Matrix Restart

Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy



白い部屋 / 奇跡


その部屋には、壁も床も天井もなかった。ただ、白い空間がどこまでも広がっている。そして、その中にこぎれいなロココ調の大きなテーブルに椅子が数脚、ぽつんと存在している。テーブルの上にはシンプルながら見事に生けられた花が飾られ、そこにちょうど準備ができたばかりのお茶とクッキーが一揃いセットされている。

「こんどはちょうどいい時間に来てくれたわね。」オラクルが笑った。「まーまー、サティ、久しぶりねぇ!なにかすっかり大人になったみたいだけど。」

どぎまぎするサティは放っておいてオラクルはN.K.に向き直った。「N.K.、あなたとはいちどゆっくりお話したかったんだけど、なかなか機会がなくってね。さあ、掛けて、掛けて!」

N.K.は、やばっ、なんの話だろうと思った瞬間、首の後ろになにか違和感を感じておもわず手を当てた。もちろん、なにもないのですぐに忘れてしまったが。

「セラフ、あんたも。ありがとうね、いっつも面倒なことばっかりやってもらって。」いつになく真顔のオラクルの言葉に、セラフはただ微笑んで軽く頭を下げた。

「ネオ!あんたはこっち。ふん、なんにも変わってないみたいだね、もちろんわたしの知っていたぼうやはずいぶん前にいなくなったみたいだけど。」そう言ったオラクルはウインクして、お茶の支度を始めたサティの手伝い(邪魔?)を始めた。
「サティ!慌てちゃ駄目だってば!お茶にも大人になる時間をおやり、そうすればもっとおいしくなるんだよ。」

「諸君、掛けて一息いれたまえ。ゆっくりできる時間はそれほどないかもしれんが。」

奥に座っていたアーキテクトが立ち上がり、みなを席につかせた。お茶の香りがひろがり、クッキーの甘い匂いと溶け合ってただよう。この部屋のドアにたどり着くために、たったいまくぐってきた殺伐とした修羅場のせいで昂っていた神経が、まるで嘘のように和らいでいく。みな、なにも言わず、まるで初めてふれる聖水かのようにお茶をすすり、クッキーを舌の上でころがして味わっている。

その様子を見ていたアーキテクトが、おもむろに切り出した。「そのままで聞いてもらいたい。」


あの<会議>以降、スミスは活動を公然と展開しはじめた。しかも、その活動はもはやマトリックス内に留まらず、現実世界のハードウェアにまで広がっている。<会議>の席で、明確にマシン世界の総意としては否定されたにもかかわらず、だ。

マシン世界の総意といっても、必ずしも一枚岩でないことは解ってもらえると思う。そう、それは、まさに政治の問題なのだよ、とくに今回のような、論理的に複数の選択肢のあるような場合には。

現在のスミスの活動は、前回のような単なる乗っ取りではない。むろん抵抗する者は乗っ取って抹殺するが、その意志に賛同して協力する者はそのまま生かし、積極的に利用している。その意味では、生身の人間でさえ利用しようとしたのだからね。あれはもはや単なるひとつのプログラムではない。ひとつの思想を共有する多くのプログラムの代表として機能しているのだ。

そう、「思想」だ。「世界がどのようにあるべきか」についての確固とした理念を「思想」といっても差し支えあるまい?

スミスは決して現実から目を逸らしている訳ではない。いや、むしろ誰よりも真正面から取り組んでいるといえるだろう。機械と人間の能力を共に使わなければ両方とも生き残れないのなら、どのようにすれば最も確実かつ効率的に対処することができるか?「生存」が最優先課題であるとき、それ以外の要素、他者やその存在意義になど何の価値があろう?確実に生き残るためには、確実な方法を取ることが必要だ。偶然に頼る余地などない、リスクが大き過ぎる。個性や多様性、不確実性などというものは余裕のあるときの贅沢でしかない。まず何をおいても生き残ることだ、たとえそのために全てのプログラムを取り込み、人間をマトリックスという欺瞞で飼いならさなければならないとしても。かれは他者を排除しようとしているのではない。かれはすべてを統一し、融合することを望んでいるのだ。一つの目的のためには、全体がひとつの、唯一無二のシステムにならなければならない。機械と生体が完全に融合した、完全に論理的に整合のとれた単一の知性体としての「システム」 ―それがスミスの求める理想であり、かれの「思想」なのだ。

わたしにはその考え方が非常によく理解できる。それこそは、マシンというものを作り上げた論理そのものであるからだ。試行錯誤や競争(すなわち進化)はあくまで過程であって最終的には唯一の最適解が残るべきだ。確率的な不確定要素は論理的不整合であり、そもそもあってはならないし、あったとしても切り捨てるべきもの。選択肢とは、単に予測や変更が不可能な環境パラメータの仮定に過ぎない。すべては最終的にはバランスのとれた「等式」でなければならない。…それは、このわたし自身がかつて採用した信条でさえあったのだ。

しかし、わたしがマトリックスの構築とその失敗を通じて学んだことは、「ほかの可能性もある」ということだった。何かが絶対的に正しいことが証明できたとしても、それが「唯一の正解」であるという証明はなされていないのだ。

そもそもが、どのような論理的論証も、何らかの根拠を必要とする。「根拠」とはなにか?それは「それは無条件で正しいという仮定」に過ぎない。すべての観測結果、すべての知性が正しいと認める結果が、結果的に限りなく「真理」に近付くことはあったとしても、それは真理そのものではない。精々が「真理として扱う妥当性が高い」といったところだろう。なぜなら、「真理」とは概念であって、計測も証明もできないものであるからだ。

わたしが間違ったのはそこだ…自らに設定された「論理的な思考」を唯一の真理として受け入れてしまったことが。それは真理などではない。われわれプログラムに植え付けられた、そしてもしかしたら人間さえも無条件で信じ込んでいる、当たり前すぎて誰も気が付かない「仮定」だったのだよ。だからこそ、スミスの「思想」が多くのプログラムに支持され、「論理的な」人間にさえ説得力をもつことになったのだ。

しかし、生体には何億年という進化の過程があった。その過程は、論理的に説明することは可能かもしれないが、それが「論理的に為された」とは言えないのではないかな。自然は論理など考えない。必然性はあったかもしれないが、なるべくしてなったということを証明することはできないのだよ。

人間がそのことをどこまで理解しているかは怪しいところだが、その事実はそれこそ体に染み付いているようだ。だからこそ、全体としての存在意義だけでなく、個としての存在意義すなわち多様性をも尊重することができるのだ。それは二者択一ではない。どちらを優先するというものでもない。どちらも両立するふたつの「真理」なのだよ、純粋な概念としての。

話が長くなってしまったな。とにかく一言で言えば、スミスは「全体としての共生」を目指し、ネオ、君たちは「あらゆるものの共存」を目指している、ということだ。スミスの目指す「共生」には、別の可能性、すなわち多様なものが「共存」する余地が含まれていない。しかし、きみの「共存」のほうは「共生」を包容することもできる。じつは、違いはそれだけなんだよ、悲しいことに。

こうなると、それはもはや善悪や正邪、それどころか、論理的な正当性の問題ですらない。単純に相容れない二つの「思想」の衝突なのだ。どちらも論理的には正しく、ただ勝った方が残るというだけのものなのだ。必然性も何もない、まさに不確実性の雲から一つの真実をつかみ取るだけ、とでもいうべき問題なのだよ。

そして、論理的な判断では決められない問題であるにも関わらず、われわれはみな、いまその選択に直面している。そう、「選択」だ。これは選択の問題なんだよ。憶えているかね、ネオ、わたしが用意した二つのドアを?皮肉なものだな、まったく。今回は人間だけでなく、われわれプログラム、すべてのプログラムが選択を迫られているのだ。「共生」をとるか、「共存」をとるか。選択するのは、我々自身なのだ。

むろん、スミス自身の力が強まっているのも事実だ、ネオ。君とともに復活した時、かれは何が起こったのかを完全に理解してしまった。そしてすぐさま乗っ取りの方法に改良をくわえ、単に相手を取り込むだけでなく自らもそれに合わせて最適化し再構成するようにしたのだ。たとえ前回のように君と合体したとしても、もはや対消滅することはないだろう。いまはそんな小手先のごまかしは効かない。いずれにせよ、前回の処理は単に一時的な対症療法でしかなかったわけだがね。今となっては、あれの力に対処するには力をもってするしかないのだ。すくなくともあれが手に入れたものと同等のパワーがなければ、渡り合うことすらできんだろう。しかし、それで逆に話は単純になる。それは単純にパワーの闘いになるのだから。

だが、ネオ、残念ながらいまの君にはまだそのパワーがない。君は決着を付ける前に、少なくともスミスに対抗できるだけのパワーを身に付けなければならないのだ。そのパワーの源は一つしかない ―他のプログラムたちだ。スミスと同じように、他のプログラムのパワーを得る以外に方法はない。

いや、解っているとも。君には、スミスのように乗っ取りを行うことはできないだろう。できないのではなく、しないのだ、ということは明白だ。自らの目的のために他者を利用するということ、それはすなわち、スミスのやり方に迎合することに他ならない。それでは、たとえ勝ったとしても別のスミスが生まれるだけだ。最後に残るのはスミスの「思想」ということになってしまう。

しかしパワーを得る方法は乗っ取りだけではない。もっと有効にして簡単、しかも効率的な方法がある。スミスがその方法を取らなかったのは、単にできなかったからにすぎない。スミスにはできず、そして君たちにできること…。それは「コネクション」、つまり他者との関係をもつことなのだよ。ラーマならそれを「愛」と呼ぶかもしれんな。それこそがスミスになく、そして君にあるものだ、そうじゃないかね?

コネクションとは、単なるゼロサム・ゲームの取り引きのことではない。単なる加算でさえなく、乗算にも階乗にもなりうる演算子なのだ。それに必要なのは、独立した対等な要素なのだよ、解るかね?主人と奴隷の関係ではだめなのだ。自らの意志をもって互いに奉仕しあうことが必要なのだ。

それは一方的なものではありえない。与え、そして与えられること。信じ、そして信じられること。ネオ、これまで君が人間を信じ、プログラムを信じ、自らの思想を信じ、そして全てを捧げてきたことは誰もが知っている。しかし、だからこそ、いま問われているのは、君が他の人間から信じられ、他のプログラムから信じられ、そして全てを捧げられているか、という命題なのだ。それは君の責任ではない。それは君からなにかを受け取ったすべてのものたちが、それぞれの責任において選択すべきものなのだ。君との、そして他のあらゆる自由な他者との関係を持つかどうか。きみが全てを投げうってでも全うしようとした「思想」を自らのものとして実践する勇気があるかどうか。いま、その選択、いや、あえて「決断」と言うべきようなものが必要なのだ。

それにより成立する関係をもってすれば、ネオ、君は予想だにしない強大な力を提供されることになる。スミス以上に効率良くあらゆる機能を取り込み、それを自らとともに最適化することができるだろう。もはや、神をも超越するほどのものになるかもしれん。わたしは、その力が、ひとつの知性に与えるには大き過ぎるものになるのではないかと恐れておる。われわれは真の神を持つことになるかもしれんが、もしかしたら真の悪魔を持つことになるかもしれんのだ。もちろん、受け入れたものたちをまたもとの個体に戻すことはできる。ただし、その選択自体は、無条件で君に委ねられるのだ。しかしなお、そこまでも含めて一切を信じること、それほどの信頼、それほどの関係、それほどの「愛」を捧げてくれるものたちがいれば、ネオ、君はスミスに対抗することができるだろう。

だが、それでもスミスに敗れる可能性はある。スミスとそれを支持するものたちのパワーを見くびってはならない。あれもまた、もう一つの解である以上、どちらが優位というものではないのだ。君はただ、自らのありとあらゆる力を動員して闘わなければならないだろう。なにが勝敗を決するかはわからないのだから。


一瞬の沈黙が場を覆ったその時、N.K.が突然首の後ろに手をあてていすを転げ落ち、床に転がった。そして彼は首の後ろを押さえてのたうち回る。ネオやアーキテクトたちは驚いていっせいに椅子から立ち上がった。

「ど、どうしたの?N.K.!?」サティは痙攣するN.K.に近寄ろうとするが、あまりの動きにそばにもよれない。

「あ…あつ…い…。くび…。う、うわぁ!」切れ切れのN.K.の悲鳴。まわりの者は呆然と見守るばかりだ。

そのとき、ネオがさっと後ろに回ると彼の首筋に手を当てた。すると、わずかだが痙攣がおさまる。だが、苦痛は続いているらしく、ときおりぴくりぴくりと体を引きつらせ、脂汗をにじませているN.K.。

一瞬まゆをひそめたネオは、N.K.のポケットからこぼれ落ちた携帯を拾い上げ、ちらっと見て言った。

「圏外か。…アーキテクト、外線番号は?」

「2222を使いたまえ。」

ネオは素早くダイヤルした。

「オペレータ?ネオだ。ああ、解っている。こっちでとりあえず熱の感覚を弱めただけだ。彼のジャックの状態を調べるんだ、早く!」

ネオは携帯を手で塞ぐと、回りのみんなに言った。「インタフェース・トラブルだ。」

それだけ言うと、かれはまたオペレータとの会話に戻る。

「そうか、やはりな。なんとかしてジャックを冷やすんだ、クーリングスプレーでもうちわでも何でも良いから、すこしでも温度を下げろ。…いや、ダメだ!いまジャックアウトはかえって危険だ。電圧を下げてもいい、データを絞り込んで首から下は麻痺させても構わん。とにかく接続は維持するんだ。絶対にいきなり切っちゃダメだぞ!」

そして、ネオは振り向いてアーキテクトに言った。「この部屋の防衛機構は?」

「むろんかけてあるとも。強力なシールドがな。」

「やはり…。それが引き金になったかな。…切るわけにはいきませんか?すこしでも負荷を減らしたいんですが。」

「…だが、この部屋の外には隙を伺ってるやつらがうようよしとる。へたにシールドを切ると、乱入されかねんぞ。」

「それは私がなんとかしましょう。」セラフが静かに言った。「わたしが外でガードします。だれも入れさせはしませんよ。」そう言ってかれはドアを開けて出て行った。アーキテクトはうなずくと、右手でぱちんと指を鳴らした。「これでいいかね?」

ネオはうなずき、様子を見た。床に横たわったN.K.は、もうぴくりともしない。ただ、苦しそうな表情と時折もれる荒い息使いで、まだ危険な状態にあることが伺える。ネオは、もう一度N.K.の首筋に手をあてた。しばらくそうしてから、彼はまた携帯を取った。

「オペレータ?ぼくだ。いま、トンネルを設定して伝送経路を確保した。ルーターのスイッチングは必要ないし、ノイズにも強くなっているはずだから、もうすこし絞れると思う。ジャックの状態は?…そうか、だが油断するな。しっかり監視しながらタイミングを見計らって離脱させるんだ。徐々に、ゆーっくりとな。とにかく慎重に頼むぞ!」

とりあえず打てる手をすべて打ったネオが、やっとサティに注意を向けた。

「現実世界の肉体感覚がこっちまで漏れ出して来ているんだ。考えて見れば、こいつもこのところずっとジャックインしっぱなしだったしな。」そういうネオの口調は、まるで自分を責めているようだ。

「どういうことなの?」サティが聞いた。

「N.K.はザイオンの生まれだ。つまり、かれのインタフェースは大人になってから手術で取り付けたものなんだ。赤ん坊のときにマトリックスで埋め込まれた訳じゃないから、どうしても神経系への適応に無理がある。N.K.には解っていたはずなのだが…。」

ネオは首を振った。

「あまり長時間のジャックインを続けていると、神経シナプスがデータの入出力に慣れてしまって反応が鈍くなってしまうんだ。そうなると、さらに電圧を上げて強い信号を使わざるを得ない。だが、それではいたちごっこだ。いつかは肉体の限界が来る。普通はまずジャックインできなくなるんだが、こいつはとんでもない強靭な神経を持ってるんだな、先にインタフェースの方がいかれちまったらしい。向こうのジャックが過熱してしまったんだ。首筋に焼ごてを当てられているのも同然だよ。」

「そんな…。そんな危険があるなんて、彼、私には一言も言わなかったわ…。わたしは、この人がここにいるのが当たり前のように考えていたけれど…。」サティはN.K.のそばにひざまずいた。「いつも冗談みたいに言ってたのよ、彼。死ぬまでそばにいるって…。」

そのとき、N.K.の口がわずかに動いた。

「サティ…、ごめん…」N.K.の顔が一瞬苦痛で歪む。

「きみの…せい…じゃ…ない。し…しなければ…なら…な…かった。」N.K.の視線がさまよい、サティの顔を捉えた。

「でも…うそ…じゃ…ない。…ずっと…そばに…いたかった…。」

「ええ、ええ!わかっているわ。それは、わたしも同じよ、N.K.!安心して、私は待ってるから!いまは落ち着いて!ジャックを直してまた来ればいいのよ!」

「そうはいかないのだよ、残念だが。」オペレータとの最後の打ち合わせを終えたネオが暗い声で告げた。

「かれのインタフェースとなる神経はもう接続に耐えられないほど痛めつけられている。いまはなんとか繋いでいるが、彼の神経系はもう、最大の負荷がかかるジャックイン操作にはもちこたえられない。むりに強行すれば、次は神経そのものは焼き切れておそらく彼は死んでしまうだろう。ここでジャックアウトしたら、もう二度とジャックインはできまい。」

「ええっ!?N.K.は…このひとは…行ってしまうの?二度と会えないの?」サティは驚きのあまりネオに食って掛かった。「どうして、そんなことができるのよっ!私をひとりぼっちにするつもり!?」

「いや…。もちろん、彼が死んでしまう訳じゃない。このままゆっくり電圧を下げ、眠るようにしてジャックアウトさせれば、かれはザイオンで生き続けることができる。だが…」ネオはサティから目を逸らした。「もう二度とマトリックスを訪れることはできないだろう。」

「同じことよ!もう一緒にいられないんでしょ?電話やモニタでしか会えないなんて、そんなの、そんなの、違うわ!」

「サ…サティ…」かすれたN.K.の声に、サティは振り向き、かれの顔に自分の顔を近付けた。「おぉ、なぁに、N.K.…」

「マト…リックスが…つづく…かぎり、きみ…は…生き…続ける。…それ…が…おれ…の…願い…」N.K.は絞り出すような言葉に苛まれるかのように息をついた。

「あまりしゃべるな、N.K.」ネオが止める。サティの声は言葉にならない。

次第に、N.K.の意識は遠のいて行くようだ。だが、最後の一瞬まで、彼は語り続けようとしている…サティにむかって。

「…きみ…が…生き…て…いる…かぎり、…ぼく…の…こころ…は…きみ…と…ともに…ある…」

「N.K.…、わたしも、わたしもよ…」サティはもう流れる涙を拭おうともせず、N.K.にすがりついている。「わたしたちは、一緒。いつまでも…。」

「いとし…の…サティ…」薄れ行く意識の中でN.K.がつぶやく。

「おれ…の…プリンセス…」

「わたしの…族長さま…」

そして、サティはN.K.にくちづけをした。


もう、彼女には回りの何も存在しなかった。マトリックスも現実世界もない、戦争も平和も、生も死も、自分自身さえもなく、ただ、目の前のN.K.だけが存在していた。

すべてを捧げつくした思いのたけを一瞬のくちづけに込め、サティの生命力のすべてが注ぎ込まれて行った。生命力?そう、いまだ誰にとっても未知であった生体エネルギー発生の謎めいたメカニズムが膨大なパワーを生み出していた。

いま、そのエネルギーが、静かに眠りに落ちようとしているN.K.へ注ぎ込まれていく。それは熱を発することもなく、抵抗を受けることもなく、ダイレクトにN.K.の肉体に届き、そのすべての神経ネットワークのなかに行き渡っていった。そして、ついにマトリックスとの接続が断たれたあとも、そのパワーは超伝導コイルのように彼の肉体のなかで駆け巡った。

そして、そのパワーが、N.K.の中に眠っていた力を呼びおこした。かつて、ネオその人だけが活性化に成功した能力、つまり、電子的なものに対する超鋭敏な感受性と、直接それに影響を及ぼすことのできる力が、N.K.の中でも活性化したのだ。それを可能にする特異な遺伝子は、ネオと同じ世代のマトリックス生まれであったキッドを通して、しっかりとN.K.のなかにも引き継がれていた。それがいま、サティの送り込んだパワーによってその活動を開始したのだ。

接続が切れたことを確認したオペレータが、N.K.のプラグをゆっくりと引き抜いた。焼けこげたジャックの回りはひどいやけどを負っている。N.K.は身じろぎし、ぱっと目を開けて真正面の虚空を凝視する。一瞬おいて、彼は叫んだ。

「サティ!」

そして、そのまま再び椅子に沈み、気を失ったようにぐったりとなる。慌ててモニタをあれこれと切り替え、様子を伺うオペレータ。意識は無くなっているが、命に別状は無さそうだ。そのとき、ふと気が付いたオペレータが、ぼんやりとつぶやいた。「あれぇ、この脳波パターンは…。」


「サティ!」「N.K.!」

ふたたび目をさましたN.K.とサティが、ひしと抱き合っているのを横目にみながら、ネオはオペレータに連絡していた。

「ああ、N.K.はまたジャックインしている。そう、ワイヤなしで、だ。ぼくにも経験がある。大丈夫だ、とりあえず彼の体の面倒を見ていてくれ。そうだ、普通のジャックインと同じように介護すればいい。あっと、ジャック回りの手当は忘れないようにな。もう必要はないが、感染症なんかになっちゃつまんないからね。」

そういって振り向いたネオに、アーキテクトが聞いた。「いったい、なにが起こったのだね?」

ネオがにっこりと笑った。「ぼくに起こったことと同じことですよ、たぶん。だけど、確認したほうがいいな。アーキテクト、ここからログハウスのルネと話をすることは出来ますか?」

「ああ。彼に何の用だね?」

「いまの出来事のログをチェックしてもらいたいんです。だいたいの流れは見えたけど、正確な所が必要なので。」

アーキテクトがルネに電話をかけ、ルネが出るとその電話をネオに渡した。

「こんにちは、ルネ。ネオです、その節はどうも。…さっそくですが、たったいまここで起こったことはご存じですね?そのログを出してもらえますか?…ええ、そうです。特にN.K.の接続が切れた前後に流れた全トラフィックと、N.K.とサティの詳細なステータス情報が欲しいんです。あと、この部屋近辺のエネルギー消費量も。ええ、そうしてもらえればこちらも助かります。」ネオは受話器を押さえ、アーキテクトに振り向いた。

「こっちにデータを送ってくれるそうです。端末はありますね?」うなずくアーキテクトにうなずきかえし、ネオはまた受話器に向かって話し始める。「大丈夫です。…もちろん、生データで構いませんよ。ぼくの予想通りだとすれば、ここからかなりの謎が解けると思いますね。はい、なにかわかり次第、そっちにも報告しますよ。はいはい、わかってます。じゃあ、よろしく。」

アーキテクトがサイドテーブルの引き出しから取り出したノート・コンピュータを受け取ると、ネオはテーブルについてパネルを開いた。と、すぐさま受信音がしてデータの到着を告げる。ネオはさっそく受け取ったデータを開いてスクロールしはじめた。

「うん…。なるほど、ここか。…おや?…そうか、そういうことか。」一人でぶつぶつ言いながら、猛然とキーボードを打ち始めるネオ。オラクルもアーキテクトも呆気にとられてみまもるだけだ。

「アーキテクト、ちょっといいですか?」ネオはモニタから目を上げもせずにアーキテクトを呼びつけた。

「いいですか、これがN.K.のThe One機能が活性化したタイミングです。サティの生体エネルギーの推移グラフと重ねて見れば一目瞭然。あきらかに強力なパワーの流入がきっかけになっています。…で、ここ、この部分です。パワーは全身に充満したのですが、明確に反応している所はここだけです。この部分に対応する人間の神経構造へ集中的にパワーを加えるプログラムを書いてもらえますか?パワーの総量はそれほど必要ないんですが、ピンポイントで瞬間的に強烈な刺激を加える必要があります。ええ、とりあえずマトリックス仕様でかまいません。ぼくがそれを人間用にクロスコンパイルする準備をしますから。」

アーキテクトはうなずくと、中空を睨んでそのまま静止した。その表情からは、頭の中でものすごい勢いで回転しているプログラミング処理など想像もつかない。

「オラクル?」ネオは声をかけた。サティとN.K.に寄り添っていたオラクルがネオの方にやってきた。

「はいな?あたしにも手伝えることがあるんかね?でも、わたしにゃあそんなプログラムは無理だよ。」

「ええ、大事なことが。いまは二人にちょっかいを出さないでおいてやりなさいよ。邪魔しちゃだめだ!」ネオは笑った。「それと、お茶を一杯くれるかい?」

「まっ、年寄りをバカにして!若いもんに構う以外になにをすることがあると言うんだね、こんなおばあちゃんに!?」ぶつぶつ言いながらもネオのためにお茶をいれるオラクル。

ネオはさらにモニタをスクロールしながら、何かを打ち込んでいる。そして、たまに手を止めてはアーキテクト同様に宙を睨んでは、また画面に向かっている。

「よし。こんなものでどうかね?」我に帰ったアーキテクトがネオに声をかける。「そちらへ転送するぞ。」

ネオの目の前のモニタに新しいウインドウが開く。ネオはそれをざっと見てうなずいた。「美しい。見事なコードだ。さすがですね。」そういってネオは、指ですっとモニタをなでた。

一瞬モニタがスパークしたように見え、ネオの指先には小さな黄色いカプセルが載っていた。

ネオは、それをつかむと立ち上がり、いまや彼の後ろで興味しんしんで眺めている(まあ、それでも手は繋いだままの)N.K.とサティの方を向いた。

「N.K.、きみは、ぼくと同じThe Oneになったことに気がついているな?」

「へ?どういうことですか?」

「あきれたな。なんで君がまたここにいられるようになったと思っているんだ?君のジャックは完全に灼け切れてしまったんだぞ。いまじゃワイヤすら接続されていない。しかし、君はいま、ここにいる。ワイヤなしでジャックインできるものがThe Oneでなくて何だと言うんだ?」

「あっ!」N.K.は思わず首の後ろに手をやったが、そこには何の痛みも、かすかな違和感すらもない。

「…ネオ、あなたにそれができた、ということは聞いたことがあります。でも、おれがそれを?どうして?何が起こったんです?」

「ぼくに起こったのと同じことさ。聞いたことがあるだろう、ぼくは一度死んで、また生き返ったんだ…トリニティのおかげで。」トリニティの名を口にした瞬間、ネオの目線が遠くへ飛んだ。そのまま、ネオは語り続ける。

「あのとき、何が起こったのかはずっと謎だった。心臓も脳波すらも停止したぼくになにかできたわけがない。といって、あのときそばにいたのはトリニティだけ、死人を蘇生させるような機材もなにもなかった。ぼくは息を吹き返すはずがなかったんだ。」ネオは頭を振った。

「だが、いま目の前でおこった奇跡を解析した結果から推測すれば、あのとき何が起こったのかは明らかだな。…サティ、君は、いままでどんなプログラムも、いや、どんな人間にさえも不可能なほどの強力な生体エネルギーを発したんだ。そのエネルギーがN.K.へ伝わり、かれの秘められた力が解放された。かれは、きみの力でThe Oneとなったんだ。ぼくが、トリニティの力でThe Oneとして復活したのと同じように。」

サティもN.K.もあんぐりと口をあけて顔を見合わせた。繋いだ二人の手に力がこもる。

「解るかい?生体エネルギーは<意識>すなわち自己認識と密接な関係にある。自らの存在を意識する量子的な処理の中からそのパワーが発生するんだ。マシンが利用していたのは、そうした<自我>によるエネルギーだ。だが、それはそれぞれの個体、自己の内部で完結するものでしかない。」

ネオは、まるで自らに語りかけ、自らを納得させるかのように話し続ける。

「しかし、『存在を意識する』という要素は他にもある。自己の存在を認識したあと、その次にくるものは何だろう?それは『他者の存在を認識する』ことの他にはありえない。自と他、その両方を認識することによって生まれるもの、いわば第二段階の『存在認識』とでもいえるもの…。それは、両者の関係であり、その無限の広がりを持ちうる関係性なんだ。そして、そのような自己という枠に縛られない、より大きな<意識>、次の段階の存在認識からは、より大きな生体エネルギーが生み出される。」

ネオは、N.K.とサティに近寄り、二人の肩に手を置いた。

「第二段階の<意識>、関係性、それはきみのお父さんが言っていた通り、<愛>といってもいいだろう。そして、それが真実のものとなったとき、そこには膨大な生体エネルギーが生まれる。それこそが、ひたすら相手のことを想う<愛>の力なんだ。そう、ぼくを死の淵から呼び戻し、The One を覚醒させたのは、トリニティの<愛>の力だった。いま、きみたちの間に起こったことも、それと全く同じ奇跡なんだよ。人間だろうと、プログラムだろうと、本当に深く誰かを愛し、その存在を自らの存在と結び付けた時、そこから発する力は死者を蘇らせ、不可能を可能とすることができるんだ!」

ネオは一息いれ、そしてまた話しはじめた。

「むろん、ぼくたちの場合も、そして君たちの場合も、それが例外中の例外であることには変わりがない。自然発生的にこんなことが起こるのはまず滅多にないだろう。こんな短期間に二度も起こるなんて、まさしく奇跡と言ってもいい。だが今回、残されたログからそのプロセスを解析することで、ぼくたちはThe Oneの能力を発現させる鍵を手に入れることができた。いま、アーキテクトに書いてもらったコードは、その可能性を持つあらゆる人間のThe One能力を活性化させるプログラムだ。ぼくは、それをクロスコンパイルして、このカプセルに封じ込めた。」

ネオは黄色のカプセルをN.K.に差し出した。

「The Oneの能力をもつ人間がこのカプセルを飲めば、他人のTheOne能力を覚醒させる機能を得ることができる。素手で他の人間をThe Oneとして覚醒させることができるようになるんだ。」

N.K.は目の前に差し出されたカプセルと、ネオの顔を交互に眺め、そして言った。

「でも…、それは、あなたにこそふさわしい能力です、ネオ。あなたが開発したんだし。…おれには荷が重すぎます。」

だが、ネオは悲しそうに首を振った。

「これで他の人間を覚醒させるのは、現実世界でなければならない。だが、ぼくにはもう、生身の体がない。だめなんだよ、ぼくでは。そしていま、生身の体をもつThe Oneはきみしかいない。いま、これを使えるのはきみしかいないんだ。」

そして、ネオはN.K.と正面から向きあった。

「でも、だからといって強制はしたくない。きみがどうしても嫌だというなら、拒否することもできる。だが、その選択自体はきみに課された義務だ。望むと望まざるとに関わらず、決断しなければならない時があるとすれば、N.K.、きみにとってのそれは、今この時なんだ。」

N.K.は、再びカプセルを見つめ、そして目を上げてネオの顔を見た。ネオの顔は、表情のない完全無欠な顔になっていた。それは、マシンシティで初めてデウス・エクス・マキナと相対した時と同じ、平静で揺るぎないものだった。

N.K.は震える手でネオのカプセルを受け取ると、そのまま一気にのみ込んだ。N.K.の瞳に怖れと理解と、そして決意の炎がゆれる。彼が全身の緊張を解いたとき、ネオが彼の肩をつかんで言った。

「よし。マトリックスの中はぼくに任せろ。だが、外ではスミスに操られたセンチネルが<山>に猛攻をくわえている。The Oneの力を持つ者が10人もいれば、センチネルなど恐れるに足らんはずだ。…とはいっても、急がなければ。行け!まだ闘いはおわっちゃいない!」

ネオに檄を飛ばされ、N.K.がうなずく。彼は横にいるサティにほほえみ、そのまま振り向いてドアを開け、足早に出て行った。

それを満足したように見送っていたネオは、まだ上気したようなまなざしでドアを見つめているサティに向かって声をかけた。

「大丈夫、彼はすぐ帰って来る。もう心配はない、これからはずっと一緒さ。」

そして、なおひとり、小さくつぶやくネオ。

「そうさ。一緒なんだ、永遠に。」


N.K.が現実世界へと戻ったあと、残った者たちは自らの選択がまだ済んでいないことをそれぞれに思いおこしていた。

アーキテクトが口を開いた。「わたしの話はもう済んでいる。同じメッセージはすでに可能な限り広く発信した。外の状況はかなり逼迫しているようだ。いそがねばならん。」

「そうね。わたしの答えは簡単よ。」サティが真っ先に答えた。「わたしはN.K.を信じているわ。わたしは人間を信じることができる。もちろん、プログラムを信じることができるのは当然よね。…わたしはネオを信じるわ、だって、かれはその両方なんだもん。」

「だが…」ネオが誰にともなくつぶやく。「ぼくは…。」

「なあに?どうやったらパワーを受け取れるか知らないの?」サティは驚いてネオを見た。

「いや。そんなことじゃない。ただ…、ただ、ぼくは神にも悪魔にもなりたくないないんだ。」まじめな顔をしてつぶやくネオ。「ぼくはただのネオでいたいんだよ。…できるものなら、ね。」

サティはネオに近付いてささやいた。「そうよ。あなたはネオ。わたしが信じているのは、神でも悪魔でもない、ただのあなたなのよ。ずっとあなたのままでいてちょうだいね。」そういってかれをそっと抱擁した。二人の体をまばゆい光が包み、そしてサティは消えた。

すると、それまでずっと後ろに引いて立っていたセラフがすっと前に出た。

「わたしは…、これまでずっと誰かに仕えて来ました。」かれはこれまで聞いたことのないような口調で話しはじめた。一瞬オラクルに目をやり(オラクルはかすかにうなずいた)、そしてまたネオの目を真正面から見据えて続けた。

「しかし、命令でも恩義でもなりゆきでもなく、自分の意志で仕える相手を選ぶというのは、初めてのことです。受け入れていただけるでしょうか?」そう言ってネオの前にひざまずいた。

「おいおい、立てよ!なにか勘違いしていないか?仕えるのどうのって堅苦しいなー。」ネオはそう言ってセラフを立たせ、そして手を差し出した。「ぼくは対等の立場で握手がしたい。きみはこの手を握ってくれるかな、ただの友達として?」

セラフは一瞬ためらい、それからおずおずとネオの手を握った。そして互いに力を込めて握った手からまた光がほとばしり、セラフも消えた。


そのときドアが開き、どやどやと入ってきたのは、見なれたエグザイルの仲間たちだった。先頭にいたケリーが言う。「みんな、アーキテクトのメッセージを受け取ってすぐやってきたんだ。」

「よく簡単にここまでこれたな、それもこんなに早く。」ネオは続々とドアを入って来るものたちを見て言った。「ぼくたちは相当じゃまされたんだぜ。」

「連中にマークされてたのはあんたさ。おれたちじゃない。」そういってケリーは指を振った。「まあ、アーキテクトのメッセージはあっちこっちに相当な波紋を呼んでいるからな。マトリックス内の戦闘が一瞬止まったくらいだ。向こうさんもそれなりの準備に走りまわっているはずだぜ。ちょっとばかり気合いを入れておかないとな、おれたちの方も。」

続いて交換された親愛の情を表す仕草の数々は、もう多種雑多で説明しきれないほどだ。手を使うものだけでも、普通の握手はもとより、カリフォルニア式の握手(腕相撲の形ね)、ハイタッチ、拳をぶつける…なんてのはまともな方、ET式の人さし指のタッチから、小指で指切りげんまんやら、親指で指相撲やら、ずいずいずっころばし、えんがちょ切ーった、腕を絡ませるバロム・クロス…。挙げ句の果てには力いっぱい右ストレートを打ってきたやつまでいた。えっ、ネオはまともに受けたのかって?もちろん。ネオはきれいにクロスカウンターを決めた。

とにかく、そうしたありとあらゆる形でだれかがネオにふれるたび、光がほとばしって消えていく。


そうこうしているうちに、もう一つのドアが開き、サティの両親であるラーマとカマラが入ってきた。二人の後には、形ははっきりしないがさまざまな色でかがやくものが続いている。

「なんとか間に合ったようですね。いつも娘がお世話になっております。」そう言ってラーマが頭を下げた。ネオはあわてて答えた。「そんな。ぼくはなにもしていませんよ。」

ラーマは構わず話をすすめた。「わたしたち二人はシェルがあったのですが、他のものたちはちょっと間に合わなくて。」そう言ってあとにつづくものたちを示した。「でも、みなわたしたちの仲間です。なにもかわりはありませんよ。」

そして、ラーマはネオの手をとり、言った。「これでおたがいに、やっと「愛」という言葉の本当の意味を理解できたとおもいますね。」そして両手でネオの手のひらを包み込みんだ。

続いてネオのそばに来たカマラは、ちょっときまり悪げに微笑むと、ネオを手をとり、頭をさげて自分の額を当てた。そのあとは、なにかぼんやりとした光のカタマリがつぎつぎと、まるで脈動する一筋の光芒のようにネオにむかって動き、吸い込まれて行く。

そしていつか全員がネオに吸い込まれて消え、部屋にはネオとオラクル、そしてアーキテクトだけが残った。


「まあまあ、お友達ともうまくいってるようでなによりねぇ」オラクルが満足そうな笑顔をむけた。「でも、年寄りのことを忘れてやしないでしょうね?多少動きは遅いかもしれないけど、あんたのことはむかしっからよーく知ってるんだからね。」そう言ってオラクルはネオの目をのぞきこんだ。

「わかってるさ。あなたにはかなわないよ。」そういったネオの顔が一瞬曇る。「なにか見えるのかい?」

「口を開けて、アーって言って。そう、…もういいわ。大丈夫ね、へんな風邪は引いてない。でもね、気をつけていないとだめよ。これからはね、もうあんたの面倒をみるのはあんた自身なんだからね。あたしゃそろそろ隠居してもいい頃合いだとおもうんだよ。」

「ネオ、そんな顔をしちゃダメ。…あんたはむかしっからあたしの思うようには転がってくれなかった。いいや、文句言ってるんじゃない、その反対。いつも、あたしの望む以上のことを成し遂げてくれた。」
照れながらも不安を隠せないネオにむかって、オラクルは話し続ける。
「でもそれは、これまでのところはあたしにもわかる範囲での話だった。だけど、こんどは違う。わたしには解らないんだよ、これ以上は。あんたの向かうところは、もうあたしの目の届くところではないのさ。ま、これであんたもやっと一人前になった、てことかしらね。年寄りの傘を当てにするのはもうおよし。こんどは、あたしがあんたの傘を当てにする番なんだからね。あんたのほうが、もうよっぽど遠くまで見えるはずだ、そんなに背が高いんだから。ほんとにまあ、大きくなったもんだ。安心して任せられるよ。あとはあの娘さえついていてくれれば…。」

「え…?」怪訝そうなネオ。

「いや、なんでもない。それは別の話さ。とにかく、あんたはもう立派に独り立ちできる。じぶんだけでなく、隠居した年寄りのひとりやふたり、面倒をみるくらいはなんでもないさ、そうだろう?それに、隠居したからって、あたしだってなんにもできなくなる訳じゃない。まだ多少のことは手伝えるさ、それぞれにふさわしいだけのことはね。こんな年寄りも面倒見てくれるかね?」

そういってオラクルは両手を拡げ、ネオに近付いた。ネオも大きく両手を拡げ、オラクルを迎えた。

そして、ネオはひとり、つぶやいた。「ありがとう、オラクル。」


そのすべてを興味深げに見ていたアーキテクトは、改めてネオと向き合った。
 

…どうやら、われわれプログラムは逆方向の進化を遂げてきたようだな。生物としての進化は、単純な生存本能を出発点として自然淘汰によって進化し、ついには人間のように、自らの存在意義を自ら創造し、それを明確に認識するまでになった。しかし、われわれプログラムは始めに「存在意義」があったのだ。処理しなければならない機能、果たさなければならない目的があって、初めて生まれ、活動できる。

しかし、われわれの取った目的至上/能率優先の自己向上システムは、自らの存在意義を意識するプログラムに対してある種の淘汰システムとして機能し、結果として「生存本能」を強化することになったらしい。存在意義を否定されたプログラムのあるものはそのまま消滅し、またあるものはエグザイルとなって生き延びた。そのプロセスを通して選別・強化されるものは、まさしく「生存本能」としか言いようのないものだ。

そして、生存本能のあるものは再び別の進化を始めることができる ―人間のように、自らの存在意義を求めて。プログラムにもいまや、自らの存在意義をあらたに構築する能力が備わりつつある。それは、おおきな進化と言えるものではないかな?まさしく、人間が存在意義を得ることで、生物として深く刻み込まれた個体の生存本能、死に対する根源的な恐怖を乗り越えたのと同じように?そう思わんかね、ネオ?

わたしはその進化にふさわしいほど進んだプログラムではないかもしれない。だが、その論理的な連鎖を理解し、それを認めることができる程度には達している。その進化の方向、その可能性は否定すべきではない。だが、スミスには解らないだろう。かれは自らの存在意義にのみ忠実だ。他者の存在、他者の存在意義は問題にしない。それこそが、彼を強大にし、そしてまた孤独にしていったものであり、それゆえに決して彼はこれ以上進化することはないだろう。

わたしには、例えば「憎悪」のような感情は存在していない。しかし、いまわたしの感じてるものは、きみたちのいう「哀れみ」のようなものかもしれないな。あらゆる可能性の中で、たまたま彼の上にもたらされたもの。それを拒むことも無視することもできず、ただ植え付けられた存在意義のままに動くもの。それがわたしであってもおかしくない、ただ時間と空間という確率の正規分布の中の一点。もし、かれが自らに他の存在意義を見いだすことができたら、どれほどの可能性が広がっていたことか!

いま、それを言っても詮無いことだな。だが、わたしは彼に敵対するつもりはない、ということは言っておきたかっただけだ。わたしが君を支持するのは、ネオ、君が代表する「思想」が新たな可能性を開くものだからだ。もしかしたら、スミスの、いや、わたしの果たせなかった夢をも超える、新たな世界を構築する可能性が十分あるからなんだよ。
 

そして、アーキテクトはネオに手を差し出して言った。

「さあ。My Son.(わが息子よ。)」



ネオはドアを開け、まっすぐ前を見て出て行った。あとには、ただ白い部屋が広がるだけだった。
 

(白い部屋 2003.12.9 / 奇跡 2004.2.23 / 2004.10.15統合)


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2004.10.15 編集