Matrix Restart

Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy



記憶


「やあ、N.K.。おや、今日はアッシュも一緒か。」

「こんちは、ネオ。元気そうだね。」

「うん、おかげさまで。このところはうまく眠れるんでね。」

「なんか、救世主らしからぬ言い種だなぁ。(笑)」

「それは言わないでくれよ、アッシュ。僕は救世主なんかじゃない。今の僕は保育園にいるんだぜ。」

「二度目の保育園だなんて、救世主クラスでなきゃ手に入らない特権さ。まったくうらやましいね。」

「あれぇ、N.K.、あんたがここに来たいのはべつの理由だろ、下心がみえみえだぜ。」

蹴飛ばそうとするN.K.をよけてアッシュはネオのそばにきた。

「ネオ…どんな感じだい?プログラムってのは?」

興味しんしんのアッシュにネオは苦笑して鼻の下をかいた。

「うーん…。アッシュ、どんな感じだね、人間てのは?」

「えっ!あんた、忘れちまったのかい?」

「まさか!むしろ前よりも記憶は鮮明になっているよ。僕が言ったのはそういう意味じゃない。自分の意識としては、まったく違いは感じられないんだ。ただ…。」

「ただ?」

「機能というか、能力と言うか、その辺に微妙な違和感があることはたしかだ。まえよりも知覚が鋭敏になったような気がしたり、そう、記憶力も良くなったような気がする。いや、良くなったというよりも、変わった、という感じかな。ブラウン管が液晶になったような。どちらが良いというものではない。でも、それも具体的にどこがどう変わったかと言えるほどのことではない。人間のままでも、環境や体調の変化のせいにしてしまえる程度だとおもうんだよ。」

「ふーん、そんなもんか。オレはもっと劇的に変わるもんかと思ったけど。」

「僕も最初はそう思った。生身の体があるとないとでは相当な違いがあるにちがいないと思って、一生懸命考えてみたり、あれこれ試したりもしたよ。でもね、いくら考えても調べても、重要な違いは見つからないんだ…いまのところは。もちろん、物理的なプロセスや制約みたいな点や、それこそ睡眠みたいな思いもしない所でひっかかったりすることはあっても、それでも病気やちょっとした変調程度の違いにしか思えないんだよ、主観的には。」

「主観的には?じゃあ、客観的には?」

「客観的に言えば、僕には自分のコードや接続経路、プロセスやらの処理が見える。その意味では、僕はプログラムだ、そう考えるしかない。もう人間ではないのかもしれない。」

「『ないのかもしれない』?ビミョーな表現だな。まだ疑う余地があるのかい?」

「いや、生身の肉体と接続していない、という点では疑いの余地はない。…僕が迷ってるのは、『人間とはなにか』ということさ。『人間性』といったほうがいいかな。…アッシュ、僕は機械に見えるかい?」

アッシュはおもわず絶句してまじまじとネオを見つめたあげく、彼にしては妙にまじめに答えた。

「いや。あなたは人間にしかみえない。」

「あたりまえじゃないか!ネオは人間だ!そんなの、会った時からわかっていたさ!」N.K.が思わず口を挟む。「ネオ、変なことを考えちゃダメだよ。そっちは袋小路だ、気が狂っちまう!」

「…ありがとう、N.K.。その通りだね。でも、もう大丈夫だ。僕はね、もう人間だとかプログラムだとか、そんなことにはこだわるのはやめたんだ。ただ、それでも『僕は何者だ?』という問いは残っているけどね。まだ、その答えは見つかっていない。まあ、とりあえず『僕は僕だ』と思うようにしている、それで十分いけそうだろ?」

「うん、間違いない、あんたは人間だ、ネオ。機械はそんなことは考えないもんだ。」アッシュは心なし嬉しそうにいった。「それなら、オレも人間だと言うことに確信が持てるよ。」

「ほー、おめえもすこしは自分が人間であることに不安を感じていたのか、アッシュ?おれはずっと疑っていたんだ。」

その言葉にびくっとして振り向いたアッシュは、すぐまた視線を逸らして吐き捨てた。

「‥あんたには解らねえよ…あんたはザイオンの生まれだからな。マトリックスでうまれ、<覚醒>を体験した者は、なんにせよ絶対の自信をもてないのさ。」

「まあ、そうとも言えるし、そうでないともいえるな。」ネオが割って入った。

「生まれつきの自信なんてものはない。自信は自分を信じる自分がいなければ手に入らないんだ。…でも、N.K.、いまのアッシュの言葉は軽く見ないほうが良いぞ。経験しなければ理解できないことはあるんだ、そのことは忘れるな。」

「わかったよ、ネオ。…すまん、アッシュ。」

「いいよ。」

「…、…アッシュ?ちょっと聞きたいことがあるんだけどな。」

「なんだい、ネオ?救世主さまのご質問とあらば、なんなりと。」

「ちぇっ、それはやめてくれってば!…アッシュ、君はすごい記憶力を持っているそうだね?」

「いやあ、ただの写真記憶法だよ。ま、多少記憶できる量は多いかもしれないけど。」

「それって、どんな風にするんだい?いや、それじゃあ答えにくいか。僕が聞きたいのは、思い出すときの感じなんだ。どんな形で思い出すんだい?」

「うーん…。例えて言えば、やっぱりテレビに近いかな。まず、全体の状況が思い浮かぶね。それから細部に入っていくんだ。」

「もうすこし具体的に説明できないかい?ズームしていくような感じかい?」

「うん、そうともいえるだろうね。最初の全体ではそれほど細部まで出ているわけじゃない。おおまかな状況がつかめるだけだ。そこから細部に意識が移ると、その部分がズームして詳細なところまで見えて来る、って言う感じかな。必要ならさらに突っ込んでいく。あと、単純な暗記モノ、本を暗記するようなときは、それがけっこうシリーズで繋がっていたりするね。ぱらぱらめくっていくような、おおざっぱにスキム(斜め読み)していって見つけると詳細に表示するみたいな。」

「…ふーん。じゃあ、インデックスはおおざっぱなもので、それから詳細なところへ入っていく、って感じなんだね。」

「まあ、そうだね。でも、それは普通の記憶でもそうじゃないのかい?」

「ああ。ああ、普通の…記憶もそんな感じだ。」

「ネオ?」

「…いや、ちょっとね。これも慣れていかなければならないんだろうな。」

「なにかおかしいのかい?」

「…おかしい、というわけじゃあない。…違うんだ、前とは。昔の、生身の頃の記憶は全くそのままだし、思い出し方も同じようなもんだ。そっちは変わっていない。ただ、最近の…変わってからの…記憶がね、ちょっとちがうんだよ。」

「どうちがうんだい?」

「たぶん、アッシュの記憶法に近いんじゃないかと思うんだ…今の話からしても。違いは…強いて言えば、解像度かな。」

「やっぱりね。もっと精密に、情報量が多いんだろ?そうだろうと思った!」

「いや、アッシュ。最終的な情報量はそう変わらないと思うな、たぶん同じだ。なにが違うかというと…それは…そう、思い出し方なんだ。全部が…一斉に出て来るんだよ。インデックスなし、概略なし、最初に思い浮かぶ時に、全情報が一気に、とことん詳細な部分までどんっと現れるんだ。」

「ふーん。でも、そのほうが手っ取り早いんじゃないの?」

「それで全体を把握できればね。…まあ、そのうち慣れるかもしないし、単に気のせいかもしれないし。」


「どうだった?」

ネオの部屋を出て来たN.K.とアッシュをまちかまえていたサティが、心配そうに聞いた。

「うん…。すくなくとも彼自身はそれほど調子が悪いとは思っていないみたいだけどね。どう思う、アッシュ?」

「かれの頭の回転は問題ないな。体調という点でも、取り立てて悪いという感じでもなかったぜ。」

「そう…。でも、このところずっと部屋へ引きこもりがちなのよ。ほら、うまく眠れるようになってからは、けっこうおしゃべりしたり、外へ散歩したりしてたんだけど。…なにか、日が経つに連れて…こう、社交性がなくなってきたというか、また一人でいる時間が長くなってきているのよ。」

「まあ、かれもいろいろ考えることはあるみたいだしね。でも、ヤバい『To Be, or Not To Be』的悩みはもう乗り越えたような雰囲気だったし…。」

「そうだね、変な悩みっていう感じじゃあなかったな。ただ、ほら、『慣れていない』みたいなグチは何度か出てきてたけど。口ではそのうち慣れるだろうと言ってたけど、ちょっと気にしているようにもみえたぜ。」

「『慣れていない』?それはどんなことに、アッシュ?」

「そう、記憶の呼び出し方がどうとか言っていたな。細かい所まで一気にでてくるとか。でも、おれにいわせりゃ、それはAIになった恩恵の一つだと思うね。彼の言う通り、最初は戸惑うかも知れないけど、慣れればオレの記憶法なんて目じゃないレベルになるんじゃないのかな。」

「どうなんだい、サティ?プログラムの…ごめんよ…の記憶っていうのは、細部まで一気に出てくるものなのかい?高解像度の全体データが一気に表示されるみたいだ、っていっていたけど。」

「え?わたしの場合は、どちらかというと概略と言うか要点というか、そういったものから細部に繋がっていくような感じかしら。私はそんなに頭がよくないから、いっぺんに詳細なデータがでてきても掴みきれないと思うわ。」

「へえ…。そうすると、オレらの場合とそう大した違いはないみたいだな。」

「マトリックス仕様である以上、私のシェルも基本的には人間の処理に適合するように設計されているはずよ。そんなに極端に違うということはないと思うんだけど。」

「ネオものそうかい?」

「そのはず。…他には?彼が気にしていそうなことは?」

「…とくに話はでなかったし、そんなもんじゃないかな。」

「うん、具体的に話題に出たのはそんなもんだ。でも、記憶のことはたしか気になっている様子ではあったな。たしか、その話を持ち出したのはネオの方だったよな?」

「そうだ。人間とはなにかとか、自信とかの話であんたに説教たれたあと、彼の方からオレの記憶法について聞いて来た。言われてみれば、オレに会ったら聞いてみたかったんだ、ってな言い方だったな。」

「そう…。気になることがあっても、私ではまだ話し相手になれないみたいね。」

「いや、そんなことはないさ、サティ。アッシュの記憶については有名だし、こいつがたまたま顔を出したからそういった話になっただけじゃないかな。」

「そうかもしれないわね。…いいわ、ありがとう。もうすこし様子を見てみるわ。記憶の話も、ちょっと調べてみる。ごめんなさいね、私は心配性だから。」

「いいんだよ、サティ。いまのネオのことで心配し過ぎることはない。君みたいなひとが付いていてくれるのはとっても安心さ。ボクのほうからも改めて頼むよ、よろしく面倒をみてやってくれ、サティ。彼は大事なひとなんだ。」

「そうね、N.K.。わかってるわ。彼は彼自身が思っているよりよっぽど重要人物なのよ、いろいろな意味でね。」


「ネーオ!すっごくいい天気よ!いっしょに散歩にいかない?」

「…ん?…ああ、サティ。散歩?…ありがとう、でも今日はやめておこう。」

ネオは、まるで白日夢からさめたような調子で首を振った。

「そお?…ネオ、なにか調子でもわるいの?このところずっと部屋にこもりっきりじゃない。」

「え?そんなことはないよ。ついこないだ出かけたばっかりじゃないか。」

「こないだ?…ネオ、あなた、この二週間というもの、部屋と食堂のあいだしか動いていないわ。忘れたの?」

「…そうだったかな。…あ、そうそう、そうだったね。ちょっと考え事をしていたもんだから。」

「二週間も?なにか気になることでもあるの?物覚えがわるいとか?」

「…なんでそんなことを?ああ、そうか、アッシュになにか聞いたかい?でも、それは正反対さ。物覚えが良すぎるくらいだ、もうすこし慣れれば大丈夫だよ、アッシュにもそういったんだけど。」

「だって、N.K.といっしょにアッシュが来たのはもうひと月近くもまえのことよ!…ネオ、あなた、このごろすこーし変よ、どうしたのかな?」

「そうか。…やっぱり。すぐに慣れると思ったんだけどな。」

「なんなの?話してみない?それともN.K.を呼んできましょうか?そのほうが良ければ。」

「いや…。たぶん彼らには解るまい。君にも、いやだれにも解らないかもしれないな。」

また、独り言モードに入りそうな気配を感じたサティは、意を決して声をあげた。

「なによっ、勝手に納得して!解っていないのはあなただけかもしれないでしょ。うじうじとまあ、わたしのネオらしくないわ!」

「『わたしのネオ』?」

「!…。そんなのどうでもいいでしょ。…ネオ、あなた、記憶が混乱しているんじゃないの?」

「どうしてそう思うんだい?」

「アッシュが言っていたのは、あなたが記憶の思い出し方を気にしている、ってこと。それに、このところ特にだけど、時間の感覚が変なような気がするの。さっきだって、二週間まえを『ついこないだ』っていったでしょ?それも単に時間の経過が速く感じるというよりは、ほんとにそう思っていたみたいだったわ、ちがう?」

「そうか、はたから見てもバレバレか…。ごめんよサティ。自分でなんとかできると思ったんだけどな。僕はおもったより不器用なみたいだ。」

「いいえ、ネオ。そんなことはないわ。たぶん、ちょっとボタンを掛け違っただけだわ。むりもないわよ、あなたはりっぱな赤ん坊なんですからね、プログラムとしては。でも、解ってしまえばなんてことはないものよ。学ぶこと、教わることをこわがらないで!」

「はいはい、せんせー。…じゃあ、教えてもらおう。どうやったらこの記憶の洪水を捌くことができるんだい?」

「記憶の洪水?」

「そうさ。機能としては人間の比じゃない、すばらしいものだ。アッシュの言う通り、それこそ多くの人間が夢見ていたような完璧な記憶力を手に入れた。解像度が高く情報量の多い、しかも劣化の全くない記憶、それが瞬時に思うままにアクセスできる。検索の必要すらない、必要な時にすっと出て来る、すばらしいものだ!だけど、僕にはその情報を処理しきれないんだ。データ量が多すぎて、必要なものへ絞り込むのがかえってむずかしい。それに劣化がまったくないから、いちいちタイムスタンプを確認しないと新しいのか古いのかの識別がつかない。昨日のできごともひと月まえのできごとも同じように鮮明に思い出されるんだ。いや、それどころが、今現在のリアルタイムで進行している状況との差さえはっきりしなくなる。うっかりすると、記憶のプレイバックなのか実際にいまやっていることなのか、あるいは未来のデジャブをみているのかさえ区別がつかなくなってしまうんだ。」

「ネオ…、あなた…。」

「記憶の情報そのものに欠陥はない、それは確かだ。データの再生にも問題はない。問題は、そのデータを解釈する僕の能力の方なんだ。そうさ、僕はまだ赤ん坊かもしれない、だからそのうち何となく解って来るだろうと思って我慢していたんだ。でも、日が経つに連れて日々の記憶はどんどん増えて来る。なにひとつ、ほんの些細なことでも忘れることができないんだ。そのうち、ほんの何でもないきっかけで突然記憶が呼び覚まされてくるようにもなってきた。うまくコントロールできないんだよ、記憶というものを、意識的にしろ無意識的にしろ…。僕には能力がないんだろうか?プログラムとしては欠陥品なんだろうか?僕は…。」

「ネオ!やめて、ちょっと待ってちょうだい!」

サティはすこしでもネオの注意をひこうと彼の手を取った。

「ネオ…。わかったわ。なにが問題なのかも。…そう、そんな状態だったの。まったく、あなたって人は。理屈一直線、感覚一直線、どっちにしても真面目一直線なんだから。」

サティはネオをリビングへ連れていき、窓際の明るいソファに座らせた。

「…いい、ネオ。あなたはまだ解っていない。プログラム ―AI― であることが、人間とはかけ離れた、なにか特別なことであるかのように思い込んでいる。でもね、ネオ、そんなに違いはないのよ。人間にとっても大変なことはAIにとっても大変なの。特別な能力はない、たいした違いもない、昔通りにやることになる、そう思った方が良いわ。」

「でも…」

「『でも』はダメ。私の説明を聞いて。…たしかに、あなたの記憶はいま混乱しているようね。そのうち慣れる、かもしれない、もしかしたら。でも、あなたが勘違いしている間はまず無理。まずちゃんと理解する必要があるわ。いろいろなことをね。あなたは理屈っぽいから、まず記憶のメカニズム、…というより、その設計思想を把握したほうがいいかもしれないわね。」

「でも、サティ、僕はそれを理解しようとしてみたんだ。調べた限りでは記憶情報にエラーはないし、入出力も問題ない。僕の解析処理に問題があるとしか思えないんだ。」

「そこからして間違っているわ。そもそも、入出力される情報にエラーがないってことをどうやって確認したの?」

「もちろん、入力と出力を比べてみたのさ。完全に一致した、したがって情報にエラーはない。以上証明終わり、さ。」

「論理が一段抜けているわ。入力と出力が一致するのが正しい、っていう理由は?」

「!‥。だって、記憶って記録だろう?記録したものと違ったモノがでてきたら役に立たない。人間でいたときはそれでずいぶん困ったもんだ。」

「それでも、まあまあうまくいっていたんでしょう?いまのあなたは困っていないの?今よりも昔の方が大変だった?」

「いや。今の状態はどうにもならない。」

「そうでしょうとも。あなたの今の状態、いまの記憶のありかたは正常ではないんだもん、…主観的にだけでなく、システムの仕様上も。説明しましょうか?すこし専門的な話になるわよ。」

「…たのむ。」


そもそも、記憶は記録じゃないわ。単純なデータ保存という問題じゃないの。保存から読み出しまで、一貫したシステム、それもかなり高度なデータ・マイニング(意味解析)処理を含むものなのよ。

まず、記憶の元となる知覚を考えてみましょうか。現実にしろ、仮想現実にしろ、環境からのインプットは膨大なものがあるわ。意識上も無意識下も、ありとあらゆるデータがリアルタイムで連綿と途切れなく入って来る。それをまともに保存することはできないし、したところで意味がないことはわかるでしょう。肉体的な処理で済む部分は自動的に解析され、必要な対処がなされれば自動的に廃棄される。まあ、この部分は意識下以前だから、いまは無視してもいいわ。

それでも、かなり膨大なデータが意味解析に上がってくることになるの。この場合の「意味」というのは、意識上のものにはかぎらないわ。むしろ、意識に上らせるかどうかの選別からはじまる一連の評価、という感じかしら。ここでも、無意識に処理できるもの ―性格や嗜好、癖や習慣的なもの― は自動的に処理される。ただ、その処理内容はそれぞれの意識に影響されるし、後処理の必要性もあるから記憶システムの処理範疇にはいることになるのよ。つまり、一時記憶エリアに入って来る、ってこと。

一時記憶は、もちろんリアルタイムな処理のために使われるわけだけど、その際同時に情報のプライオリティがつけられることになるわ。実際は、知覚が入力されると、プライオリティがつけられて初めて処理に回るわけ。そのプライオリティはその後の処理によっても変化するし、必ずしもそのまま記憶のプライオリティとなるわけでもない。リアルタイム最優先でも最優先記憶になるとはかぎらないから。

それでも、ひととおりの処理が済んだ段階で用済みになった情報は、記憶ストレージのための処理が施される。つまり、記憶用としての価値もプライオリティに加味されたうえで取捨選択され、一時記憶から永久記憶へと移されるの。保存の必要のないものは破棄され、そうでないものは保存される。それに、プライオリティの低いものは細かい部分を削り取って圧縮するようなこともあるわ、本質的な情報だけ残す訳ね。つまり、この段階で、知覚のかなりの部分が整理され、絞り込まれて最適化されていくの。AIの場合、人間の標準からすれば保存率は高いかもしれないけど、それでも、必ずしも100%保存されるわけではないのよ。

そして、永久記憶に移された記憶にはプライオリティがつけられているから、思い出しやすい記憶とそうでない記憶、忘れやすい記憶とそうでない記憶、そういった区別がつくことになる。こうして、人間の記憶メカニズムをシミュレートしているわけね、AIの場合。

でもそれだけでは不十分、微妙な点でまだ差があるわ。生体である人間の記憶はどうしてもアナログ的な部分があるから、永久記憶といっても時間の経過とともに自然減衰する。もちろん、なんとなく思い出すことによって更新されたりすることもあるけど、逆に、たまたまの記録(脳細胞の)位置によって減衰率が変化することもあるのよ。でも、そうした微妙な変化によって、単純なタイムスタンプとはちがう時間の経過感覚が得られたり、限りある永久記憶エリアの整理整頓が行われたりするみたいなの。

でも、AIの永久記憶エリアでは、データが自然減衰することはないわ。それは確かに人間を上回る点ね。その意味では、記憶内容は一切劣化しないの、永久記憶の中では。でもそれでは、いかに容量が大きいとはいえ無駄も多いし、自然な時間感覚を得るのも難しいわ。

それをクリアするために、ここでまたプライオリティを利用した処理が組み込まれているわ、AI独自の記憶メカニズムとして。つまり、時間の経過とともに、データのプライオリティを減らしていくのよ、データそのものではなく。もちろん、単純な引き算ではなくて、わり算の定率減算でゼロにはならないようにしたり、まあ、それなりのアルゴリズムでね。

とにかく、こうした結果、AIの記憶は基本的に人間の記憶と大差無いように設計されているのよ。なぜ?まあ、普通のAIのベースとなっているシェルはマトリックス仕様が標準だし(人間と区別がつかないようにしないとマトリックスでは困るでしょ?)、AIの精神衛生上もその方がうまくいくみたいなのね、経験上。もちろん、そうした標準的なAI以外にも、特殊なAIは存在するけど(むしろ、マトリックス仕様のほうが特殊かしら?よくわかんないけど)、すくなくとも私の回りにいるAIはみんな同じようなものだそうよ、もちろん、あなたを含めて。

わかる、ネオ?あなたも同じメカニズムを持っているはずなの。でも、それがうまく働いていないようね。どこがおかしいか、今の話で見当がつく?

…そう、その通り。プライオリティよ。プライオリティによる記憶の取捨選択機能がうまく働いていない。でもね、それは欠陥なんかじゃないわ。考えてみれば当たり前よ。…これもまた、あなたが初めての存在であること…人間からAIになった、といういきさつから来ているの。

プライオリティというものがどのように設定されていると思う?まさか、それが全員一律だとは思わないでしょう。それは千差万別、常に変動するものよ…それぞれの個体が学習していくものなの。

いい、ネオ。AIにしろ人間にしろ、誕生の直後は全くの白紙、知識はおろか記憶も全くないわ。つまり、入ってくる情報はすべて新しい、重要なもの。当然、覚えなければならないものが多いから、学習の必要性からもフィルタとなるプライオリティの閾値は事実上ゼロから始めることになるわ。そうすれば、すべてを認識し、すべてを記憶し、そうしてすべてを学習することができる。そこから、経験だけでなく認知・判断力もふくめた学習の進行に合わせて、徐々にプライオリティの閾値が上昇していくのよ。子供のころはなにを見ても新鮮だったでしょ?それはAIでも同じことなの。

いい、ネオ。あなたの場合は、人間、それも大人の人間からいきなりAIになったわ。前にもいったように、生まれたての赤ん坊の体に大人がはいったようなものなの。つまり、あなの体はまだ学習が済んでいないのよ。にも関わらず、あなたの意識、あなたの認知力、理解力、いわば情報受容力は完成された大人のもの、いいえ、それ以上のものだわ。それがどういうことか、わかるかしら?

そう、入って来る情報は大人なみなのに、それを処理するアルゴリズムではプライオリティの閾値設定が初期値、つまりゼロのままだったのよ。当然、必要のない枝葉末節まで記憶されてしまう、思い出すにもプライオリティがないから全部同列でまとめて出てくるし、前後関係の区別がつかず、どれがどれだか解らない。記憶の洪水ですって?そんな生易しいものではなかったと思うわ。むしろ、よく持ちこたえたと驚くべきね。一か月以上よ。あなた、ほんとに凄いわ、自慢していいわよ。

とにかく、あなたの力からすれば、記憶プライオリティにもそれなりの閾値が必要なのよ。ところが、標準シェルの学習能力では、その向上が追い付かないのね、むりもないけど。たしかに、時間で解決できるかもしれないけれど、それも無闇な手探りでは到底無理、間に合わないわ。ある程度意識的に「勉強」する必要があると思うの、あなたの場合。ま、いま話していることが最初の科目なんだけどね。基礎理論、ってとこかしら。

え?まさか!私が最初っからこんなことを知ってるわけないでしょ!…実はね、オラクルに聞いたのよ。ほとんどはまんま受け売り(笑)。彼女は言っていたわ、「あたしが言うより、あんたから言った方がこたえるでしょうよ、あのおっきな赤ん坊は」って。…ええ、相談したの。でも、おばあちゃんは解ってたみたいだったわ、例によって。「どこまでやれるか、やらせておあげ。そうでないと納得しない子だから」って。…わたし、もっと早く話すべきだったかしら?

そう、そう言ってもらえると。…ううん、いいの。私は全然。そんなに悩まなかったし。…じゃあ、つづき。いい?

とにかく、記憶プライオリティのステータス設定が重要なことは解ったわね?それは読み出しの時だけの問題じゃない、むしろ、書き込みの時点でほぼ決まると思って構わないわ。だからこそ必要な時にすぐ引き出せるのよ。

でも、その決定プロセス、判定基準となる閾値は、必ずしも意識的に決めるものではないわ。最終的には、ほとんどが無意識のうちに行われる習慣的なプロセスとして決定され、更新され、そして利用されていくものなの。そう、習慣よ。いちど正しい習慣が身に付きさえすれば、あとはなんの負荷もなく気にすることもなくなるわ。あなたの場合は、その最初の習慣づけをちょっと急ぐ必要があるだけ。あなたには強力な意識がもう完成しているんだから、それを正しく利用すればいいだけなのよ。

どうするのかって?正しい習慣を付けたいときはどうする?とにかくそのように行動して、癖になるまで続けるのよ。癖になり、習慣として定着してしまえば、あとはもう無意識の処理だもん。ただ、問題は、あなたにとって適切な、ちょうどいい「習慣」がどのレベルかを見つけだすことなの。それは、他人が設定するものではないもの。あなたが自分で見つけださなければならないのよ。

ネオ、そんな顔をしないで。そうはいっても、今度は意識的に行うことが可能な範囲のことだから。そのおおまかな方向性とか、可能性のある方法論とか、そういった手助けはできるわ。…すくなくとも、いくつかの指示はもらってきているの、オラクルから。

いい、ネオ。あなたの有利な点は、人間として生きたころの記憶がそっくりあるってことなの。ネオ、そのころのことを思い出してみて。なにかおかしいことがある?記憶が押しよせて来るような感じがする?…そうよ、そのころのことは昔どおり、普通に思い出せるでしょう?つまり、そのころの記憶には正しいプライオリティがつけられているのよ。AIになるときに、生身の記憶にふくまれるそうした情報は正しいプライオリティとして残るように処理されたの。つまり、あなたには正しいプライオリティ設定の記憶データ、それもあなたに最適化された状態のものが一式残されているのよ。

そう、それを利用するの。もちろん、単純に変換できるようなものではないわ。それは設定された結果であって、どのようにそう設定したのかというプロセスそのものではないのですもの。でもね、プロセスを構築する上ではこの上ないよりどころとなるはずよ。どうするのかって?慌てないでよ、これから説明するから。

まず、昔の記憶をゆっくり思い出してみて。なんでもいいわ、あわてることはないし、むりやりすることでもないわ。これは、習慣になるまで、気楽に繰り返す手順なんだから。…簡単に思い出せるものでも、たまたまふっと思い出したことでも、物事でも感覚でも、意識的なものでも、無意識下のものでも、どんなことでもいい、なにかを思い出したら、その重要度を測るのよ。…いいえ、数値とか、コードとか、そういうことではないわ。そうね、いわば<センス>とでもいいましょうか、あなたがどんな感じをもつか、あなたの心、あなたの体がどんなことを言っているのかを聞き取るのよ。

言葉でいえば、いろいろな感じはあるわね。安らぎ、幸せ、興奮、平安、…悲しみ、嫌悪、怒り…、退屈、空虚。でもね、言葉やそのレベルにこだわってはだめ。<センス>はそのままで感じるの、そして、そのままの感じを集めていくの。解る?そうしたたくさんの<センス>があつまればあつまるほど、あなたの記憶の目盛りは長く多く、細かくなるのよ。

そう、子供はそうした目盛りを、現実の経験に遭遇するたびに、ひとつひとつ集めていくの。でも、あなたにはもうそうした経験がたっぷりあるわ。そこから<センス>をうまく引き出すことができれば、子供がおとなになるまでの時間と同じ効果があるはずなのよ。

ええ、もちろん、プログラムの内部的には、それなりの処理に変換されるし、最終的にはパラメータのようなものになるかもしれない。でもね、それは「機能」であって、使いこなしの「ノウハウ」ではないわ。だからいまは細かいことにはこだわらないで!プログラムだのなんだのということは忘れて!ただ、あなたの人生を、もういちどゆっくり味わうの。そうすれば、機能のほうが自動的に追従してくれるわ。あなたを機能に合わせてはダメ!機能のほうに、あなたを学習する機会を与えてあげるのよ。

そうすれば、赤ん坊の体も成長をはじめるわ。そう、育てるのよ!過去を振りかえることは無駄ではないわ。そこからあたらしい認識がうまれ、次への準備ができる。それはなにも特別なことではないでしょう?難しいことでもないでしょう?あなたには能力がある。その能力を活性化させるのは、あなた自身なの。あなたにはあなただけにしかない経験があるわ。あなたがあなたであるように最適化された記憶が。それをもういちど見直すの。そうすれば、なにが自分にとって最適であるか、なにがもっともふさわしい状態であるかも自然とわかるようになってくるわ。

そしたら、すこしずつ、新しい世界と向きあってみて。いっぺんに直面する必要はないわ。ちょっとずつ、いちどにひとつずつ。そして、その時感じる<センス>を大事にするの。その<センス>によって、正しいプライオリティが割り当てられていくはずなの、あな自身は考えることなく。そうね、それは状況の「パラメータ・セット」ともいえるし、「アクセス・キー」ともいえるかもしれないわね。でも、それは無意識下で処理されていくし、そうでなければ自然なものにはならないわ。分析してはダメ、感じるのよ。

そうよ。最初だけは、意識して昔の記憶から<センス>を呼び出す必要があるし、それには正しく努力する必要もあるかもしれない。でも、そこまでいけば、あとは自然とわかるようになるわ。その点では眠りと同じね、意識しないでも使いこなせるようになるわ。大丈夫、あなたならできる。やってみて!


「…ええ、オラクル、うまくいったみたい。彼も解ってしまえば早かったみたいね。一日二日ぼうっととすることもあったけど、前みたいな無表情じゃなくって。うん、見ていると面白かったわよ、にやにやしたり、急にしおれたり。でもね、いまではもう全然ふつうだし、また好奇心ももどってきて、いろいろなことに興味を持ちはじめたみたいなの。口数も増えたし、出かけることもおおくなってきたし。なにより、明るくなったかんじだわ。分かりやすいっていえばわかりやすいわね、彼(笑)。…うん、わかってる。波はありそうだしね。でも、もう大丈夫な気がする。ありがとう、おばあちゃん!また相談するかもしれないけど…。ええ、そのときはすぐ電話するわ。おばあちゃんも気をつけてね。いそがしいみたいだけど、たまにはこっちにも顔をだしてよ、みんな待ってるわ。じゃあね!愛してるわ!バイバイ!」

(2004.5.3)


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2004.10.15 編集