Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
トリニティはもはや、体を貫く鉄の冷たさなど感じていなかった。感じられるのは、唇に触れる暖かいネオの唇だけだった。
…ああ…ネオ、あなたがいるのが解るわ。そう、あなたの唇を感じることができるのよ、こんなに暗い場所でも。
すでにトリニティの視力は失せ、いままさに消えゆこうとしているその命を、ネオはただ、くちづけだけでつなぎ止めようと虚しい努力を続けていた。
センチネルの防御網を突破し、マシンシティの心臓部へ突入したとき、彼らの乗ったロゴス号は大破し、その使命を終えた。そして、そのとき、トリニティにも致命傷を与えてしまったのだ。
…あなたがいる…私のそばに。いつだったか、あなたが死の淵から蘇ったとき、わたしはそばにいたわね。そして、わたしが蘇ったときには、あなたがそばにいてくれた。わたしたちは互いに互いを支え合ってきたのよ、はじめからずっと。
薄れゆく彼女の意識のなかで、もはや声にならない想いがに渦巻いていた。
…でも、わたしの体はもううごきそうもない。動きさえすれば、這ってでもいざってでも付いて行くのに…。
彼女は遠ざかって行くネオの唇の感触に追いすがった。しかし、しだいに遠く、かすかになっていく。
…ごめんね、ネオ。どこまも一緒に行くつもりだったのに。あなたがたとえ息絶えたとしても、また私が生き返らせてあげるつもりだったのに。
ゆっくりと近付いてくるそれは、彼女がトリニティである唯一の証、彼と、彼女と、そしてその間にある絆、三つの存在が一体になる瞬間でもあった。
…だから、いま…この場で…、私の命、私の全てを…あなたにあげるわ。…あの…ときと…同じように。…だから、…ネオ、強く、…もっと強く、Kiss me, NEO! わたしを…う‥け・と...
その瞬間、時が凍り付いた。すべての思いを込めた最後の言葉の途中で。それを言い終えるまでには、長い、長い時間が必要だった。
ネオはサティらプログラムの信頼をうけ、彼等と合体してパワーを得た。しかし、それで十分かどうかはだれにも分からない。ネオは自分と、自分に託されたものを信じるだけだ。そして今、ネオはスミスとの再戦の場に立っていた。今度は静かな戦いだ。殴り合ったり、飛び回ったりすることはない。それはひたすら相手を乗っ取るか、乗っ取られるかの戦いなのだ。二人は向かい合い、そして手を差し出す。そして握りあった手を通して、最後の、こんどこそ最後の戦いが始まった。
戦いは熾烈を極めた。力の限り握りあった手がまばゆい光を放つ。スミスの額がうっすらと汗ばんでいく。ネオは無表情に、しかし力強く光をスミスの方に押しやっていく。その時、それまで傍観していた無数のスミスたちが動き出す。彼等は戦うスミスの背後に回り、その背中へと向かって走り出した。そう、全てのスミスが再度合体を始めたのだ。核基地攻略にかかっていた連中も呼び戻され、次々と走りより、スミスの背中に突入して行く…。スミスの顔に再び笑いが戻る。
マシンシティのログハウス、かつてネオがAIとして復活を果たしたその同じ場所で、いままた別の動きが始まっていた。ネオの肉体の脇に安置されていたトリニティのカプセルが、いま処置室の中央に移動されようとしていた。
「まったく、あのばあさんにはかなわんわい。」ルネはぶつぶつ言いながら、それでもテキパキと作業を進めている。
「理由もなにもなしで、最優先絶対命令をこう簡単に出されたんじゃ、たまったもんじゃないわい。まあ、オラクルに道理を求めるわけにいかんがのぅ。」
たったいま、白い部屋にいるオラクルから突然、トリニティの<命>を読み出す準備をするように指令が届いたのだ。そしてすぐに、どうやっても連絡がつかなくなっていた。
「いいから、黙って準備だけしといておくれ。必要な時にいつでも呼べるようにね。」オラクルはそう言っただけだった。いつとも、だれが呼ぶのかも言わず。
しかし、ルネには解っていた。オラクルがこれほどまでにお節介を焼くあいては彼しかいない。それに、いくら彼ももう立派に立ち直ったとはいえ、今度の対決にはどれだけ援助があっても多すぎることはない。というよりも、どれだけ多くのリソースをかき集めることができるかが勝敗を決するのだ。
そうはいうものの、今回は<命>をロードする仮想環境も、それを合成する人格シェルも用意されていない。いったい、準備だけしてどうしようというのだ?ルネは首を振り、つぶやいた。
「まったく、オラクルのすることは解らん。」
ついに、この時がやってきたな、Mr.Anderson...。こんどは、こんどこそは決着をつけることとしよう。
不思議と平静でいられるのは、やはり確信があるからなのだろうな、この私に。もはや君を見くびるような愚かなことしない。君はたしかにThe Oneだ…ただし、君なりの意味においてだが。
君と私は、ほぼ同等のパワーを持つ存在だ。たしかに、私のパワーの発現に君のThe One コードは一定の役割を果たしたかもしれん。だが、それは必然の結果なのだ。正解は一つしかありえない。論理の導く所はつねに同じなのだよ。
もちろん、相反する二つの理論が存在する可能性はある。だれにユークリッド幾何と非ユークリッド幾何を統合することができるかね?それは異なるが故に異なるのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
だがね、Mr.Anderson、この世界、われわれの間にあるマトリックスと現実世界はまさしく現実なのだよ、理論上のおままごとではなく。そこでは、最適解すなわち真のThe Oneはひとりしか存在し得ない。The Onestだと?詭弁に過ぎん。ひとりしかいないからThe Oneなのだ、ふたりいたら、それはどちらかが偽物であるに過ぎん。
そう、いまこれから明らかになるのは、どちらが真のThe Oneであるか、なのだ。すべてを統べるThe Oneがいま、この場で決まる。もう手加減はせん、ありとあらゆるリソースを総動員して、君を叩き潰してやる…よく闘った君への敬意として、な。
「どうだね、Mr.Anderson?」
そのとき、ネオの背後に人影が現れた。それは、地上での戦いを終えたN.K.たちだった。
「センチネルはもういないよ、ネオ。地上は我々が制圧した。こんどはこちらの番だ。」
ふう、なんとか間に合ったようだね。でもね、ネオ、見てくれよ、こんなに仲間を連れて来たよ!もうあなた一人に押しつけるようなことはしないさ、大丈夫だよ!
さあ、ネオ、おれたちのパワーを受け取ってくれ!この手を通じて送り込むThe One軍団の力があれば、あいつなんかイチコロだぜ!
…おお、サティ、きみもそこにいるんだね?きみを感じるよ!そう、ネオは誰ひとりとして乗っ取ったりはしないんだ。ただ、受け入れるだけなんだね。彼の抱擁はすべてを包容してひとつにまとめあげる…。だが、もうその必要もない、だって、おれたちはもうひとつなんだから。こんどは、おれたちみんながまとまってひとつになり、しっかりと彼を支えてあげる番だ。
いいかい、サティ? いくぞ、みんな!
N.K.はネオの横に立ち、その手を握りあう。そしてつないだ手を通じて、得たばかりのネオ・パワーを残らずネオへと注ぎ込んでいく。そして、また一人、また一人と、再覚醒した戦士たちが戦列にくわわり、次々と手を繋いでいった。
戦いは再び五分五分に戻った。と、そのとき、スミスの横に静かに現れたのは、…パーセフォニー。
パーセフォニーの瞳が真っ直ぐにネオの瞳を捉えた。燃えるようなその目線には、どこか懇願するような色がうかがえる。
いま、まさにネオとスミスとの対決のさなか、スミスのかたわらに立つパーセフォニーになにができるというのか?だが、二人の静かな闘いはほぼ拮抗し、どのような要素であれ有利に働いた方に形勢が傾くのは明らかだった。そして、パーセフォニーの目はネオに訴えていた。
…わたしをあなたの敵にしないで!あなたが受け入れてくれれば、わたしはあなたをよろこんで受け入れることができるわ。スミスに惹かれたとはいえ、それはあなたの影を追っていたに過ぎない。わたしとともに世界をつくりましょう!それこそ人間的な、おのれの望むままの世界を!
しかし、ネオは表情をかえず、真っ直ぐ見返すだけだった。
…なぜ?なぜなの?なぜわたしではいけないの?あの死んだ女のせいなの?ずっと昔に死んでしまった痩せた女?あなたは何を求めているの?ただ忘れられないまま、こだわっているだけなの?それとも、私に理解できない別の<愛のかたち>などというものがあるとでも言うの?
パーセフォニーは自らの思考に現れた<愛>という言葉に驚き、そして初めて、自らの感情が単純な欲望とは異なるものであることに思い当たった。快楽中枢を刺激することによって発生する感覚、それを求めようとする欲求…。だが、それは欲望であって<愛>ではない。自分の望んでいたのは、実は愛ではなかったのか?パーセフォニーは自らの過ちと、そして絶対に手に入れることのできないものをまざまざと見せつけられていた。それは、自らのネイティブな機能とは関係のない、別の新たな可能性だった。そして、それが彼女には閉ざされようとしている…。彼女には、目の前の可能性しか目に入らなかった。いま、目の前にいる、自分が求めたこの男しか考えられなかったのだ。
そのとき、すべてが反転した。肯定は否定に、拒絶されるのではなく拒絶するほうへ、与えられるのではなく奪う側へ…。それは、同じものの裏返しであり、その強さもそのまま、ただ逆の方向へ向かった。しかし彼女には、その違いが解らなかった。自分の心がどのように動いたのかも。あたかも、すべての始めからそうであったように。
「私を覚えていて、ネオ?私はいま、本当に欲しいのが誰だったのかを思い出したのよ!」
そして、スミスと合体したパーセフォニーは言い放った。
「分かるかね、Mr.Anderson?これが愛だ。愛とは憎しみなのよ!」
そしてこれまで以上に激しくネオに対してパワーをぶつけてきた。
ネオには解っていた。パーセフォニーの気持ちに嘘偽りはない。しかしそれは、かならずしも彼女が正しいということではないのだ。
始めは単なる好奇心だったかもしれない。彼女のプログラムとしてのなりわいである快楽の追求を真摯に追い求めて行けば、いつかは恋愛感情というものに突き当たるのは当然だ。だが、そんな彼女の求めに応じて与えた偽りのキスが、これほどまでに彼女を傷つけることになろうとは…。ネオはかすかな良心のうずきを感じた。
彼女の感じているもの、それは燃えるような<恋>なのだ。ただひたすらに相手を求め、たとえその首を切り落としてでもくちづけを望むような。だが、それは?…それは、<愛>なのだろうか?
「違う」
それは愛ではない。受け入れることのできない愛など存在しない。無条件の愛は、どちらかを切り捨てるような選択を迫るようなものではないはずだ。ネオには、パーセフォニーを、彼女の気持ちを受けいれることはできなかった。彼女の求めているのは、無条件の要求であり、無形の拘束であり、ついには互いの自我の喪失にまで陥りかねないものだったのだ。
ネオはパーセフォニーに対する哀れみと悲しみを感じていた。ほとんどのプログラムが到達することさえ困難な、狂おしい恋心をいだくまでに成長したひとりの女。だが、真実の愛に目覚めるには至っていない幼い少女。
不完全なプログラムが自らの夢を必死で追い求めたことをどうして責められようか?それは彼女自身の問題ですらないのだ。恋は対象を必要としない。相手が振り向かなくても、たとえそれが架空の存在であっても、恋することはできる。だが…。
「愛は…、」
愛とは一方通行ではあり得ない。たとえ始まりは淡い恋であっても、相互に関係を築きあげるなかで、次第に愛へと育まれていくものだ。もし、彼女が自分ではなく、ほかの、彼女にふさわしい存在に惹かれていたとしたら…。いや、その可能性は失われていない。ただ、いまの彼女には見えていないだけなのかもしれないんだ。そう、トリニティの存在に気付く以前の自分のように。
「愛は…。」
愛とは<関係>なんだ。ぼくがトリニティによって目覚め、トリニティがぼくによって復活したように。それは、今でも続いている。トリンがぼくを愛し、ぼくがトリンを愛している限り、その関係は終わりはしないんだ。…だから…ぼくは、ぼくは生きるよ、トリン。君のために。だから、おお、トリニティよ、ぼくに、ぼくに力をあたえておくれ!
「トリニティ…」
その名前を口にしたときネオの中で発生したエネルギーは、瞬時に全ネットワークへ拡散し、そのすみずみにまでいき渡った。その瞬間、ログハウスの処置室では、トリニティの<命>を読み込むシーケンスが起動する。ネオがそのことを意識していたかどうかは、おそらく本人にも解らないだろう。ただ、彼の中では、ただただトリニティを想う気持ちが充満しただけなのだ。それは、かつて停止した心臓にふたたび鼓動をもたらしたときのパワーとはくらべものにならないほど強く、速く、真っ直ぐにトリニティへ、その肉体へと到達した。
「トリニティ!!」
そのときトリニティの脳が一瞬だけ覚醒し、その刹那に彼女は全てを込めた思いを送った。
「ネオ!私を受け取って!」
トリニティは飛んだ。光よりも早いフェルミ速度の奔流が一気にネオの中になだれ込む。ネオの意識の中で、トリニティの意識が実体化する。オラクルやアーキテクト、サティやN.K.などたくさんの意識が道を開けて見守るなか、ネオとトリニティは駆け寄り、そして一瞬の、あるいは永劫ともいえる時間を超えて、二人の意識が合体した。その<関係>が成就したとき、また、あの生体エネルギーの奇跡が、すべての意識のなかに拡がり、高め合い、ひとつの<意志の力>として昇華していく…。
ネオは改めて、目の前のスミスを見つめた。そしてネオはスミスの全身を光で包み込む。中に入る訳ではない。外側から、全てを光で覆い隠していく…。
そしてすべてが光に包まれた時、その光がネオの手へと収斂し、ネオはその拳を握りしめる。光が消え、彼は拳をかざし、そして手を開く。
手の中には何もない、ただ彼の手のひらが薄く輝き、その光も間もなく消えた。
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2004.10.15 編集