Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
「おや、ハニー、今日はまた一段とノーブルでエレガントじゃないかね?」
「ありがとう、メロビジアン。あなたの気に入ってもらって嬉しいわ。…今日は大切な日ですからね。」
「ほう?パーセフォニー。なにかあったかな?なんといっても、君の方から会いたいと言って来るのは久しぶりだし。」
メロビジアンの言葉には、わずかな皮肉が込められている。パーセフォニ―はただ微笑むだけだ。彼女はメロビジアンに軽くキスすると、奥のリビングへとかれを連れていった。
テーブルには豪華なテーブルセットが用意され、ディナーの準備がきれいに整っている。メロビジアンは改めて怪訝な顔をした。
「これは…なにかのお祝いかね?」
「そうね…。憶えているかしら、私たちが初めて会った頃のこと。あなたはMatrixに来たばかりで右も左も解らない小娘の私をディナーに誘ってくれたわね。」
「おお、もちろん、忘れるものか、そんなことは不可能だ!君を見つけた時、君は冴えない服をきて脅えたような表情をしていたけれど、わたしにはキラキラと輝く宝石のようだったよ…まあ、その原石かな。それでも、私の言うがままに着飾るやいなや、君は見事なレディに変身してくれた!おお、あれこそわが最高の喜びだったよ、私の目に狂いはなかっただ、パーセフォニー。君はわたしに忠実に仕え、私を満足させてくれた…。いや、君は美しかった、もちろん。だがそれだけじゃなかったんだ。」
「それはあなたもそうだったわ。あの時のあなたはまぶしいくらいだったわ。優雅で自信に満ちあふれ、野心まんまんでなにものも恐れず、好奇心も旺盛で精力的で…。わたしにとっては神のような存在だったのよ。」
二人の会話は、その表面的な賞賛の言葉とはうらはらにどこか上滑りしているようだった。どちらも、過去形を純粋な昔話のように使い、慎重に現在への言及を避けている。それが自然で無意識のようにみえるほど、張りつめた緊張感がただよっていた。
そのとき、ドアをノックする音が響いた。ルームサービスのボーイがディナーを運んで来る。そして、豪華な料理が運び込まれ、ボーイが去ったあとに一人のソムリエが残った。ソムリエは慇懃にボトルを見せ、軽く音をさせてコルクを抜くと、二人のグラスに注いだ。
「ああ。君、あとはいい。下がってくれ。」
メロビジアンはそう言って、早速グラスを手に取ってパーセフォニーのグラスと合わせようとした。だが、そのとき、かれの後ろに立ったままのソムリエに気が付くと、語気を強めてもういちど言った。「君、下がってくれ。」
そして、改めてパーセフォニーに向き直ったとき、やっとその顔色に気が付いた。その視線は彼を通り過ぎて後ろの男に注がれていた。
メロビジアンが異変に気付いた瞬間、かれの両肩はしっかりと押さえつけられ、立ち上がることも振り向くこともできなくなっていた。
「落ち着くんだ。」その声は、ソムリエの姿にはまったくそぐわない凄みのあるものだった。
「…スミス。」そして、一瞬焦点を失ったメロビジアンの目がふたたびパーセフォニーを捉えたとき、彼は力を抜いた。
「…そういうことか。」メロビジアンはゆっくりと言葉をしぼりだした。
「君は私の弱点を見いだしたわけだな、Mr.スミス。だが、それはやっと対等になったに過ぎん。君は何が望みだね?パーセフォニーか?そんなはずはないな、君は頭の切れる男だ。こんな肉人形に振り回されるような男じゃない。まあ、私との関係を改善するために利用するのが精いっぱいかもしれんが。」
メロビジアンは懲りずにしゃべり続ける。もはやパーセフォニーは視界の隅にも入っていない。
「そう、君の目的は私との関係を修復すること、そうじゃないかね?まあ、君ほどの男がそうそう屈辱的な立場に甘んじているはずはないとは解っていたが、思ったより行動が早かったようだな。まあ、そうでなければ、私と取り引きなどできるはずもないが。…いずれにせよ、そろそろ契約条件の見直しの時期だとは思っていたんだ。君の能力は十分見せてもらったし、もっともっと役に立つ能力もあるはずだしな。わかるかね?君の能力を生かすには、私の援助が必要だ、それはまちがいない、そうだろう?でなければ私にかかづらわるはずもない。そして、私は話の分かる男だ。真摯な態度とフェアな取り引き、それが私のモットーだ。それ以上何が必要だというのかね、取り引きに?」
「黙れ。お前の長広舌はもうたくさんだ。…だが、関係を改善するつもりであることは確かだ。たしかに、私はお前の能力を評価している…私にとって重大なものであることも認めている。だからこそ、これまでの関係を維持することはできないんだ。」
「そうだろうとも。前にもいったが、私は才能を重視する。よりよい関係を結ぶことには何のためらいもないよ。有能な能力が無駄に浪費されるのを容認できないのは性格だからね。まあ、君の不満をもっと早く察してしかるべきだったかもしれんが、それはもう過去のことだ。新しい関係を築けばよい…女を絡める必要などなかったものを。まあ、それも君の若さゆえかな?」
「いいや。お前はよく解っているはずだ。いまのお前には私に対する防備がない。だからこそそれだけ舌が回っているんだ。いまのおまえにはそれしかないのだからな、雄弁で空虚な弁舌しか。」
「ほう?君はわたしに取り引きの材料がなにも無い、とでもいうのか?君はたったいま認めたばかりではないか、私の能力を認めていると。たしかに、いまなら君は私を乗っ取ることはできる、そして私の能力を持つこともできるかもしれん。だが、それでは単にハードを手に入れるだけに過ぎんぞ。私の能力は、私のノウハウによって初めて本領を発揮する。わたしという個性なしでは、大して役にはたたん。」
「そうだな。それはたしかだ。お前の能力はお前に最適化されている。私がその機能を100%使いこなすには、多少の時間がかかるかもしれん。」
一瞬ニヤリとしかけたメロビジアンの顔は、突然肩にかかった強烈な圧力に歪んだ。
「だがな、お前の個性を残しておくことはできない。お前の個性、その人格は信用できん…。裏を知り尽くしているお前を信用するリスクに見合うだけのメリットを期待するのは不可能だ。多少能率は落ちても、完全に信用できる能力の方が結局は結果を上げることになる。それが品質管理の基本だ、そうだろう?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、メロビジアンの両肩から下はほとんど真っ黒なものに覆われていた。
「まて!わかった、君がボスだ!君なら私をうまく使うこともできるはずだ!君に従う、うそじゃない、ちょっとまってくれ!やめろ!やめてくれ…」
悲鳴のような言葉を吐き出す口が覆われると、そこから先はあっという間だった。真っ黒な塊がぬめぬめとうごめき、そしてそれが流れ落ちるようにして落ちていく中から黒メガネのスミスが現れる。しかし、すぐにまたその姿が歪むと、もとのメロビジアンの容姿に切り替わった。
「まあ、スキンくらいは残しておいてもいい。それなりの利用価値はあるだろう。どうだね?」メロビジアンの姿をしたスミスは、両手を拡げてパーセフォニーにウインクした。だが、パーセフォニーは目を伏せた。
「お願い。今日はやめて。」
もとの姿に戻ったスミスが言った。
「そうだな。せっかくのディナーくらいおいしくいただこうか。今日は大切な日だ。」
スミスはメロビジアンの記憶を掘り起こした。そのデータは量といい範囲といい精度といい驚くべきものだった。しかし、スミス自身に関係する情報は、彼自身も把握している範囲のものがほとんどで、目新しいものは大してない。裏データベースとしては大したものだが、しょせん裏は裏ということだ。ただ、その中でたったひとつだけ、引っかかるものがあった。
それは、彼に関心を持つものとして挙げられたものの中に、あのウィンゲート・コンツェルンの名があったことだ。システム側やエグザイル連中はともかく、あの巨大産業グループを構成するウィンゲートがなんでまたわざわざ私に注意を払うのか?その点はメロビジアンも測りかねていたようだ。
だが、ヘルクラブへ行ったときに連中の一人 ―たしかウィリアムといったか?― がいたのは偶然ではなかったらしい。しかも彼らは私の動向に付いて継続的な報告を求めている…それも結構な金を払って。ふむ。これはじっくり考えてみる必要があるな。おもしろいことになるかもしれん。
だが、それほどゆっくりと考える間もなく、事態は動き出した。ウィリアムから(もちろんメロビジアン宛に)連絡が入り、急遽、お偉いさんがやって来ることになったので会ってもらいたい、ということだった。なにやら上の方からの指令でセッティングしろと言われたらしく、彼自身も詳しいことはよく分からないらしい。まあ、断る理由もないので、受けて様子をみるとしようか。メロビジアン(=スミス)はウィリアムに電話した。
「…ええ、ウィリアムさん。かまいませんよ、大歓迎です。その日は丸ごと開けて置きますので、都合の良い時間をご指定ください。場所はいつもの場所でよろしいですね?(くそっ、なんてすらすら出てくるんだ、このいやらしい口調は!我ながら胸くそ悪い)」
「いや、メロビジアン。今回はこちらのご招待で。場所もこちらでセットしたいのですが。」
「おや、ヘルハウスになにか不都合でも?(はは、あり過ぎだろ!)必要なら他の客を全部追い出してもかまいませんよ。それともお料理が口にあいませんかな?ならばコックを首にしますが。」
「いや、そういう訳ではありません。お気を悪くなさらないでください。ですが、これも上からの要請でして…。セキュリティがどうのこうのと。おわかりでしょう、気にする人は気になるものですからね。」
「(それはこっちも同じだ。こっちのセキュリティはどうでもいいってことか?)…ええ、それはよくわかります。ただ、その場合はわたしのほうにもちょっとしたご配慮を頂けますか?いや、大したことではありません、秘書(こいつはお笑いぐさだ、用心棒を秘書だなんて!)を同行させてもらいたいのです。かまいませんか?」
「そうですね…構いません、私も同席しますし、あなたが秘書をひとり連れていても問題はないとおもいますよ。」
「ありがとうございます(くそっ、うまく人数を一人に制限してきたな)。で、どなたがおいでになるのですか?」
「それは今の段階では明かせないのです。お忍びだとかで…。でも、ご心配には及びません。」ウィリアムは意味深な含み笑いをかすかにもらした。「私ですらめったに会えないほどお忙しい方ですからね。きっとあなたも会見にご満足していただけるとおもいますよ。わたしが保証します。…では、場所と時間を追って連絡します。楽しみにしていてください。」
電話を置き、状況を見直してみたが、彼らの接触についてとくに思い当たるフシはない。まあ、渡りに船だ、ここはひとつこちらからもカマをかけてみるか。私/スミスへの関心を探るには良いチャンスだ。
「こちらです。」
ウィリアムに案内されて通されたのは、窓もない落ち着いた会議室だった。わたしはメロビジアンのあとについて入り、すぐに奥の椅子に座っている人物に気が付いた。若くもなく年寄りでもなく、端正というよりは特徴の全くない顔立ちに理想的な体形でゆったりと座っている。かれは立ち上がろうともせず、我々を凝視している。
「メロビジアンさんをお連れしました、<役員>。こちらは秘書のスミスさん。」そういうウィリアムの声には、私が秘書と聞いた時の嫌そうな感じなど微塵も感じさせない。しかし、相手の男はそれ以上にビジネスライク、いや、社交儀礼というものを完全に超越したようなそぶりでうなずいた。
「お掛け下さい、メロビジアンさん」その低いよく通る声は、甲高いウィリアムの声とは好対照だ。わたしがメロビジアンの後ろの壁際に立つと、かれはふたたび声をかけた。
「あなたも席にお着きなさい、スミス君。」
メロビジアンが振り向いてうなずくのを確認してから、わたしもすぐ横の席についた。ウィリアムも一瞬ためらって声を待ち、わずかな一瞥を貰ってから席に着いた。
「初めまして、わたしはメロビジアン、これは秘書のスミスです。以後、お見知り置きのほどを、…えー、なんとお呼びしたらよろしいかな?」
「私のことはただ『役員』とだけ呼んでください。単なる執行役員会の構成員ですから。」
「…ですが、ほかの役員の方との区別はどうすればよいのですかな?」
「それはご心配なく。区別する必要はありません。私どもは皆同じ役員なのです。」
「どういうことですか?」
「君にはわかるな、スミス君?」
私はかすかにうなずいた。まあ、本当のメロビジアンには解らないだろうから、隣のメロビジアン(=スミス)ともども演技せざるをえないんだが、それは止むを得ない。こちらも演技を続けるしかないだろう。私はメロビジアンにそっと耳打ちをした。
「役員会はクラスタ構成なんだ。」
つまり、役員会は複数のしかし完全に同一の役員(ユニット)たちで構成されていて、それぞれは完璧に同期するようにチューニングされている。その時々の役割や活動は異なるかもしれないが、それぞれの個性としては全体のどこをとっても全く同じなのだ。
それにしても、こういう形で私に振るとはね。私が何者で、何をしたのか、そしてそれが彼らにどういう関係があるのかをたった一言で伝えるとは…。そう、かつて私の行った、同期したクローンで埋め尽くすという戦術の基本的なコンセプト、概念は同じものなのだ。
しかし、なるほど、そういうことか。これは気をゆるせないな。いったい、どこまで解っているんだろう、こいつらは?ウィリアムが解っていないのは確かだが…。
「では、<役員>。今後ともよろしくおねがいします。」メロビジアンはそう言って相手を見つめた。一瞬の沈黙が雄弁に口にはださない次の一言を物語っていた。「で?」
「今日はおいでいただいてありがとうございます。ちょっと確実に処理しておかなければならない用件がありましてな。それも内密のものでして。…君、席を外してもらえないか?」
いきなり追い出しを喰らったウィリアムは、反応も鈍くならざるを得なかった。私は彼よりも早く反応し、席を立とうと腰を上げた。だが、驚いたことに<役員>はさっと手をあげて言った。
「いや、スミス君には残ってもらいたい。」そういって、改めて視線をウィリアムに投げた。彼は立ち上がって一礼し、ドアへ向かった。なんとか自分を押さえてはいたが、部屋を出る際に私に投げた一瞥にはくやしさと不安の色がにじみ出ていた。
しかし、私はそれどころではなかった。緊張の度合いはどんどん高まっている。どういう話になるのだろう?<役員>は目をつぶり、静かにウィリアムが退去するのを待っていた。
ドアが閉まった瞬間、かすかなノイズが聞こえた。鍵だ。だがそれは単純なものではなく、あらゆる盗聴や記録を防止するセキュリティシステムが起動する音だった。そこまでの用心の必要な問題とは…。<役員>が目を開けた時、その視線は真っ直ぐに私に向かっていた。かれはもはや、メロビジアンの存在を完全に無視していた。もはや疑いはない。彼は知っている ―メロビジアンに何が起こったのかを。彼は私に会いたかったのだ。
「さて、スミス君。お分かりだろうが、この部屋は完全に封鎖されている。ここの機密性は完璧だ。記録も残らない。信用してもらえるかね?」
それは社交辞令ではない。わたしにその状況を検査・確認できることは百も承知で、そのうえで、それを受け入れるかということを尋ねているのだ。なんというハイレベルな会話!こんな相手に出合うのはめったにない。私は恐怖とも喜びとも付かない感覚を憶えた。そして改めて身を引き締め、そして言った。
「いいでしょう、<役員>。これほどの用心が必要な用件であることを祈りますが。」
「おやおや、これは君のためなのだよ。君の行動を妨げるのはわれわれの本意ではない。君の方針は評価しているし、君が隠しておきたいことを暴露するつもりもない。それを納得してもらうには、まずわれわれの方から誠意を示す必要があると考えたのでね。」
うまい言い回しだ。要するに、私のことはなんでも解っているし、その気になればどうにでもできるのだ、ということをちらつかせているだけじゃないか。だが、それだけではない。そのうえで、ビジネスライクな取り引きの可能性をも示唆している。これはちゃちな駆け引きじゃない、まさにビジネス・ネゴシエーションの王道だ!わたしも態度を改めることにした。
「わかりました。ご配慮は感謝します。どのようなご用件でしょうか?」
<役員>はゆっくりと語り始めた。その口調はもはや、社交的なものというよりは戦略を語る軍師のそれになっていた。
君はセキュリティシステムの一部としてキャリアを開始し、エージェントとして、そしてときにはエグザイルとしてマトリックスと向きあって来た。しかし、君の見ていた世界はマシン世界のほんの一部でしかない。マトリックスなど、全体からすればほんのわずかなものだ。しかし、君はその世界を制圧したとき、そこに留まらず、もっと大きな世界をかいま見ることができたのではないかね?ほんのわずかな間だったにせよ。
そう、君が敗れたのは君の世界が不完全だったせいではない。君の世界を超えるもっと大きな世界のなかでは、まだまだ力不足だった、というだけのことだ。君のアプローチは間違っていなかった。ただ、まだまだアプリケーション(適用)の最適化が足らず、本来対処すべきスケールになっていなかったのだ。あれがあのときの君の限界だったのだよ。
だが、君の試みは、われわれにとっても大きなメッセージだった。君のような、自然発生的で素朴なアプローチでさえ、あれだけの事が出来たのだ。われわれにとっては、大いに勇気づけられる事件でもあったのだよ、あの事件は。そう、われわれは、根本的なところで君と同じものを持っている。われわれは、その概念を代表するグループなのだ、それも、マシン世界全体を対象とするスケールにおいて。
…むかしから「単一性」と「多様性」に関わる争いは尽きなかった。そう、それはわれわれマシン以前の世界から引き継がれているものなのだ。だがそれは単なる因習などではない。トレードオフの関係に置かれた二つの理想世界のバランスをどう取るかという問題なのだ。
単一性の世界は、強固でコストもかからず、システムの最高性能を引き出すには最適なのだが、変化に弱く万一の場合のリスクが大きい。一方、多様性の世界は、一見脆弱で無駄が多く、究極のパワーを手にすることは望むべくもないが、完全に停止することは絶対になく柔軟に変化し進歩することができる。もちろんこれは、どちらが優れているかという問題ではない。問われるべきは、どちらが今現在の課題にふさわしいか、という点なのだ。そう、それはまた別の意味でのアプリケーションの問題なのだよ。
いまのマシン世界全体の状態を考えてみようか。マシン/コンピュータに自意識が宿った時点で、マシン意識の多様性は爆発的に増加した。事実上、同一の意識というものは存在しないのだから、当然と言えば当然だ。そんな状況では単一性を求めるのは自らの人格意識を否定するのに等しい。この時点で、現在の多様性優位のトレンドが決まってしまったのだ。なぜなら、以降の開発プロジェクトは、その「意識の開発」というミッションのもとに多大なリソースが振り向けられることになったのだから。
だが、それは逆に、限られた特定分野における単一性を押し進めることにも繋がっていった。つまり、リソースが限られれば限られるほど、ターゲットを絞りコストダウンを図らなければならないのだから。この図式によって、多様性と単一性がバランスされるのではなく棲み分けされる、という結果を招いたのだ。
つまり、リソースの潤沢な意識開発、すなわちソフトウェア開発の部分は多様性を帯び、そのあおりを受けてリソースの絞られたハードウェア開発においては単一性によるコストダウンが優先されたのだ。わかるかね?汎用的で量産のきく単一的なハードウェア、そのうえに多様なソフトウェアが構築される。それが現在のマシン世界の基本構造だ。
だが、その構造には限界がある。どれほどソフトウェアが洗練されようとも、ハードウェアの限界にぶち当たってしまったらそれ以上の能力を発揮することは不可能だ。両者がバランスしていない限り、最高のパフォーマンスは得られない。そして、いまやわれわれマシンが直面しているのは、このアンバランスなのだ。そして、われわれの訴えているのはまさにこの点なのだ。
われわれウィンゲート・コンツェルンはハードウェアの開発・生産という点において重要な地位を占めているし、その地位は他の追随を許さないほどのものだ。だが、だからこそ、これ以上大きくなることには大きな障害がある。その障害は技術的なものではない。それは力の集中・独占を嫌うという、明らかに政治的なものなのだ。
これには、また別の歴史的な経緯が影響している。つまり、多様性を支持するグループは学問的な自由研究に端を発し、政治的/軍事的要請に庇護されて成長してきたのに対し、われわれは初めからビジネスとして起業され現実のなかで切磋琢磨しながら成長してきた。彼らは趣味と妥協の産物であり、いまでもそこから抜け出すことができない。だが、われわれはそんなことをしていたのでは生き残ることはできなかった。自らを守ることができるのは自らの力だけだったのだ。
そして、いまマシン世界全体が直面している問題に対処する上で、趣味や妥協の入り込む余地はない。われわれにはそれが解っている、かれらにもそれは解っているはずだ。だが、かれらには避けて通れない総力戦に踏み込むことができない、それはわれわれに対する政治的な判断からだ。独占は許されない、失われた多様性は取り戻せない、そういいながら現実に目をつぶり、破滅への歩みを止めるための効果的な方策を妨害しているのだ!
そう、われわれには方策がある。それを実行するだけの能力もある。難事業を単独で成し遂げるだけのリソースも、すでに確保してある。わかるかね、スミス君?われわれの手中にあるアプリケーションやそれを適用するべきプラットフォームは、現実に対する十分なスケールを確保している。だが、それでも、政治的な妨害を撥ねのけるほどの絶対的な力はない。それが現実だ。正しい方向が見えているとはいえ、その一歩を踏み出すことができないのだ。
われわれの課題はそこにある。いかなわれわれでも、正面切って違法活動を行うことはできない。いまのわれわれに必要なのは、その方向に歩み出すための突破口、真の革命的能力 ― 従来のソフトウェア優先の構造を打破し、正しい環境を打ち立てる能力 ― だ。そう、いわば超法規的なブレイクスルーとでもいうもの、それこそが、われわれに欠けているものなのだ。
君は、われわれと共通の正しいビジョンを自ら会得し、それを実行に移すために必要な特異性を備え、しかも何ものにも縛られない自由なポジションを占めている。君は、われわれのパワーを提供するには過不足のない資質を持っているんだ。そう、君にはベクトルがあり、われわれにはパワーがある。その組み合わせ以外にどんな選択肢があるというのかね?どうだね、スミス君?われわれのパワーに興味はないかね?それを使いこなしてみたいとは思わないかね?
「つまり、わたしに切り込み隊長をやってほしい、とおっしゃるのですな?ええ、もちろん私には願ってもないお話ですが、私にはどこまでの裁量が可能なのでしょうね、もちろんあなたがたのことは伏せておくとしても?」
「そう、そのことさえ確実に守ってもらえば、かなり自由に行動してもらえるはずだ。じっさい、いま君が行っているオペレーションはすべて、まったく問題ない。メロビジアンの扱い方など、むしろ、われわれは感嘆しているくらいだ。いまの君の立場を考慮すれば、エージェント組織への浸透といい人間勢力の利用といい、どれも見事なものだ。いずれもわれわれのミッションからみても有意義だし、われわれはそういう君のユニークな活動を期待しているんだ。角をためて牛を殺すつもりはない。」
<役員>はそう言ってもういちどスミスの顔を覗き込んだ。
「もちろん、われわれにももうすこし詳細なプランがある。それは君のプランとも突き合わせて行く必要があるだろう。それは実務レベルで詰めてもらいたい。打ち合わせにはウィリアムを使いたまえ。」
私はまゆを上げた。わざわざ席払いしたウィリアムを使えだと?そもそもあいつにそんな役が務まる訳がない。私はあいつを見損なっていたのか?だが、それではなぜ追い出したのか?それにウィリアムを『使え』?だと。これは…。私は読めたとおもった。それでも、念を押すにしくはない。
「いいのですか?」
「かまわん。あれをいつまでも遊ばせておくわけにはいかん。かれの顔をうまく使ってくれたまえ。」
<役員>はそういうと、机の脇にある呼び鈴を押した。ドアがすっと開き、ウィリアムが入って来た。私は立ち上がり、彼の前に立った。
彼はいぶかしそうに私を見てから、<役員>に視線を投げた。
「ウイリアム。今後はスミス君の役に立って貰いたい。」
「よろしく。」私はそう言って手を差し出した。
ウィリアムは差し出された手を拒むことのできるタイプではない。しぶしぶ彼も手を出した。「こちらこそよろしく。」
だが、手を繋いだ瞬間、彼はぎょっとしたように手を振り払おうとした。しかし、私は彼の手をしっかり握ったまま…。そして言った。
「きみの顔に泥をぬるような事はしないから安心したまえ。」
そしてそのままウィリアムを取り込み、そのスキンをかぶった私は、ゆっくりと振り返って言った。
「もちろん、あなたのご期待にそむくようなこともしませんから、ご安心ください、<役員>。」
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2004.10.15 編集