Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
「違う!トリニティ、そうじゃない!」
ネオはそう叫んで飛び起きた。まだ真夜中を過ぎたばかり、寝入ってからも大して経っていない。ネオは暗闇のなかで再び横になり、心臓の動悸が収まるのを待つ。しかし、かれの神経は昂ったまま、たったいま忍び込んできた疑念を反芻していた。
「…そんなつもりじゃなかった。だけど…。おお、トリニティ…。」
「そうなの、オラクル。元気もないし、食欲も落ち気味。このところは夜更かしも増えて、あまり眠ろうともしないの。それでいて、なにをしている、ということでもないみたい。」
一瞬あたりの様子を伺ったサティは、電話口で声をひそめた。
「また眠れないのかと思って、それとなく聞いてみたのよ。そしたら、眠れない訳じゃないらしいのね。ただ…。」
「ただ、なんだね?」
「夢見がよくないとか、そんなことをこぼしていたわ。」
「夢見が?」
電話の向こうの声が鋭くなる。
「ええ。なにか嫌な夢をみるとか。そうもそれが、このところ続いていたらしいのよ。」
「悪夢が続くんだって?それは同じ夢なのかい?」
「それはわからないわ。でも、なにかトリニティに関係するもののようなの。…恋人のことが忘れられないのね、彼。寂しいのかしら。」
そう言っているサティのほうがよっぽど寂しそうだ。
「そりゃあ、忘れることはできまいよ。でもねぇ、…嫌な夢だって?トリニティの?しかもそれが続いている?」
「あんな死に別れをしたんだもん、思い出すにはつらいわよね。それに、気になり出したらとことん気にする人だし、ネオは。」
「まあね…。しかし、いい思い出だってあるはずなんだ。嫌な夢ばかりというのはちょっと変だね。」
「やっぱり。私もそう思ったのよ。でも、人の夢をみるわけにはいかないし…。」
「そうとはかぎらないよ。」
「え?」
「あたしは夢とか幻影とかデジャブとか、そういったことにはちょっとうるさいんでね。」
そういったオラクルの声は、ちょっと笑っているようでもあった。
「…ネオ、ネオ…。…どこなの、ネオ。」
暗闇の向こうから響くかすかな声。
「トリニティ!僕はここだ!トリニティ!」
ネオは必死で声のする方向へ走った。しかし、走っても走っても声は遠ざかり、気が付くと呼び声は後ろから聞こえている。ネオは立ち止まり、また走り出した。なんども、なんども。果てしなく。
そしてついに力尽き、動けなくなったネオはしかし、なおも呼び続けた。
「…おお、トリニティ…。君が見えない。どこにいるんだい、トリニティ?」
「…ネオ。」
暗闇の中にかすかに浮かび上がる青白い影。それは近寄ってくるわけではなく、しかし次第にはっきりとした人の形になっていった。
「トリニティ!」
「…ネオ…。わたしを助けてくれないの?」
ネオは再び駆け寄ろうとしたが、体がまったく動かない。手を差し伸べることさえできず、ただ見つめるだけだ。
「動けないんだ、トリニティ!こっちへ来ておくれ!」
「ネオ。あなたはいつもそうね。自分のことしか考えていない。」
いまや確かにトリニティの姿になったにもかかわらず、いまだ人とは思えないような表情をうかべた影が言った。
「いつでも自分は助けてもらえるくせに、自分ではだれも助けようとはしないのね。」
「そんなことはない!僕は君を助けたいんだ!」
「なら、そうすればいいでしょう!でも、あなたはそうはしなかった。私を利用するだけ利用して、最後は自分の目的を果たしただけ。自分の目的のためには平気で見殺しにした。」
「違う!僕はいつだって君を助けようとしたんだ!ビルから落ちた君を受け止め、弾丸を抜いたのは僕だ。僕は世界よりも君を選んだんだ。そうだろう?」
「そうかしら?」トリニティは冷ややかに言った。
「あのときあなたは私の命を救った。でも、世界より私を選んだのかしら?結果的には、その後の私の力を利用して世界を救ったのではないかしら?私に利用価値があるうちは大事にしただけ。本当に私を大事にしていたのなら、私をマシンシティへ連れていったかしら?」
「君が付いてくると言ったんだ!」
「そうね、そしてあなたはそれをあっさり受け入れた。自分に都合の良い場合には反対しない。あなたは自分勝手に好きなことをするだけ。尽くしてくれるものは何でも歓迎、でも自分の目的が最優先。」
「そんなことはない!僕はいつだって君のことを忘れてなんかいなかったよ!」
「そうね、あなたにとって価値ある場合は。あなたは私の手助けを受け、私の体を貪り、私の愛を利用した。私が傷ついて苦しんでいる時、あなたは回りの景色に見とれていたわね。いつだって私は二の次、まずはあなた自身があるのよ。あなたは自分が世界の中心、この世の救世主、The Oneであることをやめられない、いいえ、やめたくないのよ!あなたが愛したのは世界を救う英雄きどりの自己満足だけなのよ!」
「僕は救世主になんかなりたくなかった。」
「そして、自分のなりたいものになったのね、そうでしょうとも。そこにはあなたしかいない、ほかはすべてあなたに貢ぐべき奴隷でしかないわ。」
「そんな…。僕のほうこそ、自分を犠牲にしてみんなのために努力したんだ!」
「みんなのため?みんなって誰?きっと私以外の人たちってことかしら?もしかしたら、もうすこし対象外の人は多いかもしれないわね。あなた、<みんな>のうち何人の名前を挙げることができて?そして、あなたが犠牲にして来た人の数とどちらが多いかしら?」
「おお、トリニティ…。」
「あなたは<みんな>のために闘い、<みんな>のために私を犠牲にした。でも、その<みんな>というのも、あなたを愛し、崇め、そして喜んで死んでいくすべての人たちでしかないのよ。あなたのために生きている人だけ、あなたのために死んだ人にはもう用はない。そして、その<みんな>がすべて死に絶えても、あなたはまだ生き続けるでしょうよ。あなたは結局、だれのことも愛してなんかいないんだわ。そうよ、ネオ。あなた、私を愛していたと言えるの、ネオ?私の能力や私の貢献、私の愛情ではなく、私自身を愛していたと?」
「僕は…僕は君を愛していた。うそじゃない。」
「あなたなりの意味でね。あなたは私を愛していた、かもしれない。でも、あなたは生きている。私なしでも生きているじゃないの!あなたの愛は、失っても生きていけるものなの?…それは私の愛とは違う、別のものね。私はあなたを失うよりは死ぬことを選んだ。あなたは私よりも生きることを選んだ。それは同じものなの?」
「僕だって死ぬつもりだった!実際に死んだんだ!」
「厳密な意味では<過去完了形>の事実ね。わたしの言っているのは<いま>よ。いまのあなたは生きている、ちがうかしら?肉体の有無は問題じゃない、生きる意志があるかどうかが問題なのよ。そして、現にあなたは生きている、それも、私なしで!なにひとつ私のためにすることもなく、それどころか私をただの思い出という自己満足のなかに押し込めて!あなたは私を助けることすら、わたしに歩み寄ることすらしないじゃないの!ネオ、ここへ来て!私を助けて!ここは暗い、ここは寒いわ。わたしをひとりぼっちにしないで、ネオ!私を愛して!」
ネオは必死にトリニティへ近寄ろうとした。しかし、指一本動きもしない。それでもネオは渾身の力をこめて歩み寄ろうとした。
そして、ついにゆっくりながら歩みを始めたネオ。トリニティは一瞬たじろいだようにも見えた。だが、その動きはまるで固まりつつある接着剤の海のなかで泳いでいるようだった。しかも、進んでも進んでも、いっこうに距離が縮まる気配はない。動きを速め、ついには走り出したネオの体は、しかしまったく前に進んでいなかった。
その様子を見ていたトリニティはあざけるように言い捨てた。
「ほらね。あなたはなにもしない。全能の救世主、不可能などないThe Oneであるあなたにできないことなどないはずでしょう?あなたは口では何と言っても、実際はなにもしようとしないのよ。あなたはには、私のために死ぬことすらできないんだわ!死んでわたしのところに来ることもできない弱虫で自己中心的な悪党なのよ!」
「…違う…トリニティ…信じてくれ…。」
「信じる?ええ、そうね、私は信じるかもしれないわよ、あなたが為すべきことをすればね。あなたが私のためになにかをしてくれれば。あなたがあなたのためでなく、私のためだけの存在になってくれれば。」
そして、トリニティの目がぎらりと光った。
「とっても簡単なことね。私はあなたを愛している。私はあなたと一緒に居たい。でも、私はここで、この暗く冷えきった場所でひとりぼっち。私にはここを出ることができない。」
一瞬の沈黙ののち、金切り声の叫びがほとばしる。
「でも、あなたがここに来ることはできるわ!あなたはここへ来て私と一緒になることができる!あなたがしなければならないことは、たったそれだけなのよ。わかる?私は死んでいる。あなたが生きている限り、私たちは一緒にはなれない。でも、あなたには死ぬことができるわ、そうでしょう、ネオ?そう、私があなたのために死んだように、あなたは私のために死ぬことができた、いいえ、いまでもできるはずよ!ほかに私のためにできることなどあって!?」
「いくらでもあるわよ!」
そう言って二人の間に割り込んで来たのは、せいぜい三才か四才の小さな女の子だった。あっけに取られるネオの前にとことことやって来て、こぼれんばかりの笑顔をみせる。
「安心して、ネオ。」
そして振り返ると、トリニティを睨み付け、さらに一言付け加えた。
「にせもの!」
我にかえったトリニティは、ものすごい形相で言い返した。「なんですって?バカな!なんなのいったい?」
「あなたはトリニティじゃないわ。トリニティのふりをしてるけど、中身は別人。わかるでしょ、ネオ?」
ネオはまだ戸惑っていた。「きみは…?」
いらいらと地団駄を踏んだ少女は振り返った。
「いやだ、ネオ、解らないの?私よ、サティよ!見てわかんないかな、ん〜、もう!」
ネオはやっと思い出した。それは初めて会った時のサティだった。このところ大人になったサティしか見ていないから(当然と言えば当然だ)、なかなかイメージが繋がらなかったのだ。
「サティ?…どうしたんだい?それにどうして君がここに?僕はとんでもない夢をみてるのか?」
「そうよ。ここはあなたの夢の中。そしてあの人は、あなたの夢の中に侵入して嫌がらせをしていたのよ。」
そう言ってサティは、薄ら笑いを浮かべているトリニティを指差した。
「よく見て、ネオ!この人がトリニティに見えるの?」
ネオは、あらためて目を凝らした。
「彼女はトリニティだ。…でも…僕の知っているトリニティじゃない。」
「そうね、あなたの知っているトリニティじゃないわ。あなたの知らないトリニティよ、私は。あなたが知ろうとしなかったトリニティ、と言うべきかしら。」
「うそつき!」サティはまた叫んだ。「あなたはトリニティなんかじゃないわ!」
「子供はおだまり!」そういって飛んだ平手がサティのほおを捉えた。
「よせ!」ネオは思わず叫んだ。「相手は子供じゃないか、君らしくもない。」
「そうよ、トリニティらしくないのよ!」ほおを赤くして、いまにもこぼれそうな涙をこらえながらサティは言った。
「トリニティはこんなことしないもん。ネオの好きになるひとは絶対いいひとだもん!」
「いいひと?わたしが悪い人だというの?」
そう答えたトリニティは、もはやトリニティには見えなかった。
「私は自分に正直なだけ。それに、私の言ったことはすべて、ネオの心の中からひきだしたもの。彼が見ようとしない自分自身の暗闇。わたしは彼の恐れるトリニティそのものなのよ!」
「君は…。」
「いい、ネオ。あなたは残酷な人だわ。役に立つとなれば偽りのキスでさえ本気でできるひと。あなたは私に天国をかいま見せて、地獄の奥深さを見せつけたのよ、しかも彼女の目の前で!あのときの私の気持ち、そして彼女の気持ちがわかる?…わかる訳ないわよね、あなたは単に利用しただけだもの、私の欲望を、そして彼女の愛情さえも。そんなあなたにわたしは我慢がならない。あなた自身、心の奥底に罪悪感を感じながらもそれを見ないふりをしているじゃない。私はただ、あなたが見ようとしないものをあなたに見せてあげただけなのよ!『愛している』ですって?お笑いぐさだわ!」
そう言い終えて真っ直ぐネオを見つめているのは、もはやトリニティではなかった。
「君は…君は、パーセフォニー。」
「あら、それでもまだ名前は憶えていたの?まだ、なんらかの利用価値がありそうかしら?…でもね、私はトリニティとは違う。あなたにただ尽くすなんてことはしないわ!それとも…」
パーセフォニーは一瞬のためらいと哀願するような一瞥を投げた。
「すまない。そんなつもりはなかった。」ネオは悲しげに言った。
「でも、君の言う通りかもしれない。僕はひどいことをしたんだね。」
「違うもん!ネオはそんな人じゃないもん!」
サティはそういってネオのそばに駆け寄り、かれの顔を見上げた。
「ネオ、あなたはうまくごまかされてるわ。あなたを利用しようとして、あなたと、そしてトリニティを傷つけたのはあの人の方でしょ。たしかにあなたは大きな選択した、それにともなうあらゆることを背負う覚悟で。…その覚悟に罪悪感を感じる必要なんてないわよ、だってあなたはそれに十分な代償を払ったんだもん!だれよりも苦しんだのはあなた自身、そうでしょ?それはだれにも計り知れない苦しみのはずよ。それを抜きにして一方的に責めるなんて、だれにもできっこないわ!」
ネオはサティの顔を見下ろし、やっとかすかな頬笑みをうかべて言った。
「ありがとう、サティ。でもね、僕はその覚悟を忘れかけていたかもしれないんだ。」
そして、悄然と見つめているパーセフォニーに視線を戻した。
「ありがとう、パーセフォニー。君の指摘してくれたことは、確かにいつかどこかで僕の意識の片隅に浮かんだことだと思うよ。トリニティが口には出せずとも感じていたことかもしれないし、そうだとしてもむりもない、彼女には非はない。それに、君が自分自身の正直な気持ちを僕にぶつけてくれたということも分かる。僕のしたことが君を傷つけてしまったことも。それは取り返しのつかないことだし、謝って済むものではない。でも、僕にできるのは謝るしかないんだよ、パーセフォニー。それ以上はもっと大きな嘘をつくことになってしまうんだ。自分自身に対してだけでなく、トリニティに対して、そしてなにより君に対して申し訳がたたないんだよ。解ってくれるかい、パーセフォニー?」
「一つだけ答えてちょうだい、ネオ。」
パーセフォニーは、どうしても聞かずにはいられないとでも言うように尋ねた。
「あなたはひどいことをしていると心の底ではわかっていた、それは覚悟の上だ、と言ったわね。教えてちょうだい、あなたはそれでもトリニティを愛していたの?それは両立するものなの?もしかしたら、私にはまだ愛というものが解っていないということなのかしら?…ねえ、おねがい、教えて、ネオ!」
ネオは、これまでにない真剣な顔で答えた。
「そうだ。僕はトリニティを愛していたし、今でも愛しているし、これからも愛し続けるだろう。『だからこそ』なんだよ、パーセフォニー。すべては切り離せないんだ。…君にもわかるさ、いつか…きっと。」
「『いつかきっと』」パーセフォニーはつぶやいた。「ひどい人ね、あなたは。だからこそ…。」
そして、パーセフォニーは背を向け、去っていった。
「これでもう大丈夫ねっ!」
ネオの手にすがりついていた小さなサティは、無邪気に言った。ところが、ネオはまだ真剣な表情のまま、パーセフォニーの消えた暗闇を見つめている。
「なあに?どうしたの?」ネオのただならぬ様子に、サティは不安を感じた。
「まだ、なにかあるの?」
「…僕はたしかにトリニティを愛していた。それに嘘はない。でも、トリニティは?彼女はどう感じていたのだろうか?もしかしたら、僕は自分の思っていたより、ずっとひどいことをしていたのかもしれない。僕はそれを無視してきたのだろうか、気がつきもせずに?それとも、それは彼女にしか解らないことだという言い逃れを利用して、僕は目をつぶって来たのだろうか?」
「ネオ…、そんなふうに考えちゃだめよ。」
サティの声に気付きもしないかのように、ネオは続けた。
「そして、そんな僕の汚い部分、僕のダークサイド、それが彼女に解らなかったはずはない。彼女はそれでもなお耐えていたのだろうか?彼女はそんな僕を愛してくていた。僕はただ彼女の愛によりかかり、ただそれを貪っていただけなのだろうか?自分の夢、自分の欲求、自分の弱さ…、そうしたものを自分の義務や責任で塗り固めて正当化していただけではないのか?そもそも、自分の義務や責任などというものさえ、自分勝手な思い込みじゃあなかったのか?たったひとりの愛する人を守ることもできず、それどころか死に導いてしまった自分に、いったいどんな義務や責任を負えるというんだ?」
「ネオ、…そんなに自分を責めないで。誰だって100%正しいなんてありえない。そりゃあ、迷うことも間違うこともあるかもしれないけど、そうして、最後に取った行動や出した結果が正しければ、それでいいんじゃないの?それ以上を求めるのは、それこそ思い上がりじゃないの?」
小さなサティは精いっぱい背伸びして、ネオの目を覗き込んだ。しかし、ネオの目はまだ遠くを見つめている。
「実際の行動?結果?いや、実際の僕の愛し方はひどいものだった。そもそも僕自身、できるものなら、なにも求めたくなかったんだ。なにも求めることなく、僕の愛おしいトリニティをただただ愛したかった。でも…それはできなかった。できなかった?ちがう、しなかったんだ。そうじゃないか?それこそが僕の望んだ愛し方だったにもかかわらず、僕はそうしなかった。僕はすべてを同じ秤にかけ、バランスを気にして分割したんだ…僕の愛を。ぼくは全力で彼女を愛してはいなかったんだ。彼女は僕を、そう実際に命を捧げてまで愛してくれたというのに。」
「違うわ!そんなことない、ネオ。あなたは勘違いしているわ。そもそも、求めることなく愛するなんて、それは何もしないのと同じじゃないの。結果的にトリニティは死んでしまったかもしれないけど、彼女はあなたのために死にたかったんじゃないはずよ。彼女はあなたと生きたかった、そうじゃない?あなたは彼女の捧げてくれたものの大きさに圧倒されているけど、同じものを彼女に押し付けることができるの?あなたが死んで彼女が生きていれば良かったとでも言うつもり?そのほうが彼女のためだと?」
「それは…。」
「それもこれもないわ。一方通行はありえないのよ。あなたがひどいことをしたとしても、それはその分だけ彼女にあなたを愛する余地を与えただけ。それはひどいことでも何でもなくて、相手からの愛の裏返しなの。奪い、そして与えるという関係性こそが愛というものではないかしら?わたし、間違ってる?」
「いや。…でも、そうだとしても、僕は奪ってばかりだったじゃないか。彼女の与えてくれたものに対して、僕はなにを与えることが出来ただろう…そう考えると、まったく取るに足りないものしか与えていない。僕の愛が与えたものは、不安と苦痛と、そして死。それを彼女への愛の証だというのかい?」
サティはネオの手を取り、強く引っ張った。
「目を覚まして、ネオ!パーセフォニーの呪縛を振払うのよ!あなた、大事なことを見落としてるわ、しっかりしてよぉ!」
「僕がなにを見落としていると言うんだい?僕の悪徳リストはまだまだ足りないのかな?」
「いい加減にして!んもう、やんなっちゃうわね!」
サティは泣き出しそうになりながら、それでもネオに語りかけた。
「あなたがこれからすることが正しいかどうかは、あなたにしか解らない。それはそうね、だから人は迷うのよ。そして、あなたが正しいと思うことをしても、結果が思うように行かなければ、それは間違っていたのかもしれない。でもね、ネオ、あなたが『した』ことが正しかったかどうかは、あなたには決められないこともあるのよ。特に、<愛>のような、自分以外のひとに対してしたことはね。問題は、あなたが結果の評価を自分勝手にしている、ってことなの。わかる?」
サティの言葉は、ネオの胸に届いているのだろうか?それでもサティは続けた。
「あなたはあなたの思う通りにトリニティを愛した。あなたの望んだことはなに?単なる自己満足なの?それとも彼女の幸せなの?彼女は、あなたに愛されているとは思っていなかったの?あなたの愛を受け取ってはいなかったの?そして、あなたの愛をどう考えていたの?それがあなたの愛し方に対する答えなのよ、あなたがどう考えるかは問題ではないわ、そうでしょう?ネオ、トリニティはあなたの愛を物足りなく思っていたの?それとも満足して喜んでいたの?わかる?ネオ。」
ネオは首を振った。
「わからない。…いや。あのとき…、彼女の最後のことば…あれは…。」
ネオの表情が変わった。サティはすかさず突っ込みを入れる。
「トリニティはなんて言っていたの?」
「彼女は…、死の直前、最後の最後にうかんだ思いについて話してくれたんだ。…変に聞こえるかい。サティ?でもね、彼女も一度死んだんだよ、ビルから落ち銃弾を受けて。そして生き返った、だからおかしくはないんだよ、生きている彼女が自身の死について語っても。そう、彼女の生の最後の瞬間に浮かんだ思いを語ってくれたんだ、…再びやって来た最後のときに。」
ネオはまざまざと思い出していた。傷つき横たわるトリニティ。その途切れがちな声、細くなっていく息づかい…。そして、彼女が残した言葉。
「『…本当に言いたかったことを言う機会がもう一度ありますようにって願っていたのよ。つまり、わたしがどれだけあなたを愛しているかってこと、あなたと過ごしたすべての時がどれほど喜ばしいものだったかってことを。』…。」
ネオは声を詰まらせた。サティはもうぼろぼろと涙を流している。そのまま、言葉が闇に消えていく時間は永劫ともいえるものだった。
「トリニティ…、きみは…。」
ネオのつぶやきに、サティは顔を上げ、ちいさな手の甲で両目をごしごしとこすった。鼻のあたまも真っ赤だ。それでも、ちょっとすすり上げると、断固として言った。
「わかるでしょ、ネオ。あなたの愛は彼女に届いていたのよ。それは最後の最後まで変わらなかった。あなたは立派に彼女を愛していたのよ、それはもう、十分以上にね。それが答え。それが大事なのよ。」
「…怒ってる?ネオ?」
やっと落ち着きをとりもどしたサティが、おずおずと聞いた。
「ん?なにを?」
「わたし…余計な口出しをしたんじゃないかと思って…。」
「そんな事はないさ。むしろ感謝してるよ。ありがとうサティ。ほおは大丈夫かい?」
そういってしゃがみ込んだネオは、ちいさなサティの腫れたほおにチュッとキスをした。みるまに腫れは引いたが、こんどは顔全体が真っ赤になった。
「…そう。よかった。でも、ネオ、彼女を本当にトリニティだと思っていたの?いくら夢のなかだからって?」
「うーん、たぶん、夢の中だからトリニティだと思いたかったのかもしれないな。…辛かったけどね。」
「ふーん。…わたしまだよくわかんないけど。」
「君なら大丈夫さ。その時がくればわかる。僕だってそうだったよ、彼女に会うまでは。」
ネオはそう言って立ち上がり、回りを見回した。
「しかし、夢の中とはね。どうやって入って来たんだい?」
「あら、わたしにそんな芸当ができると思って?オラクルよ、おばあちゃんに送り込まれたの。」
「オラクル?どうして知ってるんだろう?」
「私が相談したのよ。あなた、このところ夢見が悪いって言ってたでしょ?…ううん、わざわざじゃないの。わたしたち、よく電話でおしゃべりするのよ。おばあちゃん忙しくてなかなか来れないから、電話で。たまたま話にでたら、オラクルのほうが気にして。ほら、予知夢とかはオラクルの仕事じゃない。変な邪魔が入るのは嫌いなたちだから。」
「そうか。じゃあ、この夢もオラクルはモニターしているのかな?」
「まさか!そんなに暇じゃないわ(たぶん、ね)。それに、外からモニターできるくらいならわざわざ入ってこないわよ。夢って、基本的にはランダムなものだし、気になることを何度か夢で見ることはあっても、そうそう悪夢が、それも同じようなものが続くことはないんだそうよ。で、私が頼まれたの、様子を見てきてくれって。もしかしたら、外部から干渉されているかもしれないから、その原因を調べてくれって。」
「そうか…。予想通りだったわけだ。」
「でも、あの人、パーセフォニーって言ったっけ?こんなことができる人には見えなかったわ。人は見かけによらないものね。」
「いや、彼女にはできない。彼女は人の感情を読み、操作することにかけてはプロだ…普通は気持ち良いほうに誘導するんだけど、逆に凹ませるのも凄腕だな。でも、彼女自身には、人の夢に侵入する能力などないはずだ。」
「え?どういうこと?」
「おそらく、彼女のバックには別のヤツがいる。オラクルがきみを送り込んだようにね。」
「オラクルに対抗できるような人がそうそういるかしら?それに何のため?…たしかに、パーセフォニーの腹いせ、というだけにしては手が込んでいるけど。」
「彼女は単に利用されただけだと思うね。それとなくそそのかされて…。本人はバックをうまく利用しているつもりでいても、僕を悩ませる事自体に別の目的がありそうだなんてなんて気付いていないんじゃないかな。」
「…なんか、やな感じねぇ。」
「ああ。そんな事をしそうで僕を嫌っているヤツ、しかも僕自身をピンポイントで攻撃できるヤツっていえば…。」
「…『悪い人』。」
「うん。それは明らかだ。彼女自身はそれほど問題じゃない。むしろ気になるのは、ヤツと彼女のつながりだ。どこでどう繋がったのやら…。しかも、彼女となるともう一人、ヤなヤツが絡んできてもおかしくない。」
「ヤなヤツ?スミスの次にヤなヤツっていうと…。まさか…、あいつ?」
「そ。パーセフォニーはメロビジアンの…なんだ、その…おともだちだから。そこへ繋がるとなると…。」
「…最悪。ネオ、もっとすてきな想像はできないの?せめて夢の中ぐらいは。」
「これでも精いっぱい楽観的に考えているんだけどね(苦笑)。…すくなくとも、スミスが動きだしていることは確かだ。なにか僕に邪魔されたくないことを企んでいるにちがいない。それはつまり、僕も動き出さなければならないってことだな。いつまでも目をつぶっているわけにはいかない。」
ネオは拳を握りしめた。
目覚めたネオはベッドに横になったまま、夜明け前の暗闇にむかってつぶやいた。
「『だからこそ』。」
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2004.10.15 編集