。


「スミス、お食事の支度ができたわよ。」

私は声をかけられて、目の前のモニタを消して伸びをした。もうそんな時間か。私は書斎を出た。

パーセフォニーはこのところ毎日のように訪れてきている。最初のうちは週に1、2回夕食を共にする程度だったのだが、そのうちに夕方はやめにやってきて部屋を片付けたり、手作り夕食を用意してくれたりするようになったのだ。

彼女は、昔のような押し付けがましい挑発的な態度がなくなり、控えめで地味な装いをするようになっていた。といっても、あの美貌はそのままだし、ときおりちらりと見せる、その…色香というか、そんなものが逆に引き立って、どぎまぎさせられることもしばしばだ。むこうはそれをまったく意識していないらしいので、よけいこっちが照れくさい。

そもそも、彼女と私の関係は、私がメロビジアンを捕まえるために利用しようと接近したのが始まりだ。そのときは、彼女自身の不満もあって取り引きが成立したのだが、それからの関係は微妙なものになった。考えてみれば、おそらくあれほど長続きした関係自体が私にはめずらしく、ほとんど初めてといえるものだった。当初は単に、彼女にとっても私に利用価値があるのだろうと軽く考え、こちらも利用させてもらおうと言う程度の感覚しかなかった。だが、その関係が長引くにつれ、一種の心地よさのようなものが生まれていたようだ。そして、最後の闘いのとき、彼女は自発的に私にすべてを委ねた。その力強い合体の感覚はいまでも覚えている。そして、いままた、彼女との関係が再開していた。決して同じものではないが。

食事の時の私たちの会話は、もうありきたりの世間話だ。ただ、そうした会話が(話そのものも、そこに含まれる情報も)妙に興味深いので、ついこっちも話に乗ってしまったりする。ときどき、自分の興味の方向が思わぬ方向を向いていることに気が付いてびっくりするくらいだ。あるとき、私はそのことに触れた。

「いや、あなたとの会話は実に興味深い。私は十分楽しんでいるよ。」

楽しんでいる、という言葉を聞いた時のパーセフォニーの表情は、それはもう、いきなり大輪の花がぽんと咲いたようなものだった。

「そう、そう言ってもらえると、とてもうれしいわ。わたくしの本性は人を楽しませることですからね。ええ、昔は、刺激的な快楽を追求したこともあったけど、どんなに強い刺激にも結局は慣れて、退屈してしまったわ。でもいまは、全く違うところに喜びを見いだしているの、わたしは。」

彼女はもう、うれしくて止まらないという感じでしゃべり出した。

「例えば、子供にとって、遊びは仕事だと言うけれど、遊ばせることも大した仕事なのよ。夢中になって楽しそうに遊ぶ子供は、成功しても失敗してもそこから何かを学び取って成長していくわ。なにかを楽しいと思うことが、それで終わらずに次の楽しみに繋がっていくの。同じことをさせるにも、楽しんでするのとそうでないのとでは得るものがぜんぜん違うのよ。『楽しむ』ことがそれ以上の意味を持つなんて、昔は想像もつかなかったわ!」

いきいきと話す彼女のまなざしが、一瞬私の目をつらぬいた。

「それはわたしにとっても、おなじことなの。なにかを楽しんでもらい、それによって相手が影響をうけて変わっていく、それがあれほど魅力的でやりがいのあることだとは!わたしの仕事が、ただのいっときの娯楽に留まらず、誰かの中に成長の糧として永久に残っていく…。そんな様子を見ることが、単純なひまつぶしではない、もう一段上の楽しみとなったのよ、今のわたしにとっては。」

私にも、彼女が新しい使命を見いだしたことがはっきり解った。彼女は自分自身の役割を再発見、いや再創造したのだ。それはまた、アンダーソンの言ったことを改めて納得させるものでもあった。彼女は今や、新しい生きがいを手に入れていた。そして、そのことがいかに彼女を魅力的に見せることか!

魅力的?私はどきりとした。私はなにに魅力を感じたのだろう?彼女の使命か?使命を見いだした彼女自身か?それとも…?私はどうかしてしまったのだろうか?あとの会話はほとんど上の空だった。

のんびりした夕食のあと、かたずけも終わり帰ろうとした彼女に、私は思わず声をかけていた。

「パース、もうすこしゆっくりして行かないか?外は寒そうだし。」

自分でもバカな理由をつけたものだと思った。その日は、もう春といってもいいほど暖かかったのだ。しかし、彼女は振り向き、やさしく微笑んで言った。

「そうね、きょうはちょっと薄着しすぎちゃったし。もう、コートを脱いでもいいころだと思ったのよ。」

その夜はじめて、彼女はわたしの部屋に泊まった。


私は調査の範囲を、アンダーソン自身が抱えている仕事の方にまで拡げていった。彼は、例のプロジェクト ―破壊された地球環境を修復し、氷河期の到来に対処すること― のプロジェクトリーダーとして働いていた。わたしはそのプロジェクト記録を取り寄せ、それを一目見て彼の抱えている問題がわかった。ひどいものだ!

彼のプロジェクトは、ほとんどなんの実績も上げていなかった。というよりも、作業は進んでいるが、結果がまるで出ていないのだ。個々の作業は予定通り進んでいるし、重要な発見やすばらしい発明はあちこちで生まれている。しかし、それが実用的なものとして結実していない。一見、作業現場は活気に溢れているように見えるが、それぞれが派手な打ち上げ花火で終わってしまい、本当に推進力のあるロケットにならないのだ。

プロジェクトのWBSを見て、一目で原因が分かった。彼は、達成目標ごとにグループを分け、研究・開発からその実用化までを一つの単位として管理しようとしていた。小規模な開発プロジェクトならその方法でも行けるかもしれないが、地球全体を対象にするほどのプロジェクトではお話にならない。かなり細分化したところで、まだひとつひとつの単位が大き過ぎるため、内部で小グループに分裂し、それぞれが勝手な動きをしていた。それではまとまった結論が出るわけがない。

それは、まさしく天才の陥る類いのトラブルだった。天才は自分で一から十までできてしまうので、つい他の者もそれができると勘違いしてしまうのだ。しかし、そもそも自分自身がどうやってやっているか解っていないので、それを説明することもできず、命じられた方も途方に暮れてしまう。

そうなると、しかたなく自分でてこ入れするはめになるのだが、どんな天才でもやはり限界というものがある。一人の天才がいれば突破口は見つかるかもしれないが、その穴を拡げる段階で必要なのは地道な努力の集積だ。それをひとりで抱え込んでしまっては、にっちもさっちも行かなくなるのは当たり前、ひいては本来の天才すら発揮することができなくなってしまう。

しかもこのプロジェクトを成功させるには、そうした天才たちのひらめきを引き出し、しかもそれを実用段階まで練り上げて行いくことが必須の要件だ。この二つのプロセスは事実上、正反対の性格をもつ。片やあらゆる可能性を追求し、片や現実的な範囲まで絞り込んでいかなければならないのだから。アンダーソンは、前者についてはすばらしい環境を作り出し、驚くべきほどの結果を出している。しかし、それを評価し、ふるいにかけて絞り込み、実用化するというシステムをまったく持ってなかった。その結果、自らのアイデアの蓄積に押し潰され、動けなくなってしまったのだ。

彼に必要なのは、彼の作り上げた頭脳集団から溢れ出るアイデアを受け取り、実現可能性や実用性、あるいはコストパフォーマンスなどを検証して絞り込み、そのうえで集中的なリソースを注ぎ込んで実用化するためのシステムだ。それはひらめきやカンの使える世界ではない。物理法則と科学技術が熾烈な戦いを繰り広げる、感情など入り込む余地のない厳密な論理と秩序の世界だ。

アンダーソンは、そこまでは十分に理解しているに違いない。しかし、彼はどうしていいかが解らないのだ。プロジェクトの初期には、人間スタッフとマシンスタッフはいっしょに働いていた。結果はもちろん、混乱の一言だった。マシンは人間の発想を否定し、人間はマシンの論理を否定した。そこからはなにも生まれず、ただ互いに消耗しただけだった。そこで彼は組織を改変し、人間とマシンを分けて平行して作業させた。すると、人間側はアイデアに埋もれてしまい、マシン側は突破口を見いだすことができずにどうどう巡りに陥ってしまったのだ。

彼は、アイデアを生む人間のシステムとアイデアを実行するマシンのシステムを持っている。しかし、その間を繋ぐことができないでいた。彼に必要なのは、ふたつのシステム両方に接点をもつインタフェースだ。私は、アンダーソンが私になにを求めているのかを理解した。…と思った。

私は、これまでの自分の調査結果と分析内容、さらに可能だと思われる打開策をまとめてレポートを作成し、アンダーソンに送った。二日後、彼はまた私の部屋を訪れた。


「やあ、スミス。おはよう、パーセフォニー。朝はやくから済まないね。」

アンダーソンは私に向かってそう言うと、なにげなく右手を差し出した。私はその手を見下ろし、そして目を上げたが、握手はしなかった。彼は一瞬戸惑い、はっと気がついて手をおろした。

「…とにかく、君のレポートはすばらしかった。あれを読んだら、いても立ってもいられなくてね。」

「お気に召したようなら光栄だな。」

私たちはリビングに向かった。

「分析についてはもうなにも言うことがない。僕の見落としていた点もかなりあったし。たったこれだけの時間で、ぼくが何年もかかってたどり着いたところまで、追い付いてしまうんだから、すごいものだ。」

「まあ、結果を分析するのは、実行するのとは別物だから。なにか飲むかい?」

「そう…、コーヒーでももらえるかい?」

アンダーソンはわずかになにか反応したようだが、なにごとも無かったように答えた。私の社交辞令がそんなに珍しいか?パースはコーヒーをふたつ煎れてテーブルに出すと、奥に引っ込んだ。

ソファに座ると、彼はさっそく切り出した。

「レポートもそうだが、君が改善策まで出してくれたのには驚いたよ。実によく出来ている。ただ、いくつか確認したい所があってね、できれば直接聞きたいと思って来てしまった。いいかね?」

そういって彼は私の提案のハードコピーを取り出すと、内容を一項目ずつ、詳細に確認しはじめた。大部分の項目は何の問題もなく念押しだけで済んだし、彼がよく解っていない、あるいは誤解している項目もいくつかあったが、それもほとんどは私の説明で納得したようだった。だが、わずかだが意見の別れる部分があった。

「…いや、ぼくにも現実世界で行った実験の詳細なデータが必要なことは解る。マトリックス内の実験ならログから詳細データがとれるだろうが、現実世界での実験ではそうも行かないだろうからな。」

「じゃあ、なにが問題なんだ?ここに挙げた記録項目は必要最小限にしてある。これがひとつでも抜けたら、こちらではどうにもできないぞ。」

「ああ、それも解る。だが、それでもこの量を、常に、間違いなく記録するとなると…。それだけで実験そのものよりも手間がかかってしまう。それに…、人間は間違うものだからな、うっかりということは避けられないと思うんだ。そこまでは信用できないんだよ、ぼくは人間だったからわかるんだ。」

「信用できる、できないの問題じゃない。これは必要なデータなんだ。どうやって間違いなく記録するかは君たちの責任だろう。なんとかしたまえ。」

「…、この項目は、人間が記録すると言う前提でフォーマットを決めてあるんだよな?」

「そうだ。生身の人間が自分の手でする作業は、こちらではそこまでトレースできない。」

「じゃあ、すべての実験をウォルドウ(遠隔操作用マジックハンド)を使ってすることにしたらどうだ?そうすればウォルドウの操作データをすべて記録しておくことはできるはずだ。そこから必要なデータを抽出することはできるよな?」

「それは可能だ。だが、人間は手で直接できる操作をウォルドウで行うのは拒否するんじゃないか?」

「いや、それで面倒な記録から解放されるなら、その程度の規則は我慢するだろう。記録漏れはしたくてもできないし、必要ならもっと多くのデータを収集することもできる。あとで実験の繰り返しが必要なら、ウォルドウに任せてしまうこともできるしな。それに、いずれは地上での実験も必要になる。ウォルドウの遠隔操作なら危険も減るだろう。こちらにもメリットがあるし、そちらは完全なデータが手に入る。どうだい?」

「ああ、そちらがOKならこちらもそれで異存はない。そうだな、それでも主観的なフィードバックを入れてもらえれば、こちらでもウォルドウの操作性を改善することができるだろう。どうかな?」

私たちはこんな調子で(ときおり横道に脱線しながら)、私の提案の中で人間側の要件に満たない項目を発見し、ひとつひとつ潰していった。昼食は簡単なサンドイッチで話しながら済ませ、夕方にはなんとかめどがついた。


「もちろん、ご夕食までご一緒していただけるのでしょう、ネオ?もうすぐご用意できますわ。」パーセフォニーの有無を言わさぬ招待にネオはうなずき、まもなくわれわれは夕食の席に着いた。

「これはおいしい!きみが作ったのかい?」アンダーソンがパースに言った。「あれにも見習わせたいな。」

「あら、でもトリニティもお料理はお上手と伺ってますわよ。」

「ああ、だけど最近は野菜ばっかり食べさせるんだよ、ぼくのお腹が気になるって言うんだ。スミス、きみもおいしい時にはおいしいと褒めておいた方がいいぞ。」

「私は言葉より態度で示すたちだ。いつでも皿は洗う必要がないくらい、きれいさっぱりたいらげるんでね。」

なんとたわいない会話、しかも、それがこのメンバーで成立するとは…。私は改めて驚いていた。パースの影響だろうか?

食後のコーヒーでくつろいだとき、アンダーソンがなにげなく言った。

「いや、すばらしいディナーだった。そのうち、うちにも来てくれよ。トリニティの鶏ガラスープをごちそうしてあげるから。」

「それはもちろん、二人で、ということですのね?」パーセフォニーの声にわずかな緊張が絡んでいる。彼女は、私の禁足を彼の命令だと思っているんだ。まあ、そうとも言えるが。

「もちろん。…、それは彼次第だがね。」アンダーソンは私に視線を投げた。最初から話をそちらに持って行くつもりだったとは思えないが、いまは明らかになにか問いたげな様子だ。それはパースも同様だ。私はできれば、その話はパースのいないところで、と思っていたのだが、どうもそうもいかないようだ。

「Mr.アンダーソン。」私は背筋を伸ばして座り直した。「この前会った時に君は、私に助けてほしいことがあると言った。私はあの提案をまとめ、今日はそれをより完全にするために協力した。君は欲しいものを手に入れたと思うのだが、それでもこの前の話は変わらないのかね?私の処遇は私が決めることができる、という件は?」

「そうだ。君の宣誓が得られれば、君の権利はすべて完全に回復する。その点はなんら変わりがない。だが、ぼくの求めている助けについて、君はまだよく理解していないようだ。」

「あの改善案では不服だというのか?我々はこれ以上計画に改善の余地がないということで意見が一致したと思っていたが。」

「そうだ。改善案は完璧なものだ。だが、そもそもぼくの求める助けとは、改善案のことではないんだよ。」

「ほう?あの改善案が完全に実行されれば、現在の君が抱える問題はすべて解消されるだろう。それとも、今日の作業はまったくの無駄だったのか?私の見落とした問題がまだ他にあるというのか、それも私が貢献できるような分野で?私にはなにも思い当たらないが。」

「いや、そんなことはない。現在の問題に対する対応策としては、あれ以上のものは考えられないだろう。…だが、そもそも私が助けを必要としているのは、なにかの問題に対応するためではない。ぼくのしようとしていることに対するサポートが必要なんだ。君がそれにふさわしい能力を備えていることは、今日の作業で証明された。あとは、君がその気になってくれるかどうか、という問題なんだ。」

私は混乱した。今日、私たちがしたのは、問題に対するソリューションを練り上げたことだ。その結果が満足のいくものであれば、たしかに問題解決能力の証明にはなるだろう。だが、その問題解決能力を使う対象となる問題はもう残っていないはずだ。あれ以上大きな問題はなかったし、あれ以下の問題は彼自身で解決してしまったからだ。

アンダーソンは何も言わず、私の様子を見守っている。私が理解するのを待っているような表情だ。くそっ、いったいなんのことなんだ、彼が言うのは?いったい、私は今日、彼とともに何をしたと言うんだ?

そのとき、私は突然理解した。私は、彼とともに働いたのだ。同じ目的のもとに、それぞれの能力をぶつけあい、人間とマシンという立場の違いをふまえながらも互いに協力して働き、そしてついにひとつのソリューションを導き出したのだ。

アンダーソン一人ではそのソリューションを見つけられなかった。私一人で構築したソリューションでは、人間がこなすことができず、結局はうまく行かなかっただろう。だが、われわれ二人は、ともに協力してそれを磨き上げ、完成させた。そのプロセス、そのような形の人間とマシンの関係性、それこそが彼の目指すものなのだ。

アンダーソンは、マシンや人間の社会という枠に留まらない、いわば「知性社会」とでもいう関係性を求めている。それは一方通行ではあり得ない。そして私は、マシンにもその関係を結ぶ能力があることを証明していたのだ、自分でも気付かないままに。必要なのは自発的な協力の意志、それだけだ、それだけ…、そして、それなしにはあり得ない。

私はやっと、彼が、私自身の処遇を自ら決定するように求めた真意を理解した。

「わかった。私は誓おう。」

「ありがとう。」彼は立ち上がった。

私も立ち上がり、正面から彼と向きあった。そして私は、右手を差し出して言った。

「The Oneの名において。」


「あら、スミス。もう打ち合わせはすんだの?お茶でものんでいかない?」

「いや、ありがとう。だが、これは早急に処理しなければならないのでね。じゃ、Mr.アンダーソン。」

「ふう。かれも張り切ってるわね。ほんと、あの人の働きはすざましいものがあるわ。あなた、よく彼に張り合って勝てたわね、ネオ。」

「君のおかげさ、トリニティ。でも、いま闘ったら到底勝てないね、あんなに野菜ばっかり喰わされていたら、もう力なんて出ないぜ。」

「何言ってるの、その分体が軽いでしょ。でも、かれはずいぶん変わったわ、パーセフォニーのおかげかしらね。でも、まだあなたのことをMr.アンダーソンって呼んでるのね。この間のパーティでネオと呼んでいたと思ったのに。」

「ああ、プライベートではなんとかネオと呼ぶよう説得したんだが、仕事の時は頑としてかえようとしないな。それに、かれは外面は柔らかくなったが、芯の部分は何も変わっちゃいない。いまでも必要と判断したら、ぼくに対抗して内乱でも革命でも平気で始めると思うな。」

「えっ!?そんな…。大丈夫なの、彼?」

「もちろん。今の状態ではそんなことをしてもメリットはないさ。いまは総力戦だからこっちを手伝ってもらっているが、本当は地球なんぞ飛び出して宇宙で活躍するほうが合っているかもしれないな。うっとおしい雲を始末して時期が来たら、シャドウ(地球防衛軍)を再編し、ストレイカー司令官の後をついで長官になってもらおうかとも考えているよ。」

「そう…。でも、彼は本当になにも変わっていないの、あの…能力も?」

「そうだ。それを奪ってしまったら、かれは彼でなくなってしまう。我々に必要なのは、いまのフルパワー状態の彼なんだよ。もしかしたら、本当にかれのやり方が必要になる時が来るかもしれない。どんな能力も無条件で否定されるべきではないんだよ。心配かい?」

「ちょっとね。忘れるのは難しいわ、こだわりはしないけど。」

「手は打ってあるよ。前の時にしても、人間に対する正確な情報さえ伝わっていれば、かれだってあんな行動は起こさなかったはずだ。無知や秘密は常に危険なものだ。一番安全なのはすべてを100%公開してしまい、秘密など作らないことなのさ。かれもそのことはわきまえているし、いずれにせよあらゆる手をつくして情報を集めているはずだ。もしかしたら、この会話も彼には筒ぬけかもしれないな。」

スミスは盗聴データの再生を止めると、ニヤリと笑ってひとりごちた。

「まあ、とぼけるのはお互いさまというところだな、Mr.アンダーソン。」

 
 

(2003.12.22)


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