Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
「わたしはネオに会ったことがある。」
3日前に上がってきたその情報がおれの頭を離れなかった。もちろん、おれは全細胞に対して、「ネオ」というモノに関わるあらゆる情報を集めるように指令を出していたし、似たような情報は腐るほどあった。その頃おれたちの細胞組織はもうレベル9にまで達していたから(「細胞組織」?解らなかったらハインラインでも読むことだ)、その活動すべてを把握できるやつなんて、ネオそのひとでも難しいだろう。しかし、その情報には、一つだけ目に付く注意がついていた。それは、そのメッセージが、組織のかなり上の方、実際にザイオンからジャックインしたヤツの隠れ蓑オフィスに直接届けられた、というのだ。それも、ただ届いた、というわけではなく、ある日机の上に置いてあったというのだ…だれも知らないうちに。
そんな組織の上層部(事実上、地区司令部だった)のセキュリティは半端じゃないし、だいたい、それは真っ昼間、何人ものスタッフがいる時間帯に忽然とあらわれたらしいのだ。だれも思い当たるフシはなかったし、そもそも可能とは思えない。しかし、現実にそのメッセージを記したカードが残っている、というのだ(マトリックス内の現実で、と言う意味だが)。おれは、情報が上がってきた経路を確認し、そこのオフィスの主にも聞いてみた。ヤツが言うには、そこのスタッフはみんな優秀だし、そんなことででたらめや曖昧なことを言うはずがない、だからこそわざわざいきさつを付けて報告したんだそうだ。むろん、そのカードにはメッセージ以外の情報は何一つなく、まったく見事なほどぬぐい去られていた。
おれは、警戒を高めた上で、様子を見るように指示した。そして、もし同じようなことがあったら、直接おれに報告するように言った。それも、それがあったという事実だけ報告し、内容についてはいっさい報告するな、と付け足して。おれは、次のメッセージはなにかもっと重大なものになるという予感がしていたし、なにより、自分でそのメッセージを見てみたかった。
一週間後、またカードが現れた、という報告が来た。おれは手持ちの件をさっさとぶん投げて出かけた。マトリックスに入るのは、ずいぶん久しぶりだ。おれはめったにジャックインしない…できないんだ。おれはマトリックス生まれじゃない。他の連中のようにガキのころから馴染んだ(そう言っていいのか解らないが)ジャックを持っていないんだ。おれのジャックは、おれが18になった時に志願して付けてもらったザイオン製のヤツだ。長時間繋ぎっぱなしにすると多少熱くはなるが、機能は純正品(?)にも劣らない、もしかしたらもっと良いかもしれない。問題はおれの方、人間の方だ。ある程度成長してしまった神経系統には、もうジャックユニットに対する適応能力がない。神経のほうが刺激に対して「慣れて」しまうと、もう接続できなくなってしまうんだ。無理に刺激を強めると焼けきれてしまう…ハードの方か人間の方かは、あえて聞かなかった。といって、訳の解らない子供にジャックを埋め込むなんて事は許されることではない、タブーだ。ザイオン生まれでジャックインできるヤツの数は少ないし、だからこそ、細胞組織を作り上げて「覚醒」させるにふさわしい人材を吸い上げる必要があったんだ。
おれは例のオフィスへ行った。今度のカードにはこう書いてあった。
『あなたはトーマス 。ホテル・タホのオープンマイク。』
"トーマス"だって?解ってるのか、それがネオの本名だってことが?しかし、偶然とは思えない。意図的に使ったとしか考えられない、興味を引き、メッセージの信ぴょう性を高めるために。おれはスタッフに聞いた。「ホテル・タホのオープンマイクって、なんだい?」
「ダウンタウンにある小さなホテルなんですが、そこのバーで毎週オープンマイクが開かれてるんです。」
「オープンマイクって?」
「ステージとマイクがセットされていて、誰でも自由に何かすることができるんです。歌や音楽、踊り、パフォーマンスからアジ演説、漫才落語まで何でもアリですわ。あそこはエントリーすれば、とにかくやらせてもらえるんです、順番によっては真夜中を過ぎるんですけど。」
「そこに来い、てことかな?」
「おそらく。トーマスという名前でエントリーせよ、ってことかもしれませんわね。」
「おれは芸なんて何にもできんぜ。」
「あなたがエントリーする気ですか?危険です!罠かもしれません、本当にこのカード以外の情報はなにもないんですから。」
おれはカードを見た。ありきたりのグリーティングカード(でもセンスは抜群だ!)に手書きの文字。2通とも同じ筆跡だ。女だろうか?おれは匂いを確かめたが、なんの移り香もなかった。オープンマイクは毎週月曜日、つまり3日後だ。取り合えず、アドレスだけ確かめて、おれはオフィスを出た。
ホテル・タホは4thを下ってフリーウェイをくぐったところにあった。4階建ての小さなホテルで、看板もかなり痛んでいる。その1階の半分がバーになっていた。入口にはなにも出ていなかったが、中にはギターやパーカッションをかかえた連中がぽつぽつとビールを飲んでいて、その奥にステージがあった。どうやら普段はバンドかなにかが下手なブルースでもやってるような風情だ。おれはビールを買ってステージ脇のテーブルに腰を下ろした。
「あんた、はじめて?なにかやる?」ステージの反対側でPAの準備をしていた女が声をかけてきた。おれがうなずくと、「じゃ、この紙に名前となにをするかを書いて、このバケツに入れて。順番はあとで決めるから。」といって、脇のテーブルにあるメモ用紙の束とバケツを指差した。おれはゆっくりと立ち上がり、メモ用紙を一枚取るとこう書いてバケツに入れた。「トーマス/スピーキング」
次第に人が増えてきた。ビールやウイスキーの香りとたばこの煙にどこかグラスの匂いが混じり、妙な活気があるやり取りがそこいら中で交わされている。くる前は若いヤツばっかりかと思ったが、結構いろんなヤツがいる。道に座ってたらホームレスとしか見えないようなヤツとか、元祖ヒッピーですってばかりに髪とヒゲをのばしたじいさんとか、かとおもうとまだ12、3にしか見えない東洋系の女の子がしっかりとギター抱えてたり、場違いなスーツを着込んだヤツまでいる。おもしろいな、アーティストってやつらは。売れてるとは思えないが、何の役にもたたない芸術を離れては生きて行けないような連中…。こういうところで話をするのも面白いかもしれないな、とぼんやり思った。
例の女がバケツを持ってステージに上がった。「おまたー。じゃあ、順番を決めるわね!えーと…。ダグ!あんた、順番を書き取ってくれない?イーじゃないの、たまには手伝ってよ!」彼女はバケツの中身を一通りかき混ぜ、そのうちの一枚を取り出した。「本日の1番手、デビッド!あんたの歌で始めるよ、すぐ支度してね!」そして次々にメモを取り出して名前を発表していく。「えーと、6番目かな、これは…新人さんね、トーマス、しゃべくりだよ!つぎは、…。」…まいったな、そんなに早くとは。用が済んだら(済むものなら、だが)さっさとおさらばするつもりだったのに。ま、しゃあない、なんでもいいからしゃべってくるか。そして、オープンマイクが始まった。
おれはびっくりしたね、連中の演奏と来たら。これが、オープンマイク、しかもチャージなしのフリーで聞けるなんて、って代物ばっかりじゃないか!迫力いっぱいのシンガー、超絶技巧のギタリスト、スタンダップ・コメディのじいさん、アコーディオンとギターのデュオ、シンセのノイズミュージック…。どうしようかと思ったね、おれの番が来た時には。正直、逃げ出そうかと思ったよ。だが、ここで帰ってしまっては何にもならない。おれは意を決してステージに上がった。
「おれは…、おれは最近気になってることがあんだ。うん、気のせいだとは解ってるけど、どうしても不安なんだ。ちょっと聞いてくれるかい?」
おれは細胞のリクルートでつかう常套手段で話しはじめた。一旦話し始めると、いつもの調子が戻ってきた。しかも、ステージでライトを浴び、マイク付きでしゃべるという状況で舞い上がってしまったんだろう。最後はもう止まらなかった。
「だから、おれは真実を見つけたいと思っているんだ!こんな偽善的な平和はもたくさんだ!でも、どうすればいいんだろう?一体どうすればいいんだろう、友よ、どこを探せばいいんだろう、風の中か?もし、君たちの中で知っているヤツがいたら教えてくれ、真実を見つけるにはどうしたらいいんだ!?」おれは絶叫し、息を切らしてステージを降りた。呆気にとられた観客の視線と、ただ景気のいい雰囲気だけを求める酔っ払いの喝采に送られて。
おれは席に戻り、残っていたビールを一気に飲み干した。一息ついたとき、隣に座った男が話しかけてきた。
「まあ、あんたの気持ちも解らなくもないがね、兄弟。でも世間てのはなかなか思い通りに行かないもんだし…」
おれはまだ半分ぼうっとして、酔っ払いのたわごとになんか注意を向けなかった。それでもヤツはしゃべり続ける。
「それでも、なにも求めるものがないなんて寂しいものさ。信じるものがあることはいいことだ、たとえそれがネオ伝説みたいなものだとしてもな。」
おれは一瞬聞き流し、そして一気に緊張して酔いがさめた。隣の男を初めて見つめた。どこにでもいそうな男、ひょろっとした風貌はコンピュータおたくの典型みたいだ。そして、ヤツはおれの目を覗き込んでいた。おれは言った。
「おまえは…ネオに会ったことがあるのか?」ヤツは首を振った。「まさか!…おれじゃない。だがそう言ってる女を知ってる。そして、もしお前が彼女に会いたかったら、こんどの水曜、ヒッキーの店に行くことだ。ナイト・ストリートのヒッキーの店、水曜だ。…じゃあな、おれはもう行かなければ。お前さんはトイレにでも行った方がよさそうだな。」
おれの怪訝そうな顔をみて、ヤツは付け加えた。「窓の外を見てみな。」
窓の汚れたガラス越しに一瞬見えたのは、黒メガネの黒服だった。やつは立ち上がり反対側のドアに向かった。おれは立ち上がってトイレに行った。
様子を見ていて即座に踏み込んできた黒服の男たちは、真っ直ぐトイレに向かい、ノックもせずにドアを勢いよく開いた。窓もないトイレにはだれもおらず、ただ便器の底に携帯電話が沈んでいた。
ここまで回りくどい方法で引きずり回されては、こっちも本気で付き合うしかない。さすがに一人で動き回るのはそろそろ危険のようだし、いずれにせよこんどこそ、ただの連絡係ではない誰かが出てきそうだった。こっちも本気なことを示すためにも、相棒がいた方がいい。おれは迷わずアッシュに声をかけた。
やつはマトリックス生まれでまだ年は若いが、すでにストリート・ギャングを仕切っていた男だ。あいつのシューティングテクはスナイパーなみ、銃身を切り詰めたS&Wでも30m先の的を外したことがない。だが、おれはあいつをただのボディガードとして連れて行きたい訳じゃないんだ。あいつは、一度見たことは絶対に忘れないんだ。どんな本でもあっという間に読み切ってしまうし、モニタいっぱいの数値でさえ、一瞬で暗記しちまう。何十人といるパーティにいたヤツの靴下のマークだって見逃さないくらいだ。本人はただの「写真記憶法」だというが、おれには天才としか思えない、おれの見逃したこともあいつなら見ていてくれる。おれはどんな情報も逃したくなかったんだ。
おれたちがヒッキーの店に着いたのは、もうとっぷりと日も暮れたころだった。ナイト・ストリートといえば怪しげな場所のなかでもピカイチだが、その店はとんでもないところだった。窓もなく、外壁には一面グラフィティともサイケ・アートともつかないような、くすんだ極彩色(変な表現だな)で埋め尽くされ、二つある入口はどちらも鉄格子付き、それぞれに2、3人の若いのがたむろしている。連中はれっきとしたスタッフらしく、片方では入場者から金を受け取り、支払済のスタンプを客の手の甲に押している。もう片方のドアはどうやら出口専用らしく、そこから入ろうとするヤツのスタンプをチェックしている。おれたちは金を払って中に入った。
中は芋を洗うような混雑だった。テーブルなんかありゃしない、カウンターと壁際にベンチがいくつか、フロアは踊り狂っている連中で揺れていて、とてもまともには歩けない。曲はなんだか解らないほどのボリュームでガンガンなってるし、フロア・ウーファーのコーンはどう見ても3cmは動いてる。カウンター席はぎっしりで、座った客の肩越しにビールがボトルのままやり取りされている。もうもうと立ちこめる煙はとてもタバコとは思えないし、火事になっても大して変わらないんじゃないかと思うほどだ。おれたちは、なんとかカウンターまでたどり着くと、何度か大声で怒鳴った挙げ句あきらめて手ぶりでビールを注文した。それを受け取った瞬間、だれかがおれの肩を叩く。振り向くと、この間のオープンマイクで会った男が立っていた。
男は手ぶりでついて来るように合図すると、店の奥に向かった。おれはアッシュに合図して、奥に向かった。店の奥まったところにトイレとクラーク(なんで入口にないのかって?店に聞いてくれ!)があり、すこしは話ができるようだった。ヤツはおれたちに言った。
「きたな。そっちのはお前さんの友達か?二人だけだな、いっしょでいいのか?」
「ああ、そうだ。女は?」
「慌てるなよ。すぐ会わせてやるから。まってろ。」
ヤツはクラークの奥に消え、そしてすぐ戻ってきた。「よかろう。来な。」かれはクラ―ク係の脇をすり抜けていく。おれたちも入って行く。あれ、ボディチェックもなしか?おいおい、大丈夫かよ?そして、小さな部屋に出た。そこに入った瞬間、ボディチェックの無かった訳がわかった。そんなもん必要なかった…、最初っから3丁のマシンガンに狙いを付けられていたら、どんなに早撃ちでもかないっこない。そして、部屋の向こう側に、女がひとり座っていた。
女は黙ってこっちを見ていた。言葉はいわないが、好奇心いっぱい、面白いものをみるような目つきで見つめていた。わずかに頬笑みがうかんでいるか、それが本物か営業用かは解らなかった。おれは今にも引き金を引きたくてしょうがないという風情の連中を見回し、言った。「たしかに用心深いようだが、それにしてもご挨拶じゃないかね?そんなにおれたちが信用できないのなら、なんでここまで呼び寄せたりしたんだ?」
「そうね。でも、あなたがたをここまで来させたのが私たちの信頼の印なの。こんどは、あなたがたがなにか見せてくれる番じゃないかしら?私たちを信用するっていう証拠を?」
おれはアッシュに目配せし、うなずいた。彼はゆっくりとシャツをまくり上げ、ズボンに挟んである愛用のS&Wを見せた。銃をもった男のひとりがそれを抜き取った。そして、おれはケツのポケットに入れてある携帯電話を取り出すと、ゆっくりとテーブルの上に置いた。
「それは?」彼女は無表情に聞いた。おれは答えた。「あんたたちはもう知ってるはずだ、おれたちが外部からジャックインしてきた人間で、その出入りに携帯電話を使っていることを。」
「どうして、私たちがそんなことを知っていると思ったの?」
「あいつさ」おれは例の男をアゴでしゃくった。
「あいつはご親切にも、どん詰まりのトイレを教えてくれたんだぜ、てめえはドアから逃げるのにな。おれが抜けられるって知っていたに違いない、どうだ?」男は笑った。おれは彼女に向き直った。
「これが無い限り、おれはジャックアウトできない。」
彼女は笑った。なんとまあ面白そうに笑うことか!「そうね、十分な信頼の証ね、見事に的外れだけど。見て御覧なさい!」
彼女はケイタイを取り上げると投げてよこした。携帯にはしっかり「圏外」表示が出ていた。「この部屋はしっかりシールドされているわ。オペレータにもトレースできないはずよ。…でも、あなたが本気だというのはよく分かったわ。みんな、もういいわ、銃を降ろして。つかれるでしょ、おもちゃの銃で気合いいれるのも。」
…まったく、あきれたもんだ!女は構わず続ける。「私の名前はサティ。ケリーはもう会っているから解るわね。あなたはN.K.。ザイオンの若手リーダーの一人、教祖キッドの孫でもある。」
おれは緊張した。そこまで知っているなんて、おれたちの組織に裏切り者でもいると言うのか?それとも、エージェントの手の者なのか?エージェントならその程度のことはとっくに知っているはずだ、だが…。わからん、当たってくだけるしか無い。
「あんたはネオにあったことがある。本当か?」
彼女はまたくすくすっと笑って言った「そうね、本当よ。」
「いつ、どこでだ?何十年も、かれの姿はおろか、その噂も聞いたことがない。おれたちがあれほど必死で追っているんだ、生きているなら噂くらいあっても良さそうなもんだ。」
「あなたって、頭がいいのかわるいのか解らないわね。たしかに私は彼に会ったけど、それはずいぶんむかし、私がまだ子供だったときのことなのよ。戦争が終わる直前ですもの。」
おれは開いた口が塞がらなかった。戦争が終わる前?60年も昔のこととじゃないか!おれをからかっているのか?たしかにじっちゃんはネオを見ている、それは事実だ。しかし、じっちゃんはもう80をとうに超えている。この娘はどうみても二十歳をすこし過ぎたばかりにしか見えない。二十歳前でも不思議じゃないくらいだ。なんだってんだ!!
おれが爆発しそうになったとき、だまって成り行きを見ていたアッシュが口を開いた。「あなたはプログラムですね、そうでしょう?」
「…ビンゴ!」彼女はそう言って、またくすくすっと笑った。おれ?おれは…開いていた口のアゴがさらに落ちたね、床まで届くくらいに。
「だって…だってあんたはそんなにきれいで…」
「そぉう?ありがと。お洒落は私の力を発揮できる唯一安全な分野だもの。前に空を飾りつけた時は、ずいぶん長いあいだ大人しくしてなきゃならなかったのよ。」
おれには何のことか解らなかったが、改めて彼女を…謎の女ではなく、彼女自身を…見つめた。そして、思わず口をついて出た言葉におれの鈍感な思考がやっと追い付いてきた。なんてこった!とんでもない美人じゃないか!それもこんな場所には似つかわしくない、いいとこのお嬢さんだ。掃きだめにツルもいいとこだ。とても現実の女とは思えない…あ、ここはマトリックスか、それでも…そして、やっと、彼女がプログラムだということに思い当たった。彼女…この連中…プログラム。だが、例の男も黒服にはご厄介になりたくなさそうだったし、この厳重な警戒措置もそのことを物語っている。ということは…。
「そうか、あんたたちはエグザイルなんだな」おれはやっとのことで言った。アッシュは何をいまさらって顔してやがる。エグザイル、つまり本来は存在してはならないプログラムたち。マトリックスの安定を脅かすもう一つの要素、エージェントたちのもう一つの標的。しかし、その連中がなんだっておれたちに接触してきたんだ?「おれたちに何の用だ?」
「やっと頭が回りはじめたらしいわね。」
そして、いきなり彼女のおもしろがっているような態度が消え、ビジネスライクな口調で切り出した。
「あなたがたがネオのことを嗅ぎ回っているのは、すぐにわかったわ。あんだけ派手に動き回ってるんだもの。すぐにエージェントに捕まってしまうものと思っていたのよ。ところが思いのほかあなたたちの組織は長もちしている。とくに、直接ザイオンからジャックインしていると思われる人たちがなかなか捕捉されないのは驚嘆に値したのよ。」
「で、わたしたちはあなた方の行動パターンを調べてみたの。…同じように追われている私たちにとって、エージェントの手を逃れる方法はとても重要なのよ。でも、結果は単にあなた方の侵入/離脱経路が新しいものである、とわかっただけ。あなた方の使いはじめたD3(Decades 3/第30世代)携帯電話によって可能になった緊急のジャックインとジャックアウト。それはあなた方には大きな助けになったのでしょうけれど、私たちには何の役にも立たない…。私たちは、この世界でしか生きていけないんだもの。ここが私たちの世界、逃れられない現実なのよ。」
おれはいままで、プログラムのことをそんな風に考えたことはなかった。そもそも、プログラムの知り合いっていえば、黒服連中くらいしかいない(連中が知り合いだって?クソくらえ!)。しかし、ジャックインもジャックアウトもなく、この世界に捕われ、四六時中エージュントに追われながら生きて行くことの恐ろしさと困難さは多少なりとも理解できる。それとともに、こうして生き残っているこいつらが、いかに凄腕であるかってことも、だ。甘く見ちゃいけない!おれはそらとぼけて言った。「それは残念だったな。連れていってあげられるものなら、連れていくんだが。」
その言葉に、意外なことに彼女は一瞬気を逸らせた。「そうね…、人間の世界。ネオの世界…。見てみたいものだわ…。」
しかしすぐにその表情は硬くなり、話を続けた。「とにかく、その点に関してはなんのメリットも無さそうだったわ。でも、あなた方がネオの情報を求めていること、その執念深さが引っかかったのよ。そして、たまたま私たちの持っている情報の中には、それにも関係するものがあったの。つまり、私たちはネオに関する情報があるところを知っている、ってことなの。そして、そこにたどり着く方法も。」
「ほう…。でも、あんたたちにはネオに対する興味はない、だから放っておいた、そうだな。そして、その情報をエサにおれたちを利用することができるのではないか、って考えた訳だ。」
「そんな言い方はしないで!…でも、突き詰めればそういうことね。たしかに私たちにはネオの情報はそれほど重要ではないの。私個人的にはまた彼に会いたいと思っているけど…だって、かれってステキだったのよ!…それは夢でしかないわ。」
「ほっ、プログラムのあんたが夢を持つとはね」おれはそう言って、しまったと思った。彼女の顔がこわばり、深く傷つけられたような悲しそうな顔をしたのだ。「…ごめん、言い過ぎた。とにかく、あんたたちには何か他の目的がある、そうだな?」
「…、そう。ネオの情報があるところって言うのはつまり、あらゆる重要情報がファイルしてあるところなのよ。そこにある情報を得る、あるいはせめて破壊することができれば、私たちの闘いはずっと有利になる。だからこそ、私たちはそこへ行きたいのよ!」
「しかし、あんたはさっき、そこへたどり着く方法も知っていると言った。どうしてさっさと行ってとって来ないんだい?」
「前にいちど試したことがあるのよ。そして、そこまでたどり着くことはできたの。でも…だれも帰って来れなかったのよ。」
「誰も帰って来れなかったのなら、どうしてたどり着いたのか解るんだい?」
「彼等がそこに向かって消息を絶った数日後、1本のビデオテープが届いたの。それは、…問題の情報のある部屋の監視カメラ映像だったの。そこに私たちの仲間二人が入り、ファイルをあさって必要な情報を見つけだした映像が映っていたわ。そして…、それから…。」
ことばにつまるサティのあとを引き取って、ケリーが言った。「ゴロツキどもが入ってきて、その仲間二人を捕まえ、その場で殺したんだ。ただ殺すだけでなく…あのフランス人の趣味に合うやり方でな。」
「なら、もっと大人数で行けば脱出も可能なんじゃないか?」おれは言った。すると、サティは首を振った。
「その時行ったのは八人、最後までたどり着いたのは二人、それも意図的に見逃してたどり着かせたふしがあるのよ。あのサドを楽しませるために。そうとしか思えないわ。彼等の唇を読んだの。」
「それじゃあ、たどり着く方法とは言えないじゃないか!情報を持って帰って来れなきゃ、ただの犬死にだ!そんなところにおれたちを送り込もうというのか!」
「落ち着いてよ。…たしかに、脱出できなければなんの意味も無い。私たちには脱出できるような方法が見つからなかった。だから、その後同じ試みはなされなかったのよ。でも、あなた方の出現で事態が変わったように思われるのよ。」
「へっ、人間の命でならもう一度やってみる価値があるってか?」
「違うわ!あなたたちなら、脱出できるかもしれない。その可能性が出てきたのよ。」
「どういうことだ?マトリックス内において、プログラムにできなくて人間にできることなんてあるのかよ?」
「あなたは私の話をなんにも聞いていなかったの?あなた方にはあなた方の世界がある!逃げ込む先があるのよ。しかも、新しい携帯電話なら、どこからでもジャックアウトすることができる、電波さえ届いていれば。窓ガラスの銃弾の穴一つで、どんなシールドでも役に立たなくなる。それこそ、窓から飛び出したって、地上につく前にジャックアウトすることも可能でしょ!」
おれは考え込んだ。たしかに可能だ。しかも、探し物は「情報」ときている。マトリックスのモノを現実世界に持ち出すことは不可能だが、そこで得た情報を「頭に叩き込んで」ジャックアウトすれば、その情報を持ちだすことは可能だ。…なんてこった、おれがアッシュを連れて来ることも連中は予測済みだったとでもいうのか?
「しかし…、人間だけでその部屋までたどり着くことができるのか?」
「誰が人間だけで行け、なんて言いました?私達の何人かが一緒に行くわ、少なくとも私はいくわよ、でなければ、必要な情報をファイルから探し出すことさえできないでしょ?」
おれはぶっ飛んだね。この、いかにもお嬢様という風情の、ミミズだってさわれませーんという顔をした女の子が、実際の作戦に加わるつもりだなんて。いや、それどころじゃない。…これまでの話では、脱出できるのは人間だけだ、それもジャックアウトがうまく行って。プログラムが行くということは100%帰ってこれないということだ、帰還するメドは全くない。完全に死ににいくようなもんだ。
「なぜ…、なぜそこまでして行くんだ?」
「あそこにある情報には、私たちの仲間を救うもの、あるいは破滅させるものが山ほど含まれているのよ。」
「しかし…、しかし、なぜ君でなければならないんだ?」
「私が行きたいからよ!仲間のなかでは私が一番検索の腕がいいから、その分早く仕事を済ませることができる。それに…」
「それに?」
「私には個人的な理由もあるのよ。」
「個人的?」
しかし、彼女はそれ以上は口を開かなかった。
「そこに、ネオに関する情報があることは確かなんですね?」アッシュが聞いた。
「ええ。あいつは例外的なことに対する執着心は人一倍。むしろ、これだけネオに関する情報が無いこと自体、おかしいと思わない?あいつが情報を独り占めして、他を消去していたとしても不思議はないわ。」
「ふむ。そこには双方に利益のある情報がある。あなた方は、そこへ行き、情報を引き出すことができる。われわれはその情報を携えて帰還することができる。しかし、その情報は我々が引き渡さない限り、あなた方には伝わらない、そうですね?そこまで我々を信用するのですか?」アッシュは無表情に言った。なんてヤツだ、こいつは!おれにはこいつの方がプログラムじゃないかと思えた。
「たしかにそうね。でも、私たちは、少なくとも必要な情報を抹消すること無く、存在して欲しくない情報を抹消することができるわ。それだけでも十分価値があるの。あとは、残った情報に関するあなた方との交渉になるだけね、どういう形にしろ。」サティがそう言った時、ニヤッと笑ったケリーをおれは見逃さなかった。嫌な笑いだ。
「でも、両方にメリットのある話だし、そんなに話を難しくする必要があるのかしら。あなた方が乗らなかったらこの話はおしまい。私たちが信じなかったら、あなた方は乗ってこないでしょうからこの話はおしまい。だから、私たちは…少なくとも私は、あなた方を信じるの。いけない?」
あまりに無邪気な、何気ない言い方だったので、おれはうっかり忘れそうになった、…彼女がその命を賭けていることを。そこについて来るプログラムたちが生きて帰ることはない、そういったのは彼女自身じゃないか。なぜだ?なぜ、彼女はそんなにこだわるんだ?たかが情報に、どれだけの意味があるというんだ、それも、プログラムである彼女にとって?おもわず、おれのその思いが口をついてでてしまった。「なぜだ?なぜそこまで?それはもっとずっと個人的なものなんじゃないのか?」
彼女は悲しそうな顔をし、そして話しはじめた。
「そうね、始まりはそうだったかもしれない。私はマシンシティで生まれた。発電所のマネージャーとプログラマのあいだに生まれた私には、決まった仕事が無かった…シティの役に立つ仕事ができなかった。普通、そうしたプログラムはある程度の年齢になると判定にかけられ、不要と判定されると消去されるのよ。でも、私の両親はその判定に従わなかった。パパもママも、単にシティの役に立たないからといってまったく存在価値がないとは考えなかったのよ。わたしのできることが大好きだったの」
「きみの…きみにできることって…?」
「わたしにできること、それは美しいものをつくること。私はお洒落が大好き、だってそれは私を美しくすることでしょ?でも、「美」が何の役に立つと言うの、あのマシンシティで。…とにかく、私の両親は私をこのマトリックスに逃し、生き延びさせるために取り引きをしたのよ、あの悪魔と。両親はある秘密のプログラムコードを渡し、それと引き換えに私をマトリックスに行けるようにしたの。もちろん、両親はそのコードが危険なものであることは知っていたけど、それがどのように使われるかは知らなかった。そして、あとになって、そのプログラムコードがどれだけ危険なものかを思い知ることになったのよ。それは、プログラムを傷つけ、抹殺することができるの、とくに、私のようなエグザイルとなったプログラムを!」
「あいつはすぐさまそれを使って、私の大恩人を傷つけた。幸い、うまく逃れて生き延びたものの、あのひとは二度ともとの姿には戻れなかったわ。それから、あいつはめったに使わなかったけれど、それを脅しに使って闇の力をふるい、エグザイルたちを押さえつけてきたの。エージェントだけでも大変なのに、あいつはその上にピンハネかけてきたのよ!私たちが自由になるには、まずあいつの支配を逃れなければならない。だからこそ、私たちはあいつのところへ行って、そのプログラムコードを抹消しなければならないの。それは、わたしのせいであいつに渡った…。わたしには責任があるのよ!」そして、彼女は涙を流した。
涙…。おれはその気持ちに圧倒され、そしてまたもや相手がプログラムであることを忘れている自分に気付いた。そりゃあ、マトリックスの機能なら涙を流すプログラムを作るのは簡単だろう。しかし、それで人間を説得できるかどうかは話が別だ。人間の女の涙は簡単に男をだますことができるが、それは女が演技達者なせいじゃない。女が涙をながすとき、たとえ真実ではないとしても、自分の感情を心底信じ込んでいるんだ、女ってヤツは。だからこそ男はだまされるし、それでもうまく回って行くんだ、男と女は。
そして、いま、目の前で涙を流す「女」がいる。おれには、とうてい嘘泣きには思えなかった。ばかなヤツと笑うんなら笑え!すくなくとも彼女の話には嘘はない。そして彼女は本気で悲しんで、自分に責任を感じ、しかもそれに対処しようとしている。おれはそう確信した。
「わかった。いまの話で君に責任があるとは思わないが。君が信じてくれるなら、おれも君を信じる。」おれはそう言って手を差し出した。彼女はその手を、そしておれの顔を見た。おれがうなずくと、彼女もうなずき、そしておれの手を握った。その手は細く、ひんやりとしていたが、力強く、そしてすぐに暖かいものに感じられた。おれの手が火照っただけかもしれないが。
おれは手を離し、そして言った。「じゃあ、詳しい話を聞かせてもらおうか。」
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2004.10.15 編集