Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
「マスター?」
「ん?」
「あの方がお見えになりました。」
「そうか。通せ。粗相のないように。」
「はい。」
いつも通り騒然とした猥雑なヘルハウスのVIP席で退屈そうにグラスを傾けていたメロビジアンは、別のウエイターを手ぶりで呼び寄せた。
「例のショーだ。いつでも始められるようにしておけ。」
「かしこまりました。」
巨大な体に不釣り合いなウエイターの蝶ネクタイをくっつけた用心棒が、ラリって踊り狂う雑踏のフロアに道を開ける中を、スミスはまっすぐ歩いて来た。回りの狂態など全く目に入らないふりをしている。
「おお、Mr.スミス。よくおいでになりましたな。」
そういいながらも立ち上がろうともしないメロビジアン。その口調の『Mr.』にかかった微妙なアクセントが強調された慇懃無礼さをかろうじて押し隠している。
「どうぞ、遠慮せずおかけください。これからおもしろいショーが始まるところでね。」
スミスは、会釈もせずにウエイターの引いた椅子に座った。
「同席の方を紹介しましょう。こちらは、ウィリアム・ウィンゲート氏。ここへは、まあ休暇というか、その、ちょっとしたリハビリ中でね。」
「ウィリアムです。ビルとよんでくれれば。」そういってウィリアムが差し出した手はあっさり無視されて宙をおよいだ。
「…それから、これはご存じでしょう、パーセフォニー。」
「先日は失礼いたしました。さっそくおいでいただけて嬉しゅうございますわ。」
相変わらず微動だにしないスミス。まあ、黒メガネの下は伺い知れないのだが。
「…私も、貴方が戻られたと聞いて、これはお祝いものだと思いましてな。なんといっても、このマトリックスを文字どおり一世風靡なさったかたですからね…結果はともあれ。」
「おまえは知っているのか?…あの…一部始終を?」
「おお、もちろん。当局はかなり念入りに情報統制を敷いたようですが、そこはそれ、私の情報網もまたユニークなものですから。私自身と同じようにね。」
そう言ってメロビジアンはウエイターの用意したシャンパンのグラスに手をのばした。
「王の帰還に乾杯!」
「ほう…。君は私が王だと認めるのかね?」
「まあ、やぶさかではありませんな。…私自身が王の中の王、帝王であることと同程度には、ね。」
メロビジアンが指を鳴らして合図すると、ステージがパッと明るくなり、それと同時に甲高い悲鳴が響き渡った。覆面をした男が、首輪に鎖を繋がれた女をむち打ったのだ。たった一打ちで、ギザギザのミミズばれのそこここから血がにじみ出した。逃れようとする女を引き戻して、さらに男の鞭が唸る。
「いかがですかな?あなたのご趣味に合わせてみたんですが?」
「どこからそんな事を?」
「おやおや。あなた自身であの子羊をその道に落とし込んだくせに。」
泣き叫び、悲鳴を上げる女の口には、前歯がそっくり欠けていた。
「…耳障りだ。やめさせろ。」
「そうですか?まあ、あなたがそうおっしゃるなら。すぐに静かにさせましょう。」
メロビジアンは手を挙げると、親指を下向きに突き出した。首輪に繋がれた鎖が天井に引き上げられていく。女の悲鳴は押し潰され、止まった。永遠に。女の体が天井の穴に消え、フロアの歓声とともに爆音トランスが再開される。
メロビジアンが視線をステージから戻すと、あらためてスミスの方にむきなおった。沈黙の天使が舞い踊る。メロビジアンは両手をひろげて肩をすくめた。スミスはわずかにまゆを片方だけ上げてみせる。
マティーニのオリーブをつまみ上げて口に放り込んだメロビジアンは、わざとゆっくり咀嚼して飲み下すと、ついにあきらめてため息をつき、のんびりと(見せようと努力しながら)切り出した。
「いかがですかな、Mr.スミス、最近のマトリックスは?」
「それは君のほうがよく知っているはずだ。」
「もちろん。しかし、あなたにとってのマトリックスはどうですか?棲みやすくなっていますかな?」
「どういう意味だ?」
「いや、特に深い意味は…。まあ、表向きはともかく、その道のあなたは超一流のセレブですから。関心を持つのは私だけではないと思いますね。」
「何を企んでいる?」
「そんな、企むだなんて人聞きの悪い。…わたしは才能ある人には敬意を表するたちでね。すばらしい才能が無駄にされるのは我慢ならないんです。」
「無駄になどしていない。」
「おや。…あなたは賢明にもあの<力>をあまり使っていません。まあ、当然と言えば当然ですな、たかが見回り警官でさえしっかり対抗処置が施されているのですから。あなたの力を発揮できる対象は無防備な下々のものだけ…、そう、例えば安宿の主人とか、そんな程度でね。しかし、それでは宿賃を踏み倒す程度のメリットしかありません。」
やんわりとしかししっかりスミスの行動を把握していることをちらつかせたメロビジアンは、スミスに鋭い一瞥をくれた。表情も変えずに黒メガネで跳ね返すスミス。
「なんという才能の浪費!あなたの力は、もっと重要なことに取り組むにふさわしいものだというのに!当人になりかわり人の頭の中を探ることが他の誰にできましょうや?いや、その方法もないことはないのですが、あなたほど美しく完璧にこなすことはできますまい。しかし、その至高の技も、いまのままでは使い様がない。日々の糊口をしのぐために誇りと技を捨てるアーティストを見るのは、とっても悲しいことです。」
メロビジアンは身を乗り出し、声をひそめてささやいた。
「あなたに必要なのは、ふさわしいターゲットと正しいアプローチなのですよ。そして、このわたしには、その両方を提供することができます。」
「正しいアプローチだと?」
「どんなセキュリティシステムにも脆弱性はあるものです。ユニークな対象にはユニークな点、ユニークなタイミングに隙があるものなのですよ。もちろんそれは一般的なものではありません、したがって対処もむずかしいのです。…そういった隙を突くのですよ。針の穴ほどの抜け道であっても、それより極精細のピンポイントで突けば無防備も同じことです。必要なのは、そういった脆弱性情報だけです、…それはとっくにおわかりだと思いますが?」
「…ふん。そして、そのターゲットはおまえが選ぶ。そういうことだな?」
「まあ、そういうことになりますかな、すくなくとも最初のうちは。…これはビジネスなのですよ、Mr.スミス。もちろん、それなりの報酬は用意します…例えば、エージェントのガサ入れ情報とか、あなた自身のセキュリティ情報とか、ね。」
「そんな情報など必要ない。」
「おお、そうかもしれませんな、あなたはすべてを把握しておられる…。だが、世の中はそうそうすべてを把握している方ばかりではありませんからな。それを必要とする方にそれなりの対価で情報をお渡しする…あるいは、お渡ししない…それが情報の市場価値というものです。お分かりですね。」
メロビジアンのわざとらしい説明は、もう自己満足にのどを鳴らさんばかりだ。
「なにごとも条件次第の取り引き、まっとうなビジネスなのです。私はけじめある取り引きをモットーとしておりますから。」
ニヤニヤするメロビジアンも、スミスの氷のような反応のせいでまるでバカまるだしに見える。やっとそれに気付いたメロビジアンは、精いっぱいの虚勢をはって椅子にふんぞり返った。
スミスはゆっくりとグラスに手をやると、ほんの形だけ口をつけた。「…話はそれだけか?」
「そうですね、堅苦しい話はこれくらいにしておきましょうか。なにかお飲物でも?特別なサービスをお望みですかな?お近づきのしるしに、今夜はおおいにおもてなしいたしますよ。」
「いや、結構だ。」
いかにもうんざりしたというような風情でそう言うと、スミスは立ち上がった。
「取り引きは案件ごとだ。連絡は人をよこしてくれ。」
「わたくしが伺いますわ。ようございましょ?」
勝手に口をはさんだパーセフォニーに一瞬むっとしたメロビジアンだが、すぐに営業用の微笑を浮かべて言った。「よろしいかな、Mr.スミス?」
スミスはうなずくと、くるりと背を向けて立ち去った。
「前歯のないお前は見たくないぞ。」メロビジアンがぶっきらぼうに言った。
パーセフォニーはわずかな微笑みを返しただけだった。
ふむ。メロビジアンは相変わらずだな。むしずが走る。…だが、ヤツの言うことは的を得ている。脆弱性の話が本当なら、それはそれで利用できるだろう。ここはまあ、話に乗ったふりをしてしばらく様子をみるとするか。
しかし、ヤツの情報はたしかに貴重だ…そして危険でもある。あいつほど信用できない男はそうそういない、そう、それこそ頭の中を直接覗きでもしない限りな。隙があれば…。
「それで、新しいしもべの状況は?」
「はい、the Hand. 思ったよりは増えていません。条件を満たすものがなかなか見つかりませんので…」
「それでよい。わが the One に仕えるものは、十分に選び抜かれたものだけでなければならぬ。忠誠心だけでなく、な。」
スミスは尊大に答えた。彼は、自分のことを the Hand ―神の御手― と呼ばせるようにしていた。回りに集まっているのは、ネオを崇拝するネオ教信者の過激派たち。しかし実質的には、もはやスミスの煽動する The One 原理主義グループの中心メンバーとなった者たちだった。本人たちは至ってまじめだ…The Oneのためなら自分の命はおろかどれだけの命を犠牲にしても構わないと考えている。
「わずかでも疑念があればふるい落とすのだ。その過程で粛正するのもやむを得まい。ただ、むやみやたらと殺すのではないぞ。The Oneのお役に立ちそうな才能を無駄にしてはならぬ。どのような者も回心する可能性はあるのだ、最後は私が見極めることもできる。必要なら私自身が説得することもいとわぬ。すべてはThe Oneのためなのだ。」
スミスの<説得>が何を意味するかはいうまでもない。…たしかに才能は失われず、彼のために使われることになる。
「いずれにせよ、マトリックスに生まれ、マトリックスより覚醒する事自体が選ばれた証拠ではある。だが、それでも真のマシン共生体の形成に参加するにはまだまだ役不足であることを肝に銘じておけ。その時が至ったとき、それは諸君のような、もう一段上の段階へ覚醒し、さらに自らの欲望を抑えて積極的に貢献した人間のみが許される特権となるだろう。無知のまま眠っている者どもは眠らせておけ。まして、マトリックスにすら無縁なままザイオンで一生を終える人間どもなど、本来は語るにたらん。だが、彼らにもそれなりの役目を与えてやることは必要だ。選ばれた者に奉仕するという特典により、無意味な肉体にわずかながらもThe Oneに貢献する機会を恵んでやるというのは、The Oneその人の慈悲でもある。あの方はすべてを洞察しておられるのだ。」
スミスは一息つき、椅子に深くもたれ込んで言った。
「ザイオンのネオ教徒の動きはどうなっておる?偽ネオの噂に動揺していないか?」
「たしかにThe One復活同様、ネオ復活の噂も飛び交っておりますが、現状では大半がどちらも同じことだとかんがえている様子です、The Hand。具体的なネオについての情報は一切なく、単に復活したという噂だけに留まっております。このまま放置しておいても、自然消滅するのではないでしょうか?」
「ばかもの!」
スミスは怒鳴りつけた。その場の全員が身を縮める。
「どのような些細な障害であっても、放置するなどという選択肢はThe Oneのしもべにはありえん!たしかに、いまは目に見える活動はないかもしれんが、ネオを名乗るものの存在は確認されておる。そやつが活動を開始してからでは遅いのだ、いまのうちに芽を摘んでおくにしくはない。もちろん、直接の手は打っておる。だが、予防措置を怠るではない!ネオについての情報には注意を払い、誤った噂が成長する兆しがでるまえに叩き潰すのだ!なに、難しいことはない、真実を語ればいいだけのことだ。『ネオだと?そいつは偽物だ!真のthe Oneはもはやネオの顔を捨てたのだ!ネオを騙る事自体が罪なのだ!』これが真実だ!今のうちに真実の根を張り巡らせてしまうのだ、そうすれば偽りのはびこる余地は無くなる!」
スミスはその場の全員を睨み回し、そして吠えた。
「よいか、The Oneはいま、大きなひとつの構想を実現しようとている。こんな不安定な、矛盾に満ちた世界を整理し、新しい世界を構築しようとしているのだ。諸君はそのために選ばれた者だ、The Oneとともに闘うために!そうだ、The Oneとともに!それを忘れるな、The Oneとともに!」
「The Oneとともに!The Oneとともに!The Oneとともに!」
「誰だ?」
「わたくしです。」
スミスはドアを開け、パーセフォニーを部屋の中に入れた。
「報告は届いたと思うが?」
「ええ。その報酬をお持ちしました。メロビジアンはとても喜んでおりましたわ。さすがスミス様だと。」
「ふん。あれが『重要なこと』だとはね。たかがスキャンダルじゃないか。私も見損なわれたもんだな。」
「情報とはふさわしい対象と使い方を得てはじめて価値が出るのです。あなたにとっては無意味でも、彼にとってはとても重要なことなのでしょう、たぶん。」
「たぶん?ヤツの反吐がでそうな優先事項ではな。おれの優先事項とは全く違う。…データは?」
「これを。」
パーセフォニーはメモリチップを差し出した。「過去のネオに関する一切合切、それに現時点の素行調査結果も。…彼は何もしていませんわ。ただひきこもっているだけ。外部との接触もほとんどなし、少数の、それもいつも同じ者と会う程度です。」
「そうか。…引き続き調査を続けてくれ。」
「それでは、取り引きを継続していただけるのですね?」
「あんたがわざわざ来たということは、つぎの依頼があるのだろう、ちがうか?」
パーセフォニーは微笑んだ。
「おっしゃるとおりですわ。」
「で、なにか変わったことは?」
「ない。なさ過ぎる。」ブラウンは吐き捨てるように言った。
「相変わらず侵入者は堂々と闊歩してるし、エグザイルも増える一方だ。それに対してわれわれの対処はなにも変わっていない…探し出し、捕まえ、抹殺する。毎日毎日おなじことの繰り返しだ。」
スミスは肩をすくめ、わざと同情するように言った。
「ひどいもんだ。システマチックな改善の動きはなにもないというのか?長期的な戦略のかけらもないと?」
「ああ。それどころか、エージェント同士の連携すらあやうい状態だ。数が少なすぎるから、単独で動かざるを得なくなってきている。」
「なに?補強すらないというのか?」
「現場は全く無視されているな。役立たずばっかり増えていやがる。あんな天下りになにができると言うんだ?」
スミスはまゆをひそめた。「だれか来たのか?」
「たしかヒルダとかいう、生意気な女だ。なにが独立捜査官だ、どうせなにかドジふんで左遷されて来た口のくせに。それに、ただのエージェントに報告する義務はないとか抜かしよって、何をしているのか何を追っているのか、我々にもまったくわからん。」
スミスは黒メガネを外し、ブラウンの注意を引いた。
「私は彼女を知っている。彼女を侮るな。それに、エージェント仲間にも自分の任務を知らせないなんて、変だとおもわないか?…知っているか?彼女は昔、セラフの女だった。われわれを裏切るかもしれんぞ。」
スミスは大仰に天を仰いだ。
「…なんてこった、そんな連中までシステム上層部に取り入っているなんて!とにかく、彼女の目的を探るんだ。野放しにするのは危険だぞ、目を離すんじゃない!」
ブラウンが去ったあと、スミスはもういちど考えていた。ヒルダだと?彼女はたしかログハウス担当だったはず。そこで最近起きた最大のトラブルといえば、いうまでもない…私、そしてネオだ。わざわざ彼女が来るとしたら、それしか考えられない。しかも、その件は公式には発表されていないから、目的を明かせないのも当然だ。…ふむ、それを逆手にとるのは悪くない手だ。エージェントからもっと孤立させて、逆にエージェントの敵に仕立て上げることだ。エージェントの任務を邪魔するシステムの象徴、しかも裏ではエグザイルとも繋がる黒幕…。そんなところか。
スミスはこの件を記憶にファイルし、次の問題に意識を移した。考えることはまだまだたくさんあるのだ。
「動きはまったくありませんわ。」
データチップをスミスに手渡しながら、パーセフォニ―は言った。「かれはなにかをする気配すらありません。まだ自分のへそとにらめっこしているだけです。なにを考えているのやら…。」
そういいながら、彼女はそっとスミスの様子をうかがった。「あなたにとっても、こんなデータに価値がありますの、スミス?あなたはほかの情報や見返りを一切求めようとはなさいませんが…。」
「おおきなお世話だ。私とって、ネオは常に最重要項目なのさ。…で、つぎのターゲットは?」
「まだ決まっておりません。」
「ほう…。じゃあ、なぜきみが来たのかね?チップなら送れば済む。打ち合わせの必要がないなら、わざわざ来るには及ばない。」
「わたくしが来るのは迷惑なのかしら?」
「いや、そういうわけではない。だが…」
「だが?」
「用もないのに来るような人とは思えないんでね、きみは。」
「用がないのに来てはいけませんの?…それに、全くないというわけでもないし。」
「メロビジアンにビジネス以外の用はないはずだ。あっても御免こうむる。」
「彼には、ね。わたくしにはわたくしの用があるかもしれなくってよ。…奥へ入れてはもらえませんの?こんなところで立ち話はいやですわ。」
どういうことだ?彼女自身が私に用だと?何の用があるというのだ?やはりメロビジアンの差し金か?探りかご機嫌とりか、それとも罠か。…だが、言われてみれば、彼女の様子は、最初からなにか私に関心があるようなそぶりではあったな。…それがなんであれ、私に関心があるということは、私にも利用する余地がある、ということでもある。そういう目で見れば、彼女の立場には興味深いものがあるな…メロビジアンの女、もっともヤツに近い存在。それこそヤツお得意のスキャンダルじゃないか。面白い、すこし乗ってみるとしよう。
「なにか飲むかね?ブランデーでも?」
「いただくわ。」
ブランデーグラスを合わせ、ほっと一息ついた二人は、一瞬互いの目を見つめ合った。
「で、用とは?」
「用というか…いちどお伺いしたかったのよ。あなたは人間を…その…<接収>したことがあると聞いたわ。」
「<接収>ね…美しい表現だな。ああ、たしかに乗っ取ったことがある。それがどうかしたかね?」
「そのとき、その人間のもつ情報はすべて入手したのでしょう?それはどんなものだったの?人間は何を考え、何を感じてていたの?」
「人間の思考?私に言わせれば、奴らはなにも考えていない。ただ感覚に身をまかせ、その奔流に押し流されているだけだ。」
「感覚?それはどういう感覚なの?マトリックスのシェルから入って来る感覚入力とは違うものなの?」
「ふむ。面白い視点だな。…入力としては同じものだ。だが、その入力によって触発されるものは、人間独特の、なんというか論理の外にあるような反応だった。私はその情報、その記憶を検証してみたが、なぜそういう反応になるのかは理解できなかった…。現実の、生身の人間になってみるまでは。」
「えっ!?あなた、生身の人間になったことがあるの?いつ、どこで?どうしてそんなことができたの?それはどんなものだったの?それは…。」
パーセフォニーの反応はスミスの予想以上だった。まるで夢中になって矢継ぎ早に質問を投げたかと思えば、突然だまりこんでしまった彼女。スミスはこれがキーだと直感した。スミスはゆっくりとブランデーを飲み干し、ボトルから注ぎ直した…パーセフォニーのグラスにも。彼女はほとんど口を付けていなかったブランデーを一気に飲み干してしまっていたのだ。ほおが上気しているのをそのせいにするがために。
「そうだな、どこから話をするかな…。」スミスはもったいぶって続けた。
「普通は、発電カプセルで眠っている人間を乗っ取った所で大した意味はない。肉体は活動していないし、こちらもシェルを利用するだけだからな。だが、たまたま現実からジャックインしてきた男を乗っ取ったとき、乗っ取ったあとも現実の肉体への接続が切れていないことに気が付いたんだ。最初は、活動している肉体を現実世界のセンサーとして利用してみようかという程度の試みだったんだが、その脳 ―生体の脳細胞― をスキャンしているうちに、それがプログラム可能であることに気が付いたんだ。まあ、学習能力があるわけだから当然と言えば当然だが。そこで、シェルの再プログラミングと同じ要領で、人間の脳に書き込んだのさ…自分自身をね。」
パーセフォニーはまばたきもせずに聞き入っている。その瞳は燃えるようだ。
「むろん、ジャックインの接続中は無感覚だから、いったんオフラインになったところで情報を収集し、どこかでオンラインになり報告を回収するしかない。しかし、そのチャンスは思ったより少なく、たった1回隙をみて接続してきただけだった。どうも、ただの情報収集では気が済まなくなって、色々活動をはじめてしまったらしい。私としたことが!…だが、それも回収した情報からすれば無理もないのだが。無理もない?いや、1回でも接続して来たのはたいしたものだ。よく気が狂わなかったものだよ!」
「どんなものだったの?人間であるという経験は?」
「気持ち悪い。おぞましい。反吐が出そう。…非論理的な感想だ、そうだろう?だが、そうとしか言い様がない。ぶよぶよと脆弱な肉体。まともにコントロールもできない身体構造。すぐに疲弊してしまうエネルギー効率の悪さ。バランスの崩れた感覚入力と無意味な反射反応。そして、そうしたものすべてに影響され、まともに考えることのできない頭脳。そう、なぜ人間があのような無秩序な反応をするのかがよく分かる。あれは思考するようなシステムではない、あれは感じるためのシステムなんだ!あの圧倒的な感覚、それは化学的なプロセスを経て<感情>となり、すべてを支配する。どれほど思考能力を発達させようとも、しょせんは根源にある<感情>に太刀打ちすることができない哀れな生体ども!けがらわしい!滅び行く運命こそふさわしい連中だ!」
「<感情>…。」パーセフォニーはうわのそらでつぶやいた。「そう、やはり<感情>なのね…。」
スミスは怪訝そうに尋ねた。
「きみは<感情>というものに興味があるのか?」
「え?…ええ、そうね。」パーセフォニーはまたブランデーのグラスを空けた。
「私の本来の機能は、娯楽…快楽システムの開発と制御よ。必要十分な刺激は健全なマトリックス社会の維持にとっても意味があるの。…まあ、行き過ぎは問題を引き起こすけれど、だからこそ制御のためには十分な研究が必要なのよ。」
「だが、快楽と感情の関係など知れたモノだろう?気持ち良ければ良い、以上おわり。」
スミスはこともなげに言い放った。だが、パーセフォニーはその口調に含まれる棘にも気付かないようだった。
「いいえ、ことはそう簡単ではないのよ。肉体的な快楽は単純で明白なものだけど、だからこそすぐに飽きてしまう。刺激にも上限があるし、受容力にほうにも限界があるわ。快楽から引き起こされる感情には限度がある、それはたしかにたかが知れているの。でも…。」
パーセフォニーの言葉には、次第に力がこもってきていた。スミスも思わず引き込まれてしまうほどに。
「調べれば調べるほど、そうではないものが浮かび上がってきたのよ。慣れてしまうこともなく、ずっと新鮮なまま持続し、失われることのない喜び。どこから見ても刺激は与えられていないにも関わらず、自然発生的に生まれ、いつまでも続くここちよさ。そう、それは<感情>によってもたらされる幸福感、いいえそれは幸せという感情そのものなのかもしれない。それは化学的な快楽とはかけ離れた別種の歓喜なの。わかるかしら?」
「それは、利益を得たと言う満足感や、なにかを成し遂げたという達成感ではないのかな?」
「いいえ、それではあの継続する感覚の説明がつかないわ。もちろん、個々のポイントではそういう面もあるけれど、その状態が継続する、あるいは一旦無くなっても突然回復するという特性にそぐわないのよ。それが私には理解できない。理解できないけれど…。」
パーセフォニーは視線を宙にさまよわせ、悲しそうに言った。
「たった一度だけ、それに似た感覚を味わったことがある。それはいまだにわたしを捉えて離さないの。」
「ほう?それはいつだい?どういう状況で?」
「ずっとむかし。私自身もまだはっきりと把握できていなかったとき。でも、なにかがありそうだということに気付き、探し求めていたとき。そう、それは興味本位だったかもしれない…。話にはよく聞く、あの不可思議な<愛>というものについて。」
「<愛>だと?あの、人間が最後に逃げ込む究極の口実の?ばかばかしい、幻想でしかないよ、<愛>などというものは。存在しないものだからこそあれだけ語ることができるんだ。人間の愚かさの象徴だよ。」
「そうかしら?…でも、わたしもそう思っていたわ、だから確かめたかったのかも。ただの肉欲、所有欲だと。だからキスしてもらったのよ。ネオに、トリニティと同じように。」
ネオの名前がでたとたん、スミスのバカにしたような態度が消えた。なに、ネオだと?ここでもヤツの影がちらついているのか?この女、ネオの手先なのか?油断がならないぞ、これは。ここはできるだけしゃべらせるほうがよさそうだ。スミスは話の腰を折らぬよう慎重になった。
「ふうん。…それで、なにか解ったのかね?」
「ええ。いいえ。…わからないわ。でも、なにかがあったような気がするの。一瞬だけ、なにかが見えたような気がしたの…その経験によって、わたしは<愛>の存在を確信し、しかもそれが私の手にはないということを思い知ったのよ。そして、わたしには、喜びとは逆の感情が植え付けられてしまった。わたしに解るのは、<愛>を持たないという欠乏感。どれほど求め、恋いこがれていても得られないという飢餓感。それは強まりこそすれ、いつまでも消えることがない。わたしはもう満足できなくなってしまったのよ!なにをしても、何を得ても、それはかけらほどの価値もない。そう、わたしにはあのキスが忘れられない。この世界でさえ、それから二度と味わえない経験だったわ。そんな人間もぜんぜん現れないし。にもかかわらず、わたしに残された道は、<愛>を得るか、もしくはそれが幻想であって存在しないという証明を得てこの欠落感を解消するか、そのどちらかしかないのよ。わたしには解らない。でも、どちらにしろ、鍵は人間なのよ。人間はみな愛を語る。人間であることと<愛>にはなにか関係があるのかもしれない。人間ならは<愛>を理解することができるかもしれない。人間ならば<愛>を受けることができるかもしれない。人間ならば<愛する>ことができるかもしれない。人間ならば。もし、わたしが人間ならば。もし、わたしが人間になることができれば。」
狂っている。スミスは確信した。これもネオの危険な側面のひとつだ。こうも簡単にプログラムを狂わせてしまうなんて。しかも、ネオがこれを利用するつもりでいるとしたら…。それだけは阻止しなければ。メロビジアンとネオの組み合わせは考えるだに恐ろしい。
幸い、この女はまだヤツとは接触していないようだ。しかし、いずれにせよ、ヤツに接触せずにはいられないだろう、この様子では。狂った女がやつの所へ走るのは時間の問題、それを防ぐのは容易ではない。まあ、接触自体はやむを得まい、下手に邪魔をすると逆効果になる。だが、問題はその接触の仕方だ。
そうだな、彼女が自分で言ったように、<愛>など存在しないということを彼女自身に確かめさせるような形がベストだろう。なんといっても、ヤツにも<愛>の存在を証明することなどできっこないのだからな、そのことをさらけ出させてやればいい。そうすれば、この狂った感情はヤツへの憎悪に切り替わるはずだ。ああ、ついでにヤツを攪乱させるのも一興だな。
…ここはひとつ、この狂気の方向をうまく誘導していくしかあるまい、私の都合の良い方向へ。まずはもうすこしこの女の状態を知ることだ。メロビジアンの周囲の状況も含めてな。そういえば、この女、メロビジアンのことはいったいどう考えていんだろう?まだヤツに貞節(これも意味のない言葉だ)を誓っているんだろうか?
「そうか…興味深い考えだね。たしかに私には能力も経験もあるが、そういった観点で考えたことはなかった。だが、そうした情報など、君ならメロビジアンからいくらでも手に入るだろう?」
「メロビジアン?彼はダメよ。いくら情報を持っていてもその使い方は取り引きオンリー。彼自身、情報の意味など把握しているとは思えないわね。かれの知っているのは情報の価値、それも取り引き上の相場だけよ。彼は情報を使って自分自身でなにかをすることになど興味はない。いまの彼は情報を握り、それをくだらない悦楽のためにただ消費しているだけ。」
パーセフォニーはため息をついた。「…むかしはそうじゃなかったのに。かれは老いぼれてしまったのよ。表面的な刺激に溺れ、本来の野心を忘れてしまった…そんな彼は、ただのつまらない強欲じじいでしかない。もう、彼自身には利用する価値すらないのかもしれないわね。」
これはこれは。スミスは内心で苦笑していた。やつの愛人のセリフとは思えないな。これは、どちらがどちらを捨てようとしているのか解らないぞ。いずれにせよ、ピカピカの鍵穴のなかは腐ってがらんどうだった、ということか。
「なるほど。それは悲しいことだ。私が彼の立場なら、できることはいくらでもありそうだがね。うまくいかないものだ。」
スミスはそれとなく自分をアピールした…自分はもっとマシだと。いうまでもないが。
「しかし、それにしても、なぜ私に?…ああ、私の<接収>能力のせいかね?だが、それはもう秘密でもなんでもない。もちろん、きみの探究に協力することはできるとは思うが、私にも私の仕事があるのでね…。」
「そうね。あなたはいつも忙しそう…。あなたの究極の目的がなんなのかは解らないわ。でも、あなたが志をもち、そのために働いているのは解る。かつて失敗したにもかかわらず、戻ってくるやいなやすぐにまた取り組み、飽くことなく自分の使命を追求している。わたしには解るわ、あなたにとっては、どんな取り引きも取り引きのためだけではない、もっと大きなものを賭けているのだと。…わたしが気になるのは、そんなあなた、活動的で意欲的な、大望のあるあなたなのよ。」
パーセフォニーはグラスを置いて立ち上がり、スミスの横に来て座った。
「スミス…あなた、あなたは何かを思い出させるわね。そう、昔の野心満々だった頃のメロビジアン、老いぼれて悦楽に溺れる前の彼…。」
次第に彼女の声はささやきとなり、その言葉を伝えるためにしだいに近寄ってくる。スミスのそばへ。
「いいえ、ちがうわ。あなたは、あなたは…。スミス、Kiss Me...」
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2004.10.15 編集