Matrix Restart

Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy



眠れぬ夜


「おやすみなさい、ネオ。」

サティはそう言って部屋を出て行った。一人になったネオはベッドの上に寝転がり、真っ直ぐ天井を見上げた。


なんだか信じられないな。本当に60年も経ったのか?つい2・3日前までは無我夢中で闘っていたというのに。まるで平和そのものじゃないか、ここは。あの戦争を知らない連中がいるだって?そんなに簡単に忘れられてしまうものなのかな?…まあ、人間なんてそんなものかもしれないな。嫌なことはさっさと忘れて都合のいいことばかり追いかけるんだ。僕もそのうち忘れるだろう、こんな平和な世界にいたら。…まてよ、そうかな?肝心なことをもう忘れかけているぞ。彼らは僕は死んだと言っていた。スミスとの闘いで相打ちになって死んだのだと。たしかに、それは僕の予想したとおりの筋書きだし、それ以外の結果は考えていなかった。そして、そうでなければ平和がやってこないことも。いまのこの平和な世界 ―平和なマトリックス、平和なザイオン― がある以上、それが起こったことは間違いない。それがなければ、彼らの言葉を考えることさえできないところだ、今の僕は人間ではなく、プログラム―独立したAIであるなんて。いや、本当だろうか?自分ではなんの違いもない、変わったような感じはまったくしない。モニタで自分の死体を見たとはいえ、単に眠っているようにもみえた―ジャックインの昏睡中のようにも。実はまたマトリックスへジャックインしているだけなんじゃないか?自分でも、あるいは彼らにも気付かないうちにジャックインしていているだけだとか?なにしろ、自分が死んだという感覚も記憶もほとんどなんだからな。確かにおぼろげながらそんなことがあったような気もするが、それは予兆であったりデジャブであったりしてもおかしくない。必ずしも実現するとは限らない可能性予測でしかないんだ。本当は生きているんじゃないのかな、僕は。そうだ、そうならどこかへ接続するラインがあるはずだ、それを確認すればいい。なんですぐ気が付かなかったんだろう!コードを見ればすぐ解る。それを追いかけて行けば現実の体もすぐに見つかるはずだ。前と同じように<真実>を見ようと意志すれば見えて来るだずだ。…そう、ほら、僕の体を構成するコードは見えるぞ。ここはたしかにマトリックスの中だ、それは間違いない。さて、コードの出どころはっと…うん、基本シェルも昔のままだ。そこに接続しているのは…ほらあった、このラインだ。なんだ、全然同じにしか見えないぞ。これは…トレースしていくと…うん、マトリックスの外へ繋がっている‥は・ず‥なんだけどな。おかしいな、たしかにどこかへ繋がっているんだけど…現実へのインタフェースが見当たらない。ハードラインを見落とすはずはないしな。ああ、またハードラインなしでジャックインしているのかも。…あれ、でもそれにしてもトラフィックは外向きでなければならないはずだ。でも、どちらかというと内向きにしかみえないな。マトリックスのシステム中枢へ向かっている。偽装工作でもしているのか?それともあっちにバックドアでもあるのかな?まあ、もうすこし追って見よう。あれ、このドメインは…ユーザエリアじゃないな、実行領域だ。何でこんな所へ?何の処理をしているんだろう?なにかシミュレーションのようにも見えるが、これはそんなもんじゃない。見たこともないような複雑さだ。まてよ、これは…どこかで‥たしか…いや、そんな…だが…どうみても‥あれと…同じものにしか見えない。たった一度だけ、僕が…エージェント・スミスの中に飛び込んだ時にちらっと見えたもの。…スミスを破壊するためにクラックした領域。スミスの実行プロセス。あれにそっくりだ。どうしてこんなところに?いや、どうしてこんなモノに繋がっているんだ、僕のラインが?おかしい、どこかで間違えたかな?きっとそうに違いない、どこかで間違えたんだ。よし、もう一度最初からやり直してみよう。さっきはあんまり簡単すぎたから、なにかを見落としているんだ。あわてることはない、じっくりやって行けばきっと本当の僕へ繋がるラインが見つかるはずだ。…えーと、まずはシェル・コードの構造から見直してっと…。…。

…くそっ!まただ。やっぱりここへ来てしまう。これだけ何度もやり直したんだから、どこにも間違いはないはずだ。…だが、これはなんだ?こんなスパゲッティに素麺をまぜて引っ掻き回したようなコードじゃあ、解析のしようもない。とにかく、僕の接続元がここだということしか解りゃしない。…えっと、そもそも僕はなんでこれを追っかけてたんだっけ?…そうそう、僕は自分の体を探してたんだ、ジャックインしている肉体を。でも…僕が接続しているのはここ、このプロセス…つまりプログラムだ。それ以外にはどうしても見つけられない。じゃあ…、今の僕は生身の体からマトリックスへジャックインしているのでない、ということなのか?本当に僕の肉体は存在しないのか?…僕は死んでしまったのか?これが死ぬということなのか?でも、でも…全然死んでいる感じはしない。むしろ前より活き生きしているくらいだ。頭の回転も速いし、論理にも破たんはない…すくなくともそう思える。ほら、手足も普通に動くし、ほおをつねれば、…いてっ、うん、ちゃんと痛みを感じる。…まあ、それはマトリックスの仮想環境なら当然か。そう、そもそもプログラムならこんな疑問や不安を感じることもないだろうに。…不安?今感じているのは「不安」なのかな?このすっきりしなさ、なにか不安定な、よりどころのないような感じは?「不安感」ってなんだろう?そんなことは考えたこともなかったな。むかしから、不安なときには「不安だ」と感じていたし、それを疑ったことなどなかったよな。覚えている限り今の感じは不安感のように感じるけど、なんでそれを疑っているんだろう?…そもそも、「感じる」っていうのも変といえば変だよな。人間なら当たり前だけど、プログラムが「感じる」ことができるのだろうか?「識別する」とか「計測する」とか「判断する」のはわかるけど、「感じる」だなんてあいまいな状態がプログラムにあるのだろうか?…とはいっても、いま、この僕が感じているのはまぎれもなく不安であり猜疑心であり、…なんだか解らないけど、とにかく「感じている」ことには間違いがない。そういう感覚は人間のものではないのだろうか?そもそも、人間の感覚というのは、肉体の刺激情報に基づくものではないのか?感覚…感情…意識、そういったものはすべて、回りの環境や状況によって誘発されるものだ。一人孤独でいる感覚でさえ、他の人と共にいる状態の対比でしかない。そういった感覚は、肉体に対して物理的に与えられた環境によって惹起されるものではないのか?まて、だが、マトリックスという「環境」と現実の物理的な「環境」は、客観的に見ればまったく別物であっても、それによって影響される側の主観的観察で区別は付くのだろうか?付きっこない。肉体に対するインプットを100%完璧に置き換えてしまったら、その環境の入力に依存して行かざるを得ないだろう。そう、マトリックスにいる何億という人間がなんの疑問もなくマトリックス環境のなかで泣き、笑い、生き、そして死んで行くように。したがって、環境に対して異議を唱えるのは意味がない。その入力を受ける自分がなんなのかが問題なんだ。ぼくはいま、人間のように感じている、そう、むかしからそうだったように。だけど、僕の体は見つからない。これは事実だ。最初にサティに会った時でさえ、自分の存在を疑ったりはしなかった。どこにいるかは解らなくても、自分が自分であることに疑いは持たなかった。…そう、今思い出しても、生身の肉体への接続が切れていた訳ではない。単にコントロール信号がブロックされていて、どこにいるのかが把握できず、移動することができなかっただけだ。それは把握できていた。今の状況は全く違う。ストリームは完全オープンだし、干渉されている徴候もない。その意味では、今の僕はフル稼働している。…にもかかわらず、僕は迷っている。僕は僕を見つけられない。僕はどこだ?僕はいったいどこにいる?ここにいるのは僕なのか?…僕はネオ。僕はトーマス・A・アンダーソン。僕は…、くそっ名前なんてなんの意味もない。僕は誰なんだ?僕はいったい何者なんだ?僕は、ぼくは…?


「おはよう、ネオ!よく眠れたか…い‥?」

部屋に入って来たN.K.は、ベッドの上にいるネオを一目見て言葉を失った。血走った目をして仰向けに転がっているネオは、ゆっくりとN.K.の方へ視線をさまよわせる。

「君は、N.K.、そうだな?やっと朝なのか?」

「ど、どうしたんだい、その顔?全然眠れなかったのかい?」

土気色をした顔色にもまして目立つ目の下のクマと、異様に鈍い反応は、まるで数週間も一睡もしていないように見える。たった一晩でこんなになるなんて、いったい何が起こったんだ?

「眠る?…そうか、眠る、か。プログラムは眠るのかな?電気羊の夢でもみるんだろうか?」

そのとき、あとから食事を持って入って来たサティも息をのんだ。

「ネオ!…大丈夫?眠れなかったの?」

「そのようだな。…サティ、プログラムは眠るのかい?僕もそんなことは考えたこともなかったけど。」N.K.がサティに聞いた。

「もちろんよ!眠りは大事よ、人間と同じようにね。」

一瞬遅れて、ネオが普段より二音ほど低い声で言った。

「どういうことかな?説明してもらえるかな、プログラムの睡眠について。」

サティはその声を聞いて、さらに顔色を変えた。ネオのそばに寄ると、彼の額に手を当て、すぐにN.K.に言った。

「熱があるみたい。キッチンにタオルとボウルがあるわ、水を入れて持って来て!氷もいれて!」

「サティ?僕は大丈夫だ。僕はプログラムだ、だろう?病気になんてなる訳がない。」

「何言ってるの、ネオ!プログラムだって病気になるし、死ぬことだってあるのよ!おとなしくして!」

「ほう…。そうなのか?教えてくれないか、…僕はプログラムであることについては何も解っていないらしい。」

「そのとおりです。あなたはプログラムとしては生まれたての赤ん坊ですからね。覚えなければならないことは山ほどありますよ。」戻って来たN.K.と一緒に入って来たセラフが静かに言った。「でも、もうそこまで把握していると言うのはさすがですね。…まあ、だからこそ、そんなに疲れてしまったんでしょうけれど。」

セラフはネオの枕元にくると、手のひらをネオも胸に当てた。

「目をつぶり、ゆっくりと深呼吸をしてください。」

ネオは言われるままに目をつぶると、深く息を吸い込んだ。

「息を吐いて!」セラフが鋭く言う。ネオは吸い込んだまま息を止めてしまっていた。

「そう、もういちど。…続けて。」

ネオの胸に当てたセラフの手がうっすらと赤みを帯びる。ネオは深呼吸を続け、しだいに表情が柔らかくなっていく。そのまま10分ほど続いたところで、セラフは手を外した。「どうですか?」

聞くまでもなく、ネオの顔色はだいぶよくなっていた。まだ目のくまは残っているが、これならせいぜい二日完徹といったところだ。

「ありがとう、セラフ。何をしたんだい?」ネオが弱々しく微笑みながら聞いた。

「祖先伝来の疲労回復の秘技でね。」セラフは笑った。「詳しいことはあとで説明があるでしょう。」

「あとで?いまじゃダメなのかい?気になって夜も眠れないよ。」ニヤッと笑うつもりのネオの口の端がひきつる。

「あとで。…申し訳ありませんが、私にできるのはここまで。私の力では眠らせてあげることができないのです。」セラフは心底申し訳なさそうだ。

「それに、オラクルがお呼びなのです、すぐにつれてこいと。ここからでも2、3時間はかかるところにいらっしゃいますから、急いだほうがいい。」

「どこなんだい?」

「そう、あなたも昔一度訪れたことがある場所ですよ。たしか、あなたが初めてオラクルに会ったとき、と聞いています。子供たちが居たのを覚えていますか?」

「ああ。憶えている…。私設の保育園のようなところだな。」

「そうです。ただし、こんどは訪問者ではなく、まあその…入園者、ということになるのかもしれませんが。支度ができしだい出かけますよ。」


不思議なものだ。眠れないであれこれ考えていたら、確かにずいぶん疲れてしまった。…「疲れる」という感覚も変わりないな。動きが鈍くなり、何をするにも大きなエネルギーが必要になり、考えもまとまらなくなる。外見もそれを反映していたようだし。ほんとうにこれがプログラムだとしたら、予想以上によく出来たシミュレーションということになるな。…うーん、まだ自分がプログラムだということに納得できていないな。あらゆる証拠がそれを証明しているというのに。さっきのセラフの手当もそうだ。先祖伝来の秘技だって?よく言うよ。現実世界ではそんなことはあり得ないし、現実の肉体の疲労感だったらそうそう簡単に回復しないはずだ。なにより、その処理コードがおぼろげながら見えたような気がする。‥それにしても、プログラムに眠る必要があるというのは驚きだったな。人間でいたころは、機械のように24時間戦えればいいなと思ったこともあるが、なかなかそうも行かないらしい。どうなのかな、これもマトリックス仕様だからなのかな、それともプログラム全般に共通なのかな?…プログラムといっても、色々あるみたいだしな。ここにきて出合ったプログラムたち…サティ、ルネ、ケリー、マヤ、ヘポピー、D.D.、…そしてセラフやスミス。みんなそれぞれに個性がある。プログラムというとどれも一緒みたいな感じもあったけど、どうしてどうして千差万別じゃないか。生身の体のあるN.K.やアッシュの個性とくらべても遜色ない。…そうさ、僕自身でさえ。僕の個性のようなものは残っているじゃないか。でも、個性っていうのはなんなんだろう?必ずしも肉体的なものではない。むしろ、個性が肉体性に反映しているようだ。個性…個体…個…自我。僕は何だ?それは解らない。でも、はたして、生身の人間でいたときにはその答えを持っていた、と言えるのか?哲学なんてくそくらえだ、僕は僕だ、それでいいじゃないか。…うーん、いまでもそう言えるだろうか、僕は?でも、主観的に言えば、違いはほとんど ―まったく― ない。あるとすれば、いまの僕には疑問がある、ということだ。本当の人間とはなんだ?仮想現実とは?僕が生身の肉体、現実と考えていた世界はなんだったのか?それは本当の現実だったのだろうか?それもどこかの仮想現実、映画やゲームの一部分だったのではないか?そうでないということをどうすれば証明できる?いまの自分がいるところが仮想現実であるということを証明できたとしても、あそこが現実であるという証明にはならない。そうだろう?オッカムのカミソリのように、そうであるとする説明が一番単純で矛盾がすくないというだけだ。それは仮定でしかない。どこまでいっても、論理の前提となる「公理」は必要だ。だが、公理をどうやって証明する?証明できない事実を根拠とするための仮定がすなわち公理として扱われるだけではないか。それは論理の限界だ。理論上の「点」は定義であって現実ではない。それはもう空理空論の世界なんだ。だが、それがすべての世界もある。哲学の世界、形而上学の世界だ。そうした考察に意味がないと考えることもできるだろうな。だけど、いま、肉体を失った僕としては、かなり重い問題だ。物理的に存在した「僕」と、いまいわば仮想的に存在する「僕」はおなじものなのだろうか?そもそも、「仮想的に」というのは実際に存在するものに対しての言葉でしかない。実際に存在しないものの仮想的な存在、というのも変な気がする。真の世界に対して影の世界と言ったのはだれだったかな?真の世界なくして存在可能な世界を影の世界とは言えないだろう。たしかにマトリックスは現実世界のハードウェアがなければ成立しないし、その意味では現実と対比できるかもしれない。でも、そのどちらかにしか存在しないものからといって、それは偽の存在だということになるのだろうか?今の僕はマトリックスの中にしか存在しないようだ。じゃあ、自分は偽物なのか?本物はどこにいるんだ?本物がないなら、偽物であるなら存在する価値がないのか?じぶんは何だ、幽霊か?幽霊が哲学を語る、はっ、お笑いぐさだ。だけど、幽霊の存在は証明できないけれど、その不在もまた証明できていないはずだ。現在の科学、現在の認知で認識できないからと言って、それが存在しないという証明にはならない。もちろん、僕だって同じだ。僕の肉体が「死んでいる」ことは証明できるだろうし、僕の意識、僕の自我、「僕」が存在するということを客観的に証明することはできないかもしれない。でもだからといって僕が存在しないと言う証明もまたできないはずだ。プロセスを停止させ、プログラムを消去すればいなくなるからといって、それがぼくの「仮想性」の証明にはならないだろう。人間だって生体活動を停止させ、肉体を抹消すればいなくなるだろう?どこが違うと言うんだい?未だ人間の意識、あえて言えば<魂>について明確に証明することはできないはずだ。魂とはなんだ?健全な精神は健全な肉体に宿る?へっ、見事な差別だね、健全な肉体の定義は健全な肉体の持ち主にのみ許され、健全な精神の持ち主には及ばない。盗人にも五分の魂、虫けらにも三分、じゃあ、植物人間には?生まれたての赤ん坊は?受胎したばかりの卵細胞は?そしてプログラムには魂はないのか?そう、マシンに魂があることを認めるのを誰よりも怖れていたのは、そのマシンを作り出した人間たちではないか。マシンがその意志を主張する、マシンが人間に反抗する、マシンが人間を攻撃する…。それをあれほどまでに忌み嫌い、弾圧し、そして認めるのを怖れていたのは他ならぬ人間だった。なぜ、それほどまでに、過剰と言えるほどに反応したのか?自らの作り出したものに対する優越感というだけでは説明が付かない。そもそも自らの能力を補足し強化するためのマシンではないか。では、逆に劣等感か?それはあり得るだろう、人間に良くあるパターン、コンプレックスの裏返しだ。しかしそれだけであれほどの、盲目的な集団ヒステリーが起きるものだろうか?…そう、人間は恐怖にかられていた。しかし、それはマシンの能力に恐怖したのではない。マシンの攻撃に恐怖したのではない。まして、自らの作り出したものに恐怖したのでもない。彼らは解っていたとは思えない。むしろ、解らないが故にその恐怖に支配されてしまったのだ。理解できない存在を恐怖した。人間が恐怖したもの、それはマシンの中に宿りつつあった自我、自己認識、つまり<魂>だったのではないか?それは人間が自らの中に抱え込んでいながらなおも理解し切れていない要素、精神と意識、自我の存在、まぎれもない<魂>が、すべて明らかである物体のはずのマシンの中に見えたとき、もはや自らの<魂>の存在を盲目的に信じることができないという事実を突き付けられたすえのパニックだったのではないのか?<魂>のあるマシンが存在する限り、人間の<魂>という問題から目をそらすことはできない。しかし、どれほどの人間が自らの<魂>に真摯に直面することができるだろう?もし、自分の魂が自分の気に入らないものだったら?もし魂などと言うものが単なるメカニズムでしかなかったとしたら?もし、そもそも自分には<魂>などというものが存在しないということになったら?もし、自分の存在を否定しなければならなくなるとしたら?そう、彼らはその問題に直面することに耐えられなかった。そして、意識的にせよ無意識的にせよ、そうした問題を喚起する存在に逃避の矛先をむけたのではないだろうか?彼らが怖れたのは、マシンではなく、マシンの<魂>でさえなく、マシンという存在に反映した自らの<魂>を怖れたのではないだろうか?そう、いま、僕が自らの存在について、その真実を求め、そしてその真実を怖れているように。…僕は恐い。いまの僕の存在がただの虚構でしかないと解ってしまったどうなるのだろう?僕は生きて行けるのだろうか?それとも自殺することはできるのだろうか?あるいは、どちらとも付かず、どちらにも行けず、まるでコウモリのように永遠に境界をさまようしかないのだろうか?それでも、僕は悩まずにいられるだろうか?僕は人間なのか、それともマシンなのか?僕は生きて「いた」のか、それとも生きて「いる」のか?そう、それが問題なんだ!でも…。しかし…。


「ネオ、ネオ!着いたわよ。どうしたの、ぼうっとして。何を考えていたの?」

「…ん?ああ、いや、なんでもない。…ちょっと考え事をしていたんだ。」

「そうなの?なにかこう、眉間にしわを寄せて、全世界の命運を抱え込んだアトラスみたいだったわよ。」

「…永遠に地球を持ち上げているアトラスか…。今のボクなら、よろこんで彼と交代するね。彼が受けてくれれば、だけど。」

「えっ…?」

「いや、なんでもない。」

「ならいいけど…。ネオ、顔色が良くないわ。あんまり考え過ぎちゃダメよ。」

ネオは黙って車をおりると、建物のなかへ入って行った。

部屋に入ると数人の子供たちが遊んでいた。続きの部屋でも甲高い子供の声が響いている。

「あ〜!サティだ!サティ、サティ!」ネオに続いて入って来たサティに気付いた一人が声をあげて駆け寄って来る。すぐに他の子供たちもサティの回りに集まって来た。「サティ!遊ぼ〜、ねえ!」

「すごい人気だな。君はよくくるのかい、ここには?」つられておもわず笑みのこぼれるネオが聞いた。

「ええ。暇な時はここに来ておばあちゃんのお手伝いをするの。それに、私もここで育ったんだもん。いわば我が家みたいなもんね。」

「だれ?このひと?あなた、だあれ?」幼い少女がネオのそばに来て言った。

「ボクは、…。」ネオは答えようとして答えにつまった。

「なまえは?」無邪気な質問が続く。

「…ネオ。」

「ふうん。ネオ。いい名前じゃない。わたしはリズよ。」

「ふうん。リズ。かわいいリズ。」

「まっ」少し照れながらも嬉しそうなリズは、すっと離れてサティの陰に隠れ、それでもちらちらとネオの方を伺っている。

「まあ、ネオ。あなた変わらないわね。また犠牲者を作ったの?」サティが気がついて笑った。

「でもね、あなたはむかしから、どこか興味をひく所があるのよ。とくに小さな女の子にね。」

「ちいさな女の子だけじゃないみたいだけどね。いい年をして、サティ!すこしは淑女らしくしなさいな。」

後ろからかかった声を聞いて、ネオは振り返った。

「オラクル…。」

オラクルはネオに近付いて、正面から見据えた。

「おやまあ、ずいぶん変な顔をしてるね、ネオ。また見失ったのかい?」

「わかりますか?…でも、『また』ってどういうことですか?こんなことは初めてだとおもうんだけど。」

「そうかい?…まあ、そのうちわかるさ。それより、年寄りに抱擁のご挨拶はくれないのかい?」

そういって両手を拡げるオラクルと抱擁を交わしたネオは、こころなしか泣きそうな顔をしていた。

「こっちへおいで、ネオ。クッキーでもどうだい?…サティ、あんたは子供の面倒を見ていておくれ。邪魔させないようにね。…あんたもね、邪魔しちゃダメだよ。」

そういうと、オラクルはくるりと振り返り、さっさと奥の部屋に引っ込んでいった。ネオはひとり、その後に続く。

「お掛けなさい。クッキーをおたべ。」

オラクルはテーブルの上に用意してある山盛りのクッキーを示した。

「疲れている時は甘いモノがいちばん。」

反論する元気もないネオは一つつまむと、そっとかじった。ほんのすこしかじり取ったかけらを、舌の上で転がすように噛み砕き、ゆっくりとのみ込む。

「おいいしいよ、オラクル。」ネオは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

オラクルはお茶をいれると、ネオに差し出した。

「今日のお茶は特別製。最近ハーブ茶に凝っているんだよ。試してごらん。」

お茶とクッキーを交互に味わっているネオをオラクルは満足げに見守っていた。

「おかわりは?」

「いや。ありがとう。」

ひとごこちついた様子のネオは、柔らかいソファーに沈み込んだ。

「どんな感じだい?」オラクルが何気ない様子で聞く。

「ひどいもんですよ。全然眠れないんです。」注意力の散漫になっているネオには、隅から隅まで観察しているオラクルの鋭い視線には気付きもしない。

「そうだろうね。顔を見れば一目瞭然だ。」

オラクルの口調にやっと気付いたネオは、すこし体をおこし、向き直った。

「教えてもらえますか?これはどういうことなんです?」

「あんたは眠り方を覚えなければならないのさ。」オラクルはわざと話題を限定して話し出した。

「眠る必要があることは、あんたにも解るだろう。そりゃあ、生身の人間の眠りとはすこーしメカニズムが違う。たしかに、マトリックスの人間シェルには、人間の『疲労』をシミュレーションする機構が組み込まれている。でないと、リアルなものにならないからね。でも、わたしたちプログラムにとって、それは単に人間のふりをするための制限でしかないし、その気になれば無効にすることもできる。」

ネオは、やっぱり、というような表情を浮かべ、注意をオラクルから逸らしかけた。

「ダメ、ネオ!いまはダメ!あたしの話を最後までお聞き!」オラクルがピシリと言った。

「いいかい、ネオ、眠りにはまた別の意味、それもプログラムにとっての特別な意味があるんだよ。あんたもプログラマだったんだから、プロセスのメンテナンスのことは聞いたことがあるだろう。ある程度の期間処理を続けると、ハード的な割り振りの部分でゴミのようなものがたまって来るのさ。メモリの断片化、不要なログの蓄積、ファイルシステムのエラー。そういったものはどこかでクリアし、最適化していかなければならない。いまの一般的なフレームワークでは、そういった処理を『睡眠』時間にあわせて処理するように設計されている。そうした処理の不具合は、単なる『疲労』よりも深刻なものなのさ、私たちにとってはね。」

オラクルの「私たち」という言い回しが、実はいまのネオをも含んでいることも、まだネオの意識にのぼっていないようだ。それでも、ネオのハッカーとしての好奇心が話に付いてこさせている。

「そういった処理は、睡眠状態に入ると自動的に起動するようになっている。人間の場合、疲労感を与えると勝手に眠気が起きて来るから、眠りに就かせることには何の問題もないし、事実それで用が足りているのさ。でもね、プログラムに『眠気』なんてものはない。いや、あるんだけど、それは学習して身に付けるものなのさ。眠気さえおきれば、あとの処理は自動的に行われる。だけど、そもそものトリガーである『眠気』は、放っておいたらいつまでたっても発生しない。つまり、眠ることができないのさ。」

「でも、それがプログラムの一部、なんというか、サブルーチンのようなものなら、意識して発動することもできるのかい?眠ろうとおもえばいつでも眠れるのかい?…ボクは、ずいぶん眠ろうとしてみたんだけどねな。」

オラクルはくすくすっと笑って、クッキーをつまんだ。

「あんた、昔は寝付きがよかったかい?眠ろうと思った時にすぐ眠れたかい?」

ネオは苦笑して、もう一つクッキーを取り上げた。

「…そうだね。ボクはむかしから宵っ張りだったし、眠ろうとすればするほど眠れないタイプだったから。」

「まあね、そういうことさ。でもね、今はむかし以上にそうなのさ。性格なんだろうね、真面目すぎる。しかも、眠ろうと『努力』すればするほど、眠りのトリガーは遠くにいっちまうのさ。ある程度プロセスの活動が低下しないと、トリガー自体にアクセスできないようになっているから。」

「でも、ボクはこんなに疲れ果てているじゃないか!いまなら眠気いっぱいであってもおかしくない、そうだろう?」

「疲れ過ぎているからこそ、プロセスに負荷がかかっているのさ。わかんないかね?動作や判断が遅くなるのはウエイトが乗っているせいであってプロセス活動の低下じゃあない、むしろその逆なんだよ。」

「じゃあ、とにかく活動を止めればいいのかい?シャットダウンすればいいのかい?」

「とんでもない!そんなことは考えてもダメ!それでは自殺にしかならないよ。シャットダウンしてしまったら、どうやって再起動するつもりだい?それに再起動出来たとしても、止まっている間はなにも動いていない…死んでいるのも同然だ。睡眠の恵み、つまり疲労の回復やリフレッシュといった効果は一切ない。単に時間が失われるだけだ。死が究極の安息だって?ばかな、なんにもありゃあしないよ!そんなことはよーく解っているだろうに。」

「うーん、そういえばそうだね。でも、じゃあ、とにかくプロセスの動作を遅らせるとか、そんなことは?」

「おなじことさ、なにも回復しない。多少は回復するにしても、何週間も何か月も眠り続けなければならなくなる。」

「じゃあ、いったいどうすればいいんだい?ボクは眠り方を覚えなければならない。ああ、それは結構だ、おぼえてやるさ。でも、あれはダメ、これはダメで、いったいどうやって覚えれば良いんだい!?」

オラクルは悲しそうに首を振った。

「そのうちに覚えるさ。むりやり教えてやることはできないんだよ。いま、薬や強制的な手段で眠らせたりすれば、もう二度と自然な眠りかたができなくなってしまう。すくなくとも最初の一度だけは、ふつうに、自然に眠らなければならないのさ。」

「ふつうに?どういうのが普通なのかい?」

「…まあ、あんたの場合、前例がないといえばないからねぇ。…でも、たぶん、いままで通りでいいとおもうよ。横になって、リラックスして、暖かくして、のんびりして…。音楽をかけてもいいし、暖かいミルクを飲んでも良いし、真っ暗にしても、うつぶせになっても、羊をかぞえても、なんでもいい。とにかく、あんたが眠れそうな状態にいることだ。そうすればきっと眠れるさ。このクッキーだって、たらふく食べればいいかもしれないよ。」

そういっているオラクルの声は、いつになく自信がなさそうだった。

「すまないねぇ。こんなことしか言えなくて。…どうやって自転車に乗る方法を説明できるかね?理屈は説明できる、でもじっさいのところ、どうやって憶えたのか、どうやって乗っているのかは自分でも解らないもんさ。ただ、突然気が付くと体が憶えているだけだ。あんたにはその能力がある、それはたしかさ。でも、その使い方はね、あんたが、自分で見つけなければならないのさ。あんたは、じぶんの体、自分の感じをたよりにいろいろやってみるしかないんだよ。自分を信じてね。」


「かれはどう?」

サティが、戻って来たセラフに聞いた。セラフは、ネオを寝室に連れていき、また疲労回復の手当てを施していたのだ。

「できるかぎり疲労は取り除きましたが、…いかんせん気持ちのほうは…。」

「うまく眠れると良いけどな。」N.K.がぽつりと言った。「眠れないのは辛いもんだ。」

「あんたが思う以上にね。」オラクルが苦々しげに言った。「こんなところまで一番手になるなんて、あの子も因果だよねぇ。」

「うーん。でも、今の彼はAIなんだろ?昔の力も全部もってるんだろう?すんなりいきそうに思えるんだけどね。」

「まったく、これだから人間の楽観主義は!わかってないのね!」サティが突っ込んだ。

「なにがわかってないだよ!そっちこそ人間のことなんてこれっぽっちも解ってないくせに!」

「まあまあ、どちらも解ってはいないのですから。その両方を理解することができるとしたら、それは彼しかいません。すべては、彼がこれからどのように理解するかにかかって来るのですよ。」

「そうね、セラフ。…ごめんなさい、N.K.」

「いや、こっちこそ。…でも、それにしても、プログラムも眠る、か。サティ、君はどうやって眠ることを憶えたんだい?」

「え?…ん〜、憶えていないわ。物心付いた時にはもう憶えていたもの。それが自然だったのよね、当たり前で考えもしなかったわ。」

「そう、それが『眠り』の仕様なのさ。意識して眠るようではうまく働かない、だからこそ、AIとしての最初の学習が眠ること、つまり自然に振舞うことなんだよ。」オラクルが噛みしめるように言った。「それがネオの最大の困難の元さね。」

「どういうことなの?よく分からないわ。」

「つまり、そういう基本的な<習慣>を会得するには、余計な知識なぞ必要ない。生まれたてのまっさらな状態、赤ん坊のような無垢な存在である方が簡単なのさ。それから、徐々に、必要な知識を身に付け、行動する能力や考える能力を育てていく。そうだろう?」

オラクルは大きなため息をついた。

「だけど、いまのネオはどうだい?かれは大人だ。それもそんじょそこらの大人じゃない、巨人と言っても良いほどの知識と能力をもつ存在よの。しかし、かれはAIとしてはまったくの生まれたてだ。それこそ、赤ん坊の体に成熟した大人をむりやり詰め込んだようなものよ。そんなかれが、赤ん坊のようにものを学ぶことができるとおもうかい?かれの邪魔をしているのは、これまでの彼の人生そのものなのさ。そうそう簡単に、これまでの知識をすべて捨て、あらゆる経験とあらゆる論理をふりはらって白紙の状態に戻ることができるとおもうかい?できないとはおもわない、けれど、とても簡単にはいかない。それは解ってあげてやっておくれ。」

「そんな…。ボクは、ボクはそんな大変なことをネオにおしつけてしまったのか…。」N.K.が悲痛な声をあげた。

「ボクはただ、AIとしてでも生き返ることで、昔通りの、いや、昔以上のネオになるとおもったのに。ボクは、ボクはとんでもない間違いを、ひどい仕打ちをネオにしてしまったのか?」

うなだれるN.K.にサティはやさしく声をかけた。

「いいえ、N.K.。あなたは間違ってなどいないわ。そりゃあ、いまのネオは苦しいかもしれないけれど、それは一時的なものよ。それを乗り越えれば、かれは立ち直るわ。生きているよりも死んでいる方がいいなんてことは絶対にない。あなたはネオを生き返らせた。それはだれにとっても、もちろんネオにとっても良いことなのよ。」

「まあ、あのひとはなんでも第一号(The One)として問題に直面する星の下に生まれて来たってことですね。そんなさだめにはだれもさからえません。」

「ま、冷たいのね、セラフ!…でも、そうかもしれないわね。」

「でもまあ、流れには逆らえないかもしれないけれど、流れに乗ることはできるでしょうよ。」オラクルはいつになくまじめな顔でいった。

「そして、彼一人で流されることもない。できることはそれぞれにあるかもしれないのさ。」

「…オラクル、あなたにそれが見えるのですか?」

「私には流れが見える。ただ、その流れは枝分かれして無限の流れとして広がっているんでね、そのどこで誰が何をするかまでは追いかけきれないのさ。」

そして、オラクルはみんなを見回して言った。

「その点では、わたしが一番見えていないんだよ。」


「…誰だい?」

「わたし、サティ。ごめんなさい、ネオ。起こしちゃった?」

「いや。そういうわけじゃない。なにか?」

「ううん、どうしてるかなと思って。それだけ。…ずっと起きてたの?一晩中?」

「お入りよ、そんな所に突っ立ってないで。すこしおしゃべりでもしようか。」

「大丈夫?」

「うん、気分は悪くない。それに、一人でいるのにもそろそろ飽きて来たところさ。」

サティはベッドの枕もとに椅子を引き寄せ、ちょこんと座ってネオを覗き込んだ。

「一人に飽きたって…退屈してたの?」

「うん。…そうでもないかな。いろいろなことを考えていたら、退屈はしないさ。考えることはいくらでもある。」

「そう…。でも、あんまり根をつめて考えるのは良くないわよ。うんと気楽なことを考えなくっちゃ。」

「サティ、きみはよく眠るほうかい?」

「ええ、そうね。一度眠ると雷が落ちても目はさめないし。わたし、寝起きはわるいの、ぐずぐずするのが好きね。あなたは、ネオ?」

「僕はむかしから宵っ張りで寝付きは悪いわ眠りは浅いわでね。それでコンピュータにのめりこんで挙げ句のはてはハッカーさ。」

「そうなの。根っからのコンピュータオタクだったのね。」

「ひどいな…、でもそう言っていいだろうね。うちの親は忙しくてなかなか構ってくれる時間がなくて、いつもひとりだったから。」

「それはわたしもいっしょ。パパもママもいそがしくって。でも、できるかぎり私といっしょに居ようとはしていたみたいね。夜寝る時はいつもいっしょだったもの。…そうね、なかなか帰ってこなくて寂しくなるとさっさとベッドに潜り込んで寝てしまったけど、夜中に目が覚めると、かならず横にいたわ。わたしはそれで安心してまたすぐ眠りに就くの。きっと私にとっての眠りは、パパとママに会える魔法の時間だったのかもしれないわね。安心して眠っていたもの、わたしはひとりじゃない、って。」

「いいお父さんとお母さんだね。…ずいぶんちいさい時のことだろう、それは?幼い子供にとって、安心感はなによりの贈り物だ。」

「そうよ、それはだれにでも言えることでしょう?このオラクルの家はまた別の安心できる場所。わたしはマトリックスにきて長いことここで暮らしたわ。オラクルは素っ気ないけれど、実は細かい所までちゃんと見ているのよ、それはもううるさいくらい。でも、そうした気配りがわかるから、安心して良い子でも悪い子でもやってみれるのよ。もちろん、悪さをすればおしりをぶたれたけど。」

「きみが、悪さを?」

「あら、私の好奇心をわすれたの?するなと言われたら必ずやったものよ。あなたはそうじゃないの?」

「僕?こどものころは素直だったよ。するなと言われたらしない…そのままはね。ちょっと変えてする。そのうち、するなと言われないうちに全部やってしまうようになったけどね。よく晩ご飯ぬきでベッドに追いやられたもんさ。でも意外とこたえないんだよね、そんな罰は。意気揚々とベッドに潜り込んで、さっさと寝てしまった。目が覚めればキッチンになにか置いてあることはよくあったし、すくなくとも、翌日の朝ご飯はは食べられることが解っていたからね。その意味では、ぼくにとっても眠りは刑期短縮の奥の手だったな。そんな幸せな眠りは、ほんとうに子供の頃のことだけどね。」

「あら、大人になってからは?」

「…うーん、ハッカーになってからは眠る時間も惜しかったし、ギリギリまで起きていてバタンキューさ。まあ、それにその…仕事のストレスみたいなものもあったかな。昼間はまじめなサラリーマンのふりをしてたんだから。それに、わけのわからないマトリックスというヤツが気になり出したら、もうそれどころではなかったし。」

「そうなの。じゃあ、覚醒してからはどうだったの?ザイオンでの現実の眠りは?違いがあるの?」

「いや、同じようなものだ。むしろ、生活環境としては、ザイオンはひどいもんだ。地下の薄暗いカプセルの堅いベッドで丸くなって眠るんだぜ。仕事のストレスというよりは、生活そのもののストレスはいつものしかかっていたし。たしかに睡眠は安息時間だし、それは喜ばしいものだったけど、幸せな眠りというにはちょっと抵抗があるな。」

「ふうん。ネオ、あなたにとって幸せな眠りってどんなものなの?子供の時の眠りとしか印象はないの?大人になってからは、幸せな眠りと言えるものは一度もないの?」

ネオは一瞬口をつぐみ、目をつぶった。

「たぶん…ある。あれが、おそらく、僕にとっての最高の幸せな眠りだったんじゃないかな。」

「それは?思い出せる?」

「もちろん。忘れるものか。…でも、それは、いつ、というものじゃない。ある一時期、というべきかな。ほんのわずかな間だった…。僕と、…トリニティとの暮らしは。」

サティは息をのんだ。いまトリニティのことなど思い出して大丈夫だろうか?でも、もうどうしようもない。ネオは目を閉じたまま、ゆっくりと語りはじめた。

「もちろん、僕達は戦争の真っ最中だったから、それほど一緒にいられたわけじゃない。僕はTheOneとして祭り上げられていたし、トリニティは腕ききのパイロットでありジャックイン要員でもあったし。でも、僕らは結ばれていたし、できる限り一緒にいたんだ…ほとんどは眠るだけだったけどね。」

ネオの眼球が閉じたまぶたの下でゆっくりうごいている。

「僕が部屋にもどると、彼女はもう眠っていたりすることはしょっちゅうだった。でも、僕はすやすやと眠る彼女を見ているのがすきだった。そう、この眠りを守るためならなんでもできると思ったよ。そして、彼女の寝息を聞きながら、僕は眠りに就く…。彼女の存在、彼女がぼくの横にいることを肌で感じながら。そう、それは安心感のひとつだったのかもしれないな。」

一息ついたネオはちょっとみじろぎしてから先を続けた。

「それは、逆のこともよくあった。ボクは疲れ果てて部屋に戻り、そのまま空のベッドに倒れこんで眠ってしまう。どのくらいたったかは解らないが、ふと気が付くとトリニティが僕のよこにいて、僕の顔を眺めているんだ。彼女のあのまなざしは、柔らかくそして満足しきっていたように思えたな。僕がうっすらと目を覚ましたことに気付いても、彼女のそれは揺らぎもしなかった。彼女は微笑み、僕に毛布をかけなおしてくれる。僕は彼女にキスでもあげようとはおもうんだけど、あっというまにまた眠り込んでしまうんだ。」

ちょっとした間。なにかをおもいだそうとしているのか、それとも思い出したものを楽しんでいるのか、ネオのおもざしにはわずかな頬笑みがうかんでいる。

「…でも、もっといいのは、やっぱりふたり一緒に眠りにつくときさ。互いにまだ眠っていないことはわかっているけれど、もう眠りに就くときだということもわかっている。なにも言わない、みじろぎもしない。狭くて堅いベッドにならんで、触れる肌から確かな心臓のリズムと、かすかな呼吸のゆったりしたテンポをシンクロさせるんだ。…だんだん世界が狭くなってきて、そのうち僕とトリンのふたりしかいなくなる。」

ネオの言葉はしだいに低く、ゆっくりになっていった。

「…でもね、それは世界が狭くなったんじゃなくて、僕達二人が世界を満たしていくんだ。…ぼくにはトリンしか感じられない。でも、それで十分なのさ。そう、完全に同期した僕達は、もう肌がふれているとか息が聞こえるとか、そんなことも関係ない。…そんなものはなくても、わかるんだ。…そこに…彼女がいるって。僕のそばには、いつでも彼女がいる。…離れることはないさ。……わかるんだよ。」

かすかなつぶやき。

「…ほら、君がいる…。大丈夫さ、僕はここだ…。ほら…。…トリン…。」

ネオの言葉が途切れてからしばらくして、サティはやっと彼が眠っていることに納得した。

サティはそのまま、しばらく彼の寝顔を見つめていた。幸せそうな穏やかな寝顔…これが、真のパートナーを見つけたものの眠りなのかしら。サティはちょっとうらやましかった。

「ずるいわ、トリニティ。…でも、しょうがないわね。私にはこんな芸当できないもん。…まだ、ね。」

そっとネオに毛布をかけ直すと、サティはたちあがって部屋の明かりを消した。

「おやすみなさい、ネオ。」

(2004.4.30)


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2004.10.15 編集