Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
サテイの目線が、すっと逸れた。一瞬の間。
「…どうしたんだい?」N.K.の言葉に、びくっとしたようにサティは向き直り、そして微笑んで言った。「なにが?」
「話をきいてるのかい?心ここにあらず、じゃないか。このところ、時々そんな感じだよ。前はよく「あっち」の話を聞きたがったのに、このごろじゃ全然だ。」
「そんなことないわ。…ごめんなさい。ただ、…」
「ただ?」
「…」
「なんだよ、なにか気になるのか?」
「…ただ、あなたにはあっちの世界があるってこと。」
「え、そんなことか。ぼくが浮気でもしていると思ってるのか?」
「まさか!…そうなの?」
「とんでもないっ!ぼくがきみに首ったけなのは知ってるだろう。それに、現実世界に君みたいなきれいな女はいないよ。うん、絶対。」
「うふっ、そう?…でも、あなたには私の知らない世界がある。わたしの知らないあなたのいる世界が。最近、ときどきそのことを考えるのよ。」
「ぼくのいる世界は君のいる世界だ。たしかにあっちでの仕事もあるが、できるものならぼくはこっちに来てしまいたいくらいなんだ、ネオみたいに。」
「ダメッ!ダメよそんなの!」
N.K.はサティの激しい反応に驚き、そしてすこし傷ついたように言った。「きみは、ずっと一緒にいたくないのかい?」
こんどはサティが驚く番だった。「えっ…。ごめんなさいね、でもそんな意味じゃないのよ。私はあなたと一緒にいたいわ、いつまでも。そう、「死がふたりを分つまで」…それでもいやね。たとえ死んでも、よ。」
「だって、ぼくがこっちに来てしまえば、そんな心配はないじゃないか!」
「そうね、確かに。でも、私は他のことを考えていたの。あなたの肉体と…、そして、あなたの子供のことを。私が愛したあなたは肉体そのものではないかもしれないけど、その肉体があなたを育んだことは確かだわ。わたしは、あなたの全てを愛しているし、その体も、そしてもし生まれるとしたら、その子供も愛することができるでしょう。でも…。あなたが他の女と子供を作るなんて…、いやっ。わたしは、あなたの子供が欲しいの、わたしとあなたの子供が!」
N.K.は呆然とした。ことばも出ないまま、サティを見つめた。
「…解ってるわ、ごめんなさいね、あなた。ここで一緒にいられるだけで十分よ。そうでしょう?」
N.K.は、そっとサティを抱き寄せて言った。「…そうさ。ぼくたちはずっといっしょだ…」
しかし、胸にサティの顔をうずめたまま、N.K.はまだ遠くを見つめていた。彼の後ろにある本棚には、サティとその両親の写真がかざってあった。
「N.K.、ちょっとぼくの部屋まで来てくれないか?」ネオに声をかけられた時、彼はディスプレイを見ながら、ディスプレイを見ていなかった。かれが返事をするまもなく、ネオはさっさと自分のオフィスに向かっていた。立ち上がり、そのあとについてかれのオフィスに向かう。
ネオのオフィスはもちろんビルの最上階にあった。まあ、プロジェクト・リーダーのオフィスとしては大きい方だが、もちろん神様としては質素なものだ。ネオはエンジニアのチーフとしてあらゆる作業に首を突っ込み、ときおりは泊まり込んでコーディングまですることもあった。彼にとっては、ハッキングこそ最大のゲームなのだ、むかしも今も。
ネオは、N.K.を大きな窓のそばのソファに座らせ、自分はその向かいに座った。
「コーヒーでもどうだい?」「いいえ、結構です。」N.K.は居心地が悪かった。このソファに座るのは初めてだ。このオフィスによく来るとは言え、いつもネオの仕事机の回りでダイヤグラムやチャート、それにソース・リストをいじくり回していたのだ。ネオはのんびりと窓の外を眺めた。そして、口を開いた。
「いったいどうしたのかね?まるで心ここにあらずじゃないか。」
その、全く同じ言葉を自分自身が口にしたときのことを、N.K.はまざまざと思い出した。ま、しかたないな。当然と言えば当然だ。「…申し訳ありません。」
「君が仕事のことでそんなになる訳がない。問題が難しければ難しいほど、集中するたちだからな。…サティとなにかあったのか?」
「わかりますか?」
「はっ、恋する男は誰が見てもわかる。だが、それだけであんなになるとはおもえない。もし、よければ、しゃべってしまわないか?力になれるかどうかはわからないが、とにかく話を聞いてやることはできるぞ。」
「…、実は、サティが子供をほしがっているんです。」
ネオは一瞬笑い、そしてすぐ表情を引き締めた。二人の間に沈黙が続く。そこへトリニティがノックもせずに飛び込んできた。
「ネオ!今月の進捗評価がでたわ!SPI(スケジュール進捗指標)は問題ないんだけど、CPI(コスト・パフォーマンス指標)に難があるわ。プロジェクトマネージャーとして言わせてもらえば、WBS(ワークブレイクダウン・ストラクチャー)の…、あら、ごめんなさい。いらっしゃい、N.K.。いいわ、あとにするわ。…なに?何かあったの?」
ネオはN.K.に目配せをした。N.K.はうなずいた。「…実はね、トリニティ。サティのことなんだけど、彼女が子供を欲しがっているそうなんだ。」
「あら、おめでとう!予定は?」
「ことはそう簡単なものではないと思うんだけどね。」ネオは肩をすくめた。「いまいいかい?きみにも聞いてもらった方がよさそうだ。きみは女だったからな。」
「ちょっと!それ、どういう意味!?わたしは、いまでも立派な女よ、教えて差し上げましょうか?旦那様?」
「まじめな話なんだ、トリニティ。座ってくれ。N.K.、いきさつを話してくれないか?」
N.K.はあの会話のことをふたりに話しはじめた。
「どう思う?」ネオは言った。トリニティは背中を向けたまま言った。「N.K.とサティのこと?」「そうだ。」彼女は寝返りを打ち、向き直った。
「私には、痛いほど解るわ、サティの気持ち。私だってときどき思うもの。子供を作っておけばよかった、って。しかも、彼女の場合、N.K.はその気になれば子供を作ることができる。問題は、彼女との間にはできないけど、ってことね。」
「そうだ。しかも、これは君が思っているほど小さな問題じゃない。いや、二人には十分大きい問題だけど、僕が考えているのは、その影響なんだ。やっといま、マシンと人間が歩調を合わせて歩き出したところで、お互いの間の理解もずっと進んでいる。しかし、この問題は、やっぱり人間とマシンの間には溝があることを思い出させてしまうんじゃないかな。ぼくは、サティとN.K.の関係には驚きはしない。サティは強力だからな。初めて会った時から魅力的だったけど、成長した彼女に会ったときにはほんとにびっくりしたもの。まさに破滅的…いてっ!なんだよ!」
「あなたがロリコンだとは知らなかったわね。マザコンとばっかり(笑)。…でも、たしかにそうね。いえ、サティじゃなくて、マシンと人間、ってこと。私たちは、人間だったけど、今はプログラムだわ。その両方の体験があるから、ある程度両方を理解することもできるけど、そうした体験のできるのは、人間として生まれた者だけ…。その事実だけでも、十分脅威となるのはたしかね。プログラムっていっても、願望や欲望、愛や嫉妬という感情を持っているのは確かだもの」。
「そうだね。しかも、ぼくが初めてそれを知ったのも、じつはサティとその両親を通してだった。そのサティが悩んでいる…。」ネオは口をつぐんだ。
しばらくして、トリニティが言った。「問題は、人間はプログラムになることができるけど、プログラムには人間になることができない、ってことよね。でも、わたしはよもや、プログラムになることができるなんて夢にも思わなかった。それはあなたのおかげ、あなたの救世主能力のおかげよ。」
「それだけじゃない。マシンによる研究もあったし、なにより、君のど根性のせいじゃないかな。」
「またつねってもらいたいの?…とにかく、思いもしなかった形で、人間がプログラムになる方法は見つかったのよ。なにかの拍子に、プログラムが人間になる方法がひょいと見つかるかもしれなくてよ。」
「何かの拍子に、じゃない。なんにせよ、それを求めない限り、手に入ることなんてないのさ。それが、結局、救世主の正体なんだから。」
数日後、ネオはなにか引っかかるものを感じていた。トリニティの言った「プログラムが人間になる方法」…。もちろん、そんなものが人間の能力として自然発生的に生まれる訳がない。たとえそんな能力が人間に備わったとしても、それを持っているのが人間であっては意味がない。人間の能力を使うためには、人間の意志が必要なんだ。しかし、意志があるということはその人間にしっかりとした人格があることに他ならない。それをプログラムに置き換えるようなことが許されるのだろうか?それは人間を乗っ取るようなモノであってはならないはずだ。
そのとき、ネオはハッとした。人間を乗っ取る…。そんなことは許されない。が、かつて一度だけ、乗っ取られた人間を見たことがある。それは、マシンシティへ向かおうとするロゴス号の中、トリニティに襲いかかり、自分の目を潰した男…。そして、かれを乗っ取ったのは…。見えない目で見えたその姿は…。ネオは自らの中に埋没し、かつて戦いの末に取り込んで封印していたものを初めて取り出して、じっくりと調べはじめた。
外は小春日和の良い天気だった。ネオはちいさな家の前で車を降りた。昔風のちいさな平屋で、回りの庭は花が咲き乱れている。窓は開け放たれ、煙突からはかすかな煙がたなびいている。なにか、あまい匂いがただよっていくる。ネオは中にはいり、声をかけた。「こんちはー。だれかいますか〜。」
「おやおや、あんたはいっつも、ちょっとばかり早くくるんだから。クッキーが焼けるまで待っていておくれ、もうすこしだから。」オラクルは台所からそういうと、またオーブンの加減を調べはじめた。
お茶とクッキーをもって出てきた庭に出てきたオラクルは、ピクニックテーブルに置いてネオを呼んだ。「こんな天気は外でお茶がいちばんよ。クッキーにもいいしね。」ネオはクッキーに手をのばし、ひとかけらかじって、すぐ残りを口に放り込んだ。「これだよ、これ」
「あんたがクッキー好きになってくれてほんとにうれしいよ。でも、太ったってわたしゃ知らないからね。で、みんなは元気かい?かわいいサティはどうしてる?」
ネオはオラクルを見て笑った。「じゃあ、なんで来たのかはもうご存じ、ってわけだ。」
「あら、私が知ってるのは、あんたが面倒見がいいってことと、私はサティが大のお気に入りってことだけさ。見てごらんよ、この花畑!みんなあの子がアレンジして手入れしてくれたんだよ!それだけでも、いつでも私が最初にあの子のことを聞くくらいのことには十分さね。でも、たまたま、私にも、あの子に渡してもらいたいものがあってね、いつ渡そうかと考えていたんだよ。ネオ、おまえさんが届けてくれないかい?」
「もちろん、よろこんで。でもサティにひとこと言えばいつでも飛んできますよ、自分で渡したいんじゃないですか?」
「そうね、でもこれはあんたでなきゃだめなんだよ。」オラクルはそういうと、一通の封筒をネオに渡した。「ここへいって、受け取ってもらわなきゃならないからね。それからあの子に届けて欲しいんだよ。」
ネオは封筒を開け、中に入っている明細書を見た。「これは…。」驚くネオの顔に、次第に笑みが拡がっていく。
「あたしはね、ずっとサティの花嫁衣装姿を見たいと思っていたんだよ。で、あんたの用件は?」そういって、オラクルは笑った。
色のない壁と床、たくさんのステンレス機器、それにモニタ。中央におかれた手術台の上には、女がひとり乗って眠っている。体には毛布がかけられているだけだが、その頭にはたくさんの電極が豊かな髪のなかに差し込まれていた。てきぱきと動くスタッフの中に、一人だけすることもなく、うろうろとただ様子を見守っている男がいる。邪魔にならないようにしているつもりなのだが、つい手術台に近寄ろうとして、他のスタッフからたしなめられたりしている。そうこうするうちに、何かの準備が終わり、スタッフの動きが止まった。
「心拍数異常なし!」「体温異常なし!」…次々に報告がなされていく。「脳波異常なし、フラット・ライン!」「準備完了!」
モニタに映ったネオがN.K.に声をかけた。「始めるぞ。いいな、N.K.。…では、いくぞっ!」
モニタにはいっせいに数値がちらつき、ベッドの上の肉体はあちこちとけいれんが走る。N.K.はいまにも泣き出しそうだ。そして、脳波を表示するモニタの真っ直ぐな線が突然狂ったように波打ち、それはすぐに安定したパターンに変わった。「脳波稼働!睡眠パターンです、異常ありません!」スタッフは全員が歓声をあげた。しかし、N.K.はまだ不安そうだ。
「こちらのチェックでも全部OKだ。よし、N.K.、うちの娘をよろしくな!ただし、最初は歩くことはおろか、口をきくこともできないだろう。筋肉の動かし方に慣れていないからな。しばらくはリハビリが必要だろう。ま、そっちは心配してないけどな、N.K.、あんまり変なことばっかり先に教えるんじゃないぞ。」スタッフの爆笑にN.K.は真っ赤になった。
「では、仕上げにかかろう。もう大丈夫のはずだが、なったってあの子にとっては生まれて初めての経験なんだからな、人間になるのは。もしかしたら、なれない感覚でパニックになるかもしれん。それを大人しくさせるのは、お前の役目だ、N.K。そのためにその部屋に入れてもらってるんだから。お姫様を目覚めさせるのは王子様なんだからな。」
N.K.はゆっくりと手術台に近づき、そっと声をかけた。「サティ…。サティ…。」かれはその手をとり、さらに呼び続けた。「サティ!」
突然、彼女は目を開け、そしてN.K.を見た。いきなり、N.K.に握られた手をふりはらい、全身を動かそうとした。その動きは支離滅裂で、わずかに開いた口からは、ただ「あー」とも「うー」ともつかない音が発せられた。N.K.は恐怖に凍り付き、必死でその体の動きを止めようとしたが、かれの手が触れるたびに、まるでその場所に焼ごてが当てられたかのように反応した。
「やはり、感覚の洪水でパニックになっている!N.K.、なんとかしろ!」モニタのネオが叫ぶ。
N.K.は言われるまでもなく、なんとかできるものならとっくにしてるのだが、なにをどうしていいのかわからない。というよりも、N.K.自身がパニックになりかけていた。サティ、サティ!かれは手術台の回りをうろたえて回っていた。落ち着いてくれ、大丈夫だ、サティ!ぼくはここだ、解るかい、ぼくはここだよ、サティ!そして、かれは両手で彼女の頭をおさえ、顔を自分の方に向けさせた。怯えて見開いた目が一瞬N.K.をとらえ、凝視する。その目は恐怖のなかに何かを見たような光が宿った。サティ!ぼくが解るんだね、サティ!おお、SATI!!そしてN.K.はサティの唇に自分の唇を合わせた。
サティの体の動きが一瞬止まり、また震えた。しかし、その震えは次第に収まっていく。そして、長い長いファースト・キスが終わった時、サティはただ横たわり、目を見開いてN.K.を見つめている。しかし、すぐに今度は何かを言いたそうに口を開き、声を出す。しかし、それはただ言葉にならない「イー、イー!」という音でしかなかった。N.K.はただ、それを見守り、声と掛け続けた。「ぼくはここだよ、サティ!大丈夫だってば!」
そのとき、ネオの横で見守っていたトリニティが言った。「いやーねぇ、N.K.、あなたサティの言ってることがわからないの?」
サティの言っていること?だってすぐはしゃべれないって言ったじゃないか!N.K.は聴き取ろうとしたが、さっぱり解らなかった。
「だめだ、聴き取れない。あなたは解りますか、ネオ?」N.K.が尋ねる。
「え?いや、ぼくにもわからん。君には解るのかね、トリニティ?」
「いやだ、あなたも?あきれた。これだから、男ってヤツは、もう!いいわ、今回だけは通訳してあげる。でもこれっきりよ、いい?」
「いいから早く教えてくれよ!サティが、サティが!」
トリニティはため息をつき、そして言った。
「彼女が言っているのは、こういうことよ。 "KISS ME!"」
結婚式は豪華絢爛だった。それは、サティのたっての希望で、海上基地の甲板の上で行われた。雨風よけの透明なドームの中、しつらえられたチャペルには、マシンシティでのあの伝説の会議以来初めて、マトリックスの人がホログラムによって参列していた。サティの両親もN.K.の両親もいる。むろんネオもトリニティも。そして、なかでもひとりはしゃぎ回っていたのは、むりやり連れてこられて苦虫をかみつぶしたような顔をしたアーキテクトを従えたオラクルだった。
「ほら、やっぱりあのドレスがぴったりじゃないか!あたしはこれが見たくて、5年もまえからせっせと準備していたんだからね!」そう、オラクルがネオに託したサティへの贈り物は、純白のウエディング・ドレス…ではない。それは、いま、サティが纏っているドレス以上に美しいもの、つまり、サティの肉体そのものだった。オラクルは、手を回して、サティにふさわしい肉体をあらかじめ用意しておいたのだ。いくら促成育成とはいえ、適齢期の女性の体にまでクローンを育成するには3年はかかる。この結婚が5年前に解っていたのかって?そりゃ…もちろん、オラクルだもの。
式が進み、それぞれの誓いの言葉になった。「汝、N.K.はこのサティを妻とし、…死が二人を分つまで、生涯の伴侶とすることを誓いますか?」「はい」「汝、サティはこのN.K.を夫とし、…死が二人を分つまで、生涯の伴侶とすることを誓いますか?」「いやです!!」
びっくりするN.K.に向かってサティが言った。「いやよ、そんなの。「死が二人を分つまで」じゃなく、「死んでも」じゃなきゃ!」
そして、ふたりが誓いのキスをかわした時、空を覆う雲に一瞬の隙間ができ、一条の光が差し込んだ。それは、ほんのわずかな間だけ、それもほんのかすかな光条でしかなかったけれど。
それに気付いたオラクルがつぶやいた。
「おやまあ、あの子にここまでできるとは思わなかったけどね。でも、だからあたしはあの子が大好きなんだよ。」
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2004.10.15 編集