Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
「ついて来たまえ。」
ルネはそう言って隣の部屋へ向かった。
その部屋はどこかバイオ研究室を思わせるような、きちんと整頓された清潔な部屋だった。ちり一つない光沢のある床に銀色に輝くステンレスの作業台、モニタにはすべてフィルタがかぶせられ、キーボードすら防塵・防水仕様になっている。そして部屋の奥にはほとんど壁全体を占める大きなはめ殺しの窓があった。
うっかりするとガラスがあることすら見過ごしそうな二重ガラスの向こうには、ありとあらゆる医療用機器がごっそりと並んでいた。天井からは、巨大な手術用の無投影照明を中心として、色々な形をしたロボットアームがぶら下がっている。人の胴体ほどもありそうな太くて頑丈そうなものから、釣り竿のように細くしなやかに見えるものまで、およそ二ダースほどもあるだろうか。それぞれの先にはまた球体の関節があり、そこから各種の冶具が突き出している。
ルネは黙ったまま、窓の手前のコンソールに着くと、手早くスイッチを入れはじめた。一つスイッチを弾くごとにコンソールのミニ・モニタが明るくなり、ステータス情報らしきものがスクロールしていく。コンソールが一面輝くモニタでステンドグラスのようになると、かれは目の前にある二つの穴に両手を突っ込んだ。
それと同時に、窓の向こうのロボットアームの一つがぴくりと震えたかと思うと、まるで凝った筋肉でもほぐすようにぐるりと回った。さらに隣のアームが同じように動き、つぎつぎと試されていく。一通り動作確認が済んだ所でルネが手をウォルドウ(遠隔操作装置)の穴から引き出した。
ついで、かれはキーボードを手前に引き寄せると、目にも止まらぬ早さで何かを入力しはじめた。そして、まだキーボードに手を置いたままN.K.に命じた。「N.K.、おぬしの手のひらをそこの認証パネルに当てるのじゃ。」
「へ?おれの?」
「そうじゃ。お前が命じたのだぞ。お前の認証が必要なのじゃ、実行を命じた者を正式に記録する。」
N.K.はおそるおそる右手をパネルに当てた。
「よし。もういいぞ。」全くなにごとも無かったかのようにルネが言う。N.K.はさっと手を引っ込めた。彼には自分が、マシンシティで認証を行い、それが受理された最初の人間であることなど知る由もない。
ルネはさらにいくつかのコマンドを打ち込むと、もう一度モニタをざっと見渡してから、enterキーを押した。
窓の向こう、照明の真下にポッカリと穴が口をあけた。そのまま数分が過ぎる。そして、突然、大きなコンテナがせり上がって来て、ぴたりと止まった。
ルネはウォルドウの穴に両手を突っ込み、それと同時にロボットアームがキビキビッと動きだし、コンテナを分解しはじめた。外箱がすべて取り払われ、そこに残ったのは二つのカプセル。その透明なカバーの中には、それぞれ男と女の美しい肉体が納められていた。 「ネオ…。」サティがつぶやいた。「トリニティも…。」
どちらの肉体も裸のまま横たわっていた。ネオは完全無欠な肉体に穏やかな表情、トリニティも、唯一腹部についたしみのような傷跡以外は苦悶の痕跡などまったくない。しずかに眠るような二人の男女…。そのカプセルはまるで磁石のようにぴったりと寄り添っている。
しかし、ルネは頓着なく作業を進める。トリニティのカプセルをすこしずらしてスペースを開けると、天井から無数のケーブルが伸びて来てカプセルに接続した。急に色の変わったコンソールのモニタパネルには、めくるめく数値の奔流が流れ去って行く。
その数値の瞬きが止まるのを確認したルネは、ロボットアームでカバーのロックを外し、そっと開いた。一瞬、ダイヤモンドダストのようになにかがきらめいたように見えたのは、温度差で昇華した保存ガスだ。そして、ただ静かに眠る男の体がわずかにカプセルから浮き上がった。その下には接続されたジャックが伺える。さらに糸のように細いワイヤーが湯気のようにわき上がると、男の頭、きれいに撫で付けられた短髪のあいだに滑り込んでいく。
そうした動きとともに、一番大きなロボットアームが別のカバーを持って降りて来た。こんどのサイズはもとのカバーの3倍ほどもある。一応は透明ではあるが、おそらく三重、あるいはそれ以上の層があるらしく、見る位置によって微妙に偏光して揺らめくようだ。カプセル全体をすっぽり包み込むようにセットされた巨大なカバーの回りでは、また別のケーブルがうごめいている。
そうした窓の向こうの動きがすべて止まった時、ルネはウォルドウから手を抜いて一同のほうへ振り向いた。
「これで準備は完了じゃ。だが、始める前にもう一度念を押しておく。」
ここからさきは、一度始めたらもう止めることはできぬ。途中で止めると間違いなくあの肉体は破壊され、復活の可能性は永遠になくなるじゃろう。また、復活に成功したとしても、それが最初で最後じゃ。チャンスは一度きり、それをつかむか、さもなくば永遠に葬り去るかしかない。
これから行う処理はこういうことじゃ。あの肉体を絶対零度になるまで徐々に冷却する。その過程で、すべての脳細胞や神経細胞などの「意識」に関わる全ネットワークが一瞬だけ超伝導状態になり、最後の瞬間に停止した電子が動く。そのタイミングは個体によって差があるので、リアルタイムで捕まえるしかない。しかし、そのわずかな「ひらめき」を完全に読み取ることによってのみ、意識の転写と再生が可能になるのじゃ。
しかし、一旦読み取りに成功したとしても、その事自体によって、あの肉体に記された「生」の記憶は最後の痕跡までぬぐい去られる。二度目の読み込みのチャンスはないのじゃ。
とにかく、読み取ったすべてのステータス情報を、こちらで記録されていたマトリックスのログデータから再構成された環境に含まれるシェルと合成する。過去の実験だと、ログから環境を再構成しただけでは、単なる歴史のプレイバックにしかならなんだ。だが、そこに生身の肉体から採取した情報、いわば<命>ともいえるようなものを合成することにより、ある種の独立したAI、人間のエグザイルとでもいったものが生まれるのじゃ。
ただ、このケースでは、単純な復活では済まないのでな。闘いの最後の瞬間では、ネオだけではなくスミスの「意識」も合体した状態になっていたはずじゃ。その相殺効果によって生体機能が停止したのじゃからな。したがって、そのままリロードしたとしても静止したままじゃ。われわれは二人がまだ分離した状態にまで時間を戻さねばならぬ。再構成した環境の時間軸を逆転させ、未来から過去への流れの中で復活させねばならんのじゃ。早すぎてもならぬ、行き過ぎてもならぬ。そのタイミングもその場で決定するしかなかろう。まあ、スミスがネオの乗っ取りにかかる一瞬前あたりが適当じゃろうがの。その段階で、われわれが干渉し、闘いを止めるのじゃ。われわれは環境自体の制御を握っておるから、まあ、時間の進行を止め、むりやり引き離せばよいはずじゃがな。
え?この目の前に復活させるのではないのか、だと?とんでもない、危険すぎる!制御に失敗すれば、あの異常な能力をもつAIが二つ同時に野放しになるのじゃぞ。別環境の中でなら、いざとなればシャットダウンすることによって即座に抹消することができる。もちろん、そうなったら復活は失敗、あの二人は永遠に失われることになるがの。
なにをいうか、これは譲れん!だいたいが、このマトリックス環境と、そのログから再構成した別環境にどれだけの違いがあるというのじゃ?当人たちにとってはなんの違いもありゃあせん。なんなら、おまえさんをそっちにジャックインさせても良いぞ、あの二人と運命を共にする気ならな。とにかく、実行可能な方法はこれしかないんじゃ、だまって見とれ!
ルネは再びコンソールに向かうと、脇にあるトグル・スイッチを回した。窓の向こうの処置室がふっと消え、かわりに表示されたディスプレイには炎の色できらめく格子模様があらわれた。
その周囲からひときわ明るい火花の波が中心に押し寄せる。それに従ってズームインしていくと、そこは荒れ果てた市街、降りしきる雨の中だった。火花が通り過ぎるあとには黒い群衆が無言で立ち上がって行く。そして、最後にひとりの男の顔が大写しになった瞬間、すべてが静止した。降りしきる雨の静止したひと粒ひと粒に、歪んだスミスの顔が浮かんでいる。
「よし、ここだ。」ルネが誰にともなく言った。「記録からすれば、この時点でネオの生体機能は停止しておる。」
ルネがさらに別のスイッチを弾くと、先ほどまで見えていた処置室の状況がディスプレイ右下にスーパーインポーズして表示された。
「始めるぞ。よいな。」
ルネがコンソール上のモニタにざっと目を走らせ、コマンドを打ち込んでenterキーを押した。鈍くひしゃげるような打鍵音だけが異様に響く。
小さく(といっても対角60インチほどで)表示されている処置室では、巨大なカバーのあちこちにあるインジケータが点滅を開始する。カプセル側面に付いた長いバーグラフメーターがフル点灯し、次第にレベルが落ちて行くのがわずかに処置の進行を告げていた。
もはやルネは、なにをするでもなく事態の進行を眺めている。すべてはプログラムされ、ネオの<命>が検知されれば即座かつ自動的に用意された環境へ転送されるのだ。バーグラフでは絶対0度まであと100Kというところまで来ていた。わずかに温度低下のペースが遅くなったのは、超伝導化が可能な温度域に入ったからだ。もう、いつ起こってもおかしくない。
メイン・ディスプレイの静止したスミスの顔に、突然生気が宿ったように見えたのは気のせいだろうか?次の瞬間、モニタのバックグラウンド・カラーが一斉に変わる。肉体カプセルのインジケータはいつのまにか灯きっぱなしになっていた。
「よし。来たぞ!」ルネがつぶやく。
そして、ディスプレイでは、静止した雨の水滴がゆっくりと上へ上りはじめ、次第にその速度が速まって行く。再びあの闘いが逆再生されはじめたのだ。スミスの感情のない顔に上の方から黒々とした水銀のようなものがかぶさり、形の無いテクスチャだけの塊の表面が微妙なうごめきを見せる。そして、上の方から流れ落ちるようにはがれて行くその下から、平安な表情で目をつぶったネオの顔があらわれてきた。
ディスプレイの情景はネオの全身が戻って来るにつれてズームアウトし、ついに二人の全身が映し出された。不気味にてらてらとまつわりつく粘材はネオの胸に突き刺されたスミスの手へと収束して消えていく。そして、ネオが目を開くと同時にスミスの手が引き抜かれる。その瞬間、また世界が停止した。
「よし。戻ったぞ。自我反応も出ている。一応、あの環境内の時間進行は止めたので、パラメータを変更して二人を引き離すんじゃ。」ルネが振り向いた。ところが、彼の後ろのディスプレイを見ていたサティが言った。
「あらぁ、でも、また動いているように見えるけど。」たしかに、ゆっくりながらまたスミスの手がネオに向かって動き出している。
その言葉に反応したルネは慌ててコンソールに向かい、コマンドを打ち込みはじめた。そうする間にも、ディスプレイの再生速度は見る間に上がって行く。
「しもうた!」ルネはそう言いながらあちこちのボタンを叩いたり、キーボードのコンビネーション・キーを試したりしているが、まったくなんの効果もない。またスミスの手がネオの胸に食い込み、黒いものが広がって行く。
なす術も無く再びネオが包み込まれ、その下からスミスがゆっくりと現れる。また時間の進行はおそくなっているようだ。そして、完全にスミスに切り替わった時点、すなわちネオの肉体から<命>を再ロードした時点で一瞬静止し、また逆再生が始まった。
言葉もなく見守る一同の目の前で、また同じ光景が繰り返された。ネオがあらわれ、スミスの手が抜かれ、…そしてまた始まる。また。もう一度。
繰り返す。繰り返す。繰り返す…。
キーボードに置いたルネの手が止まった。
「どうしたんですか?」N.K.が尋ねた。
「コントロールがきかん。完全にロックアウトされてしまったのじゃ。かろうじてループ・ポイント設定は生きておるが、ループを止めることができん。」
「いったい、何か起こったのです?」セラフが聞く。
「スミスの闘争心がこれほどの影響力を持つとは思わなんだ。あやつは利用可能な全リソースを注ぎ込んでネオの乗っ取りにかかったのじゃ。そのとき、どういう訳か環境自体の制御まで握ってしまったにちがいあるまい。あやつはネオを倒すこと以外はまったく考えておらん。」
「止めることはできないの?」不安げなサティ。
「こちらからの入力は完全にシャットアウトされておる。むろん、環境自体を強制終了することはできるが、それをすればすべてが完全に失われる。読み込んだ二人の<命>もな。永遠に。」
「じゃあ、いったいどうなるんだ、あの二人は?」
ケリーの問いに、ルネは力なく答えた。「闘い続けるのじゃ、永遠に。誰かが止めに入らん限り、他のことは目に入るまい。」
「誰か?誰に止めることができるんだい?あそこには誰もいないじゃないか。」アッシュが突っ込む。「それとも、あんたが行って止めて来てくれるのかい?」
「まさか!」そういったルネは、それでもまたコンソールに向かった。
「ふむ。そうか…。いや、まて…。これは…。」
「なにかわかりましたか?」わらにもすがるようなN.K.の声。
「やはり、こちらからのコントロールは効かない。向こうからのコマンドが多すぎてオーバーフローしておるのでな。だが、ラインそのものはまだ生きておる。もしかしたら、あちらにジャックインすることは可能かもしれん。いや、たしかに可能だ。誰かが向こうにジャックインして二人を引き離し、環境への干渉をやめさせればなんとかなるかもしれん。」
「誰がいくというんだ?あの二人を引き離すだって?とばっちりでぶっ飛ばされるのがおちじゃないのか?」ぶっきらぼうなアッシュの指摘に、ルネはうなずいた。
「たしかにな。だが、二人の注意を惹くだけでもループが崩れる可能性はある。それよりも問題なのは、その後じゃ。あの二人は環境を支配する力を持っておる。もし、闘いをやめ、コントロールをこちらに戻すように説得できないとなると、我々には強制終了させるしか打つ手はない。そのとき、中にいる者は共に消滅することになる。二人を止めて説得できない限り、脱出は不可能じゃろう。そこまでの危険を冒しても、二人を止めにジャックインする気のある者がおるのかね?わしはごめんじゃよ。」
「おれが行きます。」N.K.が何のためらいも無く言った。このままではネオの話を聞くどころの騒ぎではない。冗談じゃない、ここまできて!「どうやって説得したらいいのかはわかんないけど。」
「だめよ、ばかなこと言わないで!それじゃあ自殺も同然じゃない!」サティが叫んだ。
「じゃあ、どうすればいいんだ!?ネオを見殺しにすればいいとでも言うのか!?」N.K.もむきになって言い返した。「おれはネオに会うためにここへ来たんだ。このままでは引き下がれない!たとえ地獄にだって降りていくさ!」
「だって、だって!死んじゃうわよ、N.K.!」そう言うサティはいまにも泣き出しそうだ。
「そうとは限らないさ。」N.K.はサティの手をとった。「心配するなよ。要はケンカを止めればいいんだろ?よくある話だ、そうじゃないか?」
N.K.はクレーターの底の二人めがけて飛び下りた。
彼は今まさにネオの胸に手刀を突き込んだスミスの上に落下し、勢いあまって三人とも水たまりのなかに転がった。真っ先に立ち上がったN.K.は、あっけに取られて見上げる二人にむかって叫んだ。
「ケンカはやめだ!」
立ち上がったスミスがじろりとN.K.をにらみ、言った。「なんだ、おまえ?」
「おれはケンカを止めに来たんだ。そんな事をしている場合じゃない!」
「ほう。世界を賭けた闘いに『そんな事』とは言ったもんだな。引っ込んでろ!」スミスはまたネオにおそいかかろうとした。ネオも反射的に身構える。
そのとき、すかさずN.K.が二人の間に割って入った。いや、入ろうとした。が、すぐにスミスにはね飛ばされてしりもちをつく。どちらからも全然相手にされていない。だが、N.K.はあきらめなかった。N.K.は何度かとばっちりのパンチを喰らったあげく、タイミングをとらえて組み付いている二人に突進して体当たりをかました。また、三人ともこんがらがって転がる。
「邪魔だ!」スミスはそういうと、さっと右手をN.K.の脇腹に突き立てた。
ふつうならあっという間にスミスの乗っ取りが完了するはずなのだが、そうは問屋がおろさない。そこはさすがに研究し尽くしたルネのシェルなので、スミスの攻撃もただのパンチにしかならず(それでもダメージは強烈だ)N.K.はくずおれた。
しかし、スミスは何が起こったのか解らないように自分の右手を見た。別になんともない。その隙に立ち上がったN.K.が、またふらふらと近寄って来るところへ、改めてみぞおちに手を突き込んだ。だが、今度もまたただのパンチで終わってしまう。スミスの顔にわずかな疑念が浮かぶ。その動きが止まった。
ネオに助け起こされたN.K.は、息を切らせながら言った。「あんたの乗っ取りは効かないよ。とっくに対策済みだ。」
「どういうことだ?」スミスが問いつめる。
「ルネがパッチを当てた特性シェルを用意してくれたんでね。力は無いがやられることもない…気力が続く限り、だけどね。」
「ルネ?ルネだと?あのディレッタントのルネか?お前はいったい何者だ?」スミスがやっとN.K.に注意を向けた。
「おれはザイオンからきたN.K.ってもんだ。」ザイオンという言葉にネオがぴくりと反応する。「あんたたちを呼び戻しにきたんだ。」
「呼び戻す?これはこれは。私をザイオンにご招待してくれるのかね?もっとも、入り込むのが初めてではないがね。」
「違うってば。マトリックスへ、だよ。ザイオンへじゃない。」
「なにを訳のわからん事を言ってるのかね?ここはマトリックス、私の世界だ。だらかこそ闘っているんだぞ。」
「だーかーら、これはそんなもんじゃない。解らないのか?ただのシミュレーションでしかなんだぞ、ここは!」
「たしかに何か変だとは思っていたんだ。」ネオが乱れた髪をかき上げながら言った。「マトリックスにしては妙に環境ノイズが少ない。」
スミスも顔を上げ、くんくんと臭いを嗅ぐような仕草をした。「なるほど。だが、じゃあ、いったいどこなんだ?」
「ログハウスの中。それに、『いつ』も聞いたほうがいいね。戦争が終わってから、とっくに60年も過ぎてるんだぜ。」
「どういうことだ?戦争は終わったのか?あいつが約束を守ったのか?」怪訝そうなネオ。
「そうか、またリロードされたのかな?だが、それにしては手の込んだ舞台じゃないか。こいつが一緒なのも変だしな。」スミスは前にもリロードの経験があるだけに、飲み込みが早い。
「くわしく説明することはできるけど、あんたたちの方はいいのかい?途中でいきなりケンカを再開するのはなしだぜ。」
「ああ、とりあえず事情がのみ込めるまでは休戦だ。いいかね、Mr.アンダーソン?」
「いいよ。」
N.K.はおおざっぱな戦後の歴史と、最近の状況を話して聞かせた。
「…ということで、ネオの肉体からこのシミュレータへリロードしたわけさ。」
「つまり、ぼくは死んだのか?じゃあ…じゃあ、いまこのぼくは何なんだ、幽霊か?」
「それを言うなら、AIは全部幽霊ってことになるな、Mr.アンダーソン。いまのお前はAIなんだよ。これまでにない完璧な人間人格シミュレーションAIってとこだな、おそらく。オレの知っている限りそんな技術はなかった。80年の年月を実感するね。」スミスは首を振った。ネオはショックのあまり口もきけない。
「とにかく、世界の状況は大きく変わって来ている。」N.K.が続けた。「それも、次第に悪い方へだ。」
「そんな…。すべてを投げうって、トリニティまでも犠牲にしてきたのに…。すべてはまったくの無駄だっだというのか?」ネオは頭を抱えた。
「ネオ、そうじゃない。あんたたちの闘いは無駄じゃなかった、おかげでこの80年が持ったんだからね。そうでなければ、とっくに破滅していたはずだよ、全世界がね。」N.K.はネオに語りかけた。
「でも、もうそれでは済まなくなったんだ。限界だよ。次の、別のソリューションを探さなきゃならない。あなたの力がまた必要な時がきたんだよ。」
「あるいは、おれの力がな。」スミスがニヤリと笑った。「別のやり方もありそうだ、たしかに。」
異様な声の響きにN.K.が振り向いた時には、スミスはもう背をむけていた。
「どこへ行くんだ?」N.K.が声をかけた。
「外へ。ここがシミュレータなら、さっさと出て行くまでだ。」振り向きもせずに答えるスミス。しかし、すこし行ってふと立ち止まり、振り向いて言った。
「ひとまずはサヨナラだ。いずれ決着は付けてやる、Mr.アンダーソン。」
そして、スミスは雨の中に消えた。
ネオはまだ水たまりの中に座り込んだままだ。N.K.が立たせようとしたが、彼は動こうともしない。
「ネオ…。」N.K.の背中ごしに女の声がした。振り向くと、そこに同じようにびしょぬれのサティが立っていた。彼女はネオのそばにかがみ込むと、そっと声をかけた。
「ネオ、わたしが解る?サティよ、覚えてる?ネオ、ネオ!」
「サティ…?」
「ええ。わたしよ。おおきくなったでしょ?…ねえ、ネオ、地下鉄の駅でパパが言ったことを覚えてる?あのとき、私にはよく解らなかったけれど、いまなら解るわ。愛とは関係なのよ。あなたとトリニティの関係のようにね。」
「トリニティ…」
「そう。あなたが生きている限り、いいえ、あなたが彼女を想っている限り、その関係は終わっていないわ。終わらせてはならないのよ!」サティはネオの顔を両手でそっとはさみ、自分の方へむけた。
「辛いのはわかるわ。でも、あなたが守ろうとしたものは、長い間たったいまでもまだ残っている。いまなら、まだ守ることができるのよ。彼女の犠牲を無駄にしないで!」
ネオはじっとサティの目を見つめた。そして、わずかにうなずくと顔をあげた。見守っていたN.K.もうなずく。
ネオはゆっくりと立ち上がり、天を仰いだ。降りしきる雨がかれの顔を流れていく。
しばらくすると、次第に雨が上がり、雲が切れはじめた。雲の切れ間から日差しが差し込み、大きな二重の虹があらわれる。暗い雲はどんどん失せ、光り輝く雲の輪郭も遠ざかっていく。そしてついに、群青の空と七色の虹のもと、きらきら光る水滴の冠をかぶったネオが言った。
「行こう。」
ネオを伴い、N.K.とサティはログハウスに戻った。サティの用意しておいたシェルに入ったネオは、あのときのままのネオにしか見えない。
「ぼくは…」ネオは見知らぬものたちに囲まれてすこし不安そうだ。
「おかえりなさい、ネオ」セラフがそう言って前に出ておじぎした。
「セラフ!あなたがここにいるなんて!」見覚えのある顔にわずかながら緊張が解けるネオ。
「よかった。オラクルは無事ですか?それに、この人たちは…?」
「ええ、あのお方はお元気でいらっしゃいます。それに、このひとたちはみな、あなたの味方です。あなたを助け出すためにやってきたのですよ、はるばると。」
「では、彼の話してくれたことは…?」ネオはちらりとN.K.に目をやった。
「すべて本当のことです。あなたのおかげで、80年にわたる平和が続いていたのです。そのあいだに、いろいろなことが変わって来ています、よくも悪くも。そして、残念ながら、その平和がもう終わりが近付いていることも事実なのです。…われわれはあなたにお詫びしなければなりませんね。あなたの成し遂げたことを完全に引き継ぐことはできなかったのかもしれません。でも、」セラフは一同を指し示して言った。「あなたとともに平和を守ろうとする者たちは、いまでも決してすくなくはありません。もう、あなたは一人ではないのです。一人ですべてを背負う必要はないのですよ。」
そして、セラフが皆をネオに紹介した。「…で、N.K.はご存じですね。彼はキッドの孫に当たります。」
「え!?キッドって、あのチビのキッドかい?いまの君の方がよっぽど大人に見えるよ!」ネオはそう言ってN.K.の手をとった。N.K.は笑いを隠せない。あのじっちゃんをチビのキッドと呼べるのは、ネオその人をおいて他にはいない。間違いない!
「そしてサティ。長くオラクルのところにいたのですが、最近はあちこち飛び回っているようで。」
「わたしだって、大人になったんですからねっ!」サティはそう言うと、ネオのほおにチュッとキスした。ぽっと赤くなったネオの表情に、一同大爆笑だ。
「ありがとう。みんな、ありがとう。」そういって回りを見回したネオは、ふと、シミュレータ・ディスプレイのすみに表示されている情景に目を止めた。
そこには、大きなカバーに覆われた自らの肉体があった。そして、そのすぐ横には、まるで夢でも見ているような表情のトリニティがカプセルに納められている。
「トリニティ!」
ネオは一声叫んでディスプレイに駆け寄る。ディスプレイは何の指示も受けていないのに、まるでネオの視線に反応するかのようにズームインして、静かに横たわるトリニティの肉体を映し出した。ネオは、そこに刻まれた醜い傷跡に手をのばす。その手は冷たいガラスに遮られて止まった。かれはトリニティの顔に指をさまよわせる…氷のようなディスプレイの上を。
そして、そのままディスプレイに顔をつけ、ゆっくりと床にくずおれるネオ。かすかな嗚咽が響く。
近寄ろうとするサティをルネが止めた。
「哭かせてやりなされ。いままで哭くこともできなかったはずじゃ。かれにとっては、わずか数時間前のことでしかないのじゃからのう。」
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2004.10.15 編集