Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy
着陸したVTOL(垂直離着陸機)を飛び出したマヤは、まるで初めて野原にはなされた仔犬のようにはしゃぎ回った。
「まあ、なんて身が軽いんでしょ!これが自由ということなのかしら!?」
すでにサティの用意したシェルに着替えているマヤは、フリルの付いた軽いスカートを翻してくるくると回った。そしてケリーのところにくると、彼の手を取って一緒に踊り始める。
「なーにがあんなに嬉しいんだよ、こんななんにもないところで?」アッシュはあたりを見回して言った。単純なワイヤフレームの平たんな土地すらあと数十メートルで終わり、その先にはまったく何も無い。距離感すらない真っ白な虚無の壁が、上下左右へ無限に続いている。
「なにもないから嬉しいのよ。あんな重苦しい世界に閉じ込められていたんだから。」サティはクスクス笑いを抑えきれない。「それに、あのケリーが!まるでかたなしね。」
「それでも彼女には、すぐにまた仕事をしてもらわなければなりません。」セラフが肩をすくめた。
「できれば、すこしはゆっくりさせてあげたいのですが、残念ながらその余裕はないのです。」
かれらの降り立った所は、マシンシティにかろうじて残っていた原始的な仮想環境の終端だった。ここから先には、エグザイルが利用できるような既設の環境は存在しない。ログハウスに侵入するには、独自の作業環境を構築しなければならないのだ。そのためには、マヤのモデリング機能とケリーのレンダリング機能が必要だ。もちろん、最初はN.K.やサティの目標であったネオの探索も、いまではケリーとマヤにとっても重要な意味を持つようになっている。それは、もはやマトリックスの運命をも左右しかねない問題になっているのだ。
「ケリー、マヤ!」N.K.が声をかけた。ふたりは振り向き、手を取り合って戻って来る。
「どんな感じだい?環境は構築できそうかい?」N.K.が申し訳なさそうに尋ねた。
「ま、失礼ね!わたくしにできないことなどありません!ましてケリーと一緒なら。」マヤはそう言ってケリーにすがりついた。うしろでヘポピーとD.D.がうんざりしたように身じろぎしている。
「まじめな話だよ。だいじょうぶかい?」ケリーがやんわりと手綱を引いた。じゃじゃ馬ならしも大変そうだ。
「ええ。…ちょっとまってて。」そういうと、マヤは真っ直ぐに白い壁に向かって走って行く。壁の直前で立ち止まり、手を前に差し出すと、その手はそのまま壁に吸い込まれた。まるで壁の位置ですっぽりと切断されたようにも見える。それを見ていた一同は一瞬ぎょっとしたが、彼女が手を引くとまた元通りに指先まで現れた。それからいきなり、彼女は壁に向かって進み、白い闇に吸い込まれて消えた。
すぐに、少し離れたところの空中に、ひょいとマヤの頭(頭だけだ)が突き出して言った。「問題ないと思うわ。」宙に浮いた彼女の生首はまた引っ込み、また別の場所に手や脚がにゅっと突き出しては引っ込む。そしてついに彼女全体が現れ、呆れている一同のところに戻って来た。
「基本構造はマシンシティと同じよ。単純に環境が無いだけ。プロパティの取得も問題なさそうね。」
マヤの言葉にケリーはうなずいた。「よし。じゃあ、とりあえずなにかモデルを作ってみてくれないか?私がレンダリングしてみるから。」
マヤは背筋を伸ばし、前方の白い壁を凝視する。そして横に立つケリーの手を握りしめた。
一瞬の後、目の前には古びた石畳の街道が現れた。両側に背の高い並木の連なり、そのこずえでは小鳥がさえずっている。さらにそのむこうには豪華絢爛なお花畑がいちめんに続いている。
「ちょっとまった!」ケリーはマヤの手を離し、彼女を自分の方に振り向かせた。目の前の風景は幻のように消え失せる。
「いいかい、マヤ。これは遊びじゃないんだ。あまり余計な装飾を付け加えちゃいけない。すこしでもリソースを節約しないと、こちらが疲れてしまうだけじゃなく、発見されてしまう危険も増えるんだよ。」
「えーっ、つまらないのね。…いいわ、実用本位でやるわよ。」
「おっと、もう一つ。もし余力があれば、より広い範囲のモデルを作るように心掛けてくれないかい?その方が危険を察知するにも有利になる。」
「なにか矛盾する要求に聞こえるわねぇ。」マヤはふくれた。
「まあまあ。その程度の処理なら、バックグラウンドで処理してしまうようにできるだろう?そうすれば、なにか特別なものに巡り会ったときには自由に扱えるさ。」ケリーは、特別なものが必ずしも歓迎されるものではないことを言わなかった。
マヤはしぶしぶもう一度前方に目をやり、ふたたびケリーの手を握った。
こんどはシンプルな遠近感のある、しみ一つない清潔な道があらわれた。まあ、さすがにワイヤフレームでは、彼女のプライドが許さないのだろう。現れた道が視界の届く限り先へ先へとのびて行く。ほぼ消失点まで行った時、マヤが言った。
「どうかしら?モデル範囲はこんなもので十分でしょう。」
「ああ。ありがとう。これでOKだ。」
ケリーが言うと、マヤはもう一度ケリーの手を握り直し、そして手を離した。こんどは現れた風景もそのままだ。
「バックグラウンドに移行させたわよ。」
「こちらもだ。」ケリーはうなずいて、一瞬だけ様子をうかがってから一同の方を振り向いた。
「これで、我々の行くところの周囲、視界のとどく限りの範囲の環境は確保されるよ。とくに攻撃を受けなければ、な。」
まもなく、一行の乗るバスは、真っ直ぐな道を走り始めた。最初のうちは、後ろにある道の起点が遠ざかって行くのでどのくらい走ったのかの見当が付いたのだが、すぐに前も後ろも地平線で消失する幾何学的な道をただ行くだけになってしまった。そのまましばらくは何も無い平野を真っ直ぐ進むだけだったが、そのうち、ふと気が付くと前方に大きなピラミッドが見え始めていた。近付くにつれ、徐々にその巨大さが実感されてくる。もう前方視野の30%ほどを占めるほどの大きさに見えているのに、道はまだ消失点から大して離れていない。
「あれがログハウスかい?でっかいなあ。」N.K.がつぶやいた。
「いまさら、なにを言っているんですか。この道に入ったところからずっと、すでにログハウスの敷地内です。いずれ、この敷地も一杯になるはずですよ。」セラフが醒めた声で言った。N.K.には返す言葉もない。
そして道の終点に着いた時、左右のどちらをみてもずっと、同じような壁がまっすぐに地平線まで連なっていた。これがログハウスだ。
ログハウスへの侵入自体はなんの問題も無かった。セラフはどこでどうすればよいのかを的確に指示し、D.D.がヘポピーやアッシュの助けをかりて淡々と処理する。セラフはすべてが頭に入っているようで、分かれ道でも迷うそぶりすらない。ただ、たまにあるゲートやエレベーター、移動カプセル、そして両側に延々とドアの並ぶ廊下をさっさと通り過ぎて行く。
しかし、あるゲートのドアを開けると、そこにレンガの積み上げられた壁が現れた。まるでドア自体がダミーのだまし扉のような案配だ。
「どうしたんだ?迷ったのか?」ケリーが聞く。
「いえ。道は間違いありません。おそらく…」セラフはレンガをこつこつと叩きながら言った。「侵入を検知したセキュリティが遮断を図ったのでしょう。」
「じゃあ、爆弾一発でぶち破るかね?」ヘポピーが腕まくりしながら言った。
「…いえ。これはただの障壁ではないでしょう。マヤ、どうですか?」
「ええ、その通りよ。単に道が塞がれているだけではないわ。この先には道がありません。でも…いったいどういうことなのでしょう?そう簡単にディレクトリ構造を変更することはできないはずですわ。正規のユーザーも迷ってしまうもの。私の取得しているのは正規のディレクトリマップのはずなのですが…。」マヤは首をかしげた。
「おそらく、構造自体は変わっておらず、ディレクトリマップの暗号化キーを非常用に切り換えたのでしょう。非常用キーも知っている正規ユーザーなら、影響を受けずに済みますし。」
「その非常用キーはご存じ?」
「知りません。」セラフは平然と答えた。「私のいた頃には、そのようなプロシージャーはありませんでした。あとから実装されたものでしょう。」
そして、セラフの視線に不安を感じた一同が振り向くと、これまでやって来た廊下がいつのまにか消え失せ、わずか数メートル先の剥き出しのコンクリート壁で塞がれた行き止まりに変わっていた。
「閉じ込められちゃった!」サティが悲鳴をあげた。「どうしよう!」
「本当にキーを知らないのか?」信じられない、という顔でケリーがセラフに詰め寄った。
「ええ。…いまはまだ。でも、割り出すことができるかもしれません。」そう言うと、セラフはマヤに尋ねた。「これまでに取得したディレクトリマップの情報は残っていますか?」
「ええ。ログをたどれば復元は可能ですわ。」
「それから、今現在の最新ディレクトリマップをもう一度取得してみてください。これまで通って来た道筋をできるだけさかのぼって。できますか?」
「…、はい。それで?」
「その両方の生データを頂きます。ちょっと失礼…。」そういうと、セラフは人さし指でマヤの眉間に軽く触れる。その接触でマヤの眉間にわずかな赤みがさしたが、すぐに消えた。
「では、すこし時間を頂きますよ。」セラフはそういうと、壁に向かって座り込み、蓮華座をくんで両手を合わせた。
そのままの姿勢で微動だにしないセラフを見守っったまま、沈黙の時間が過ぎる。そして主観時間で1時間もしたころ(実際はものの10分くらいだった)セラフが緊張を解き、立ち上がった。
「わかりました。マヤ、キーコードを直接送りたいのですが、いいですか?」
そういうと、セラフはまた人さし指をマヤの眉間に当てた。マヤは一瞬目をしばたかせ、そしてにっこりと笑った。
「ええ。これでいいようですわね。」
レンガの壁が忽然と消え失せ、これまで通りの廊下がドアの向こうに続いているのが見えた。
「いったい、どうやったんだい?何か秘密の解読方法でもあるのかい?」D.D.が感心したように尋ねた。
「いいえ。ただ差分パターンからキーを絞り込んでいっただけです。それに、このセキュリティ手法の開発には、わたしも参加していましたからね。実装されるまでは携われませんでしたが。」
そういうと、セラフはくるりと背中を向けると、また先へ歩み始める。そこから先は、防御活動らしいものはほとんどなく、ついに一行は目的地へとたどり着いた。
彼女はドアの前で待っていた。
「おひさしぶりね、セラフ。」
ほとんど刈り上げに近いショートカットにグレーの制服の女は、まっすぐにセラフの目を見据えた。やや太めのまゆ毛が、その意志の強さを物語っている。
「こちらこそ、ヒルダ。わたしが来ることは解っていたのですか?」
「あのスクランブル・システムを突破できるものがいるとしたら、システムの発案者であるあなたしか考えられないもの。あなたこそ、わたしがここにいることが意外ではないの?」
「この場所にいる者として、主席独立捜査官以外のだれを想定すればいいのですか?」
「だったら、どうして来たのよ!」正面から突きかかる拳とともに、彼女が叫んだ。
「ここに私がいると知っていて!?また私にあの苦しみをなめさせるため?」
彼女はがむしゃらにセラフに打ちかかった。セラフはその打撃をまともに受ける。まったく避けようともせず、その場に立ち尽くしてヒルダのなすがままだ。彼の口から血が一筋、流れ落ちた。
「わたしが喜んであなたを訴追したとでも思っているの!?答えなさい、セラフ!」
「あなたはなすべきことをした。個人的な感情の入り込む余地はなかったはずだ。」セラフは流れる血を拭おうともしない。
「そして、それはわたしも同様なのだよ、むかしも、そしていまも。」
そして、セラフはゆっくりと上着を脱ぎすてた。
「望むと望まざるとに関わらず、それぞれがそれぞれの任務を全うするしかない。解っているはずだ、あなたには。」
「そうね。そのとおりだわ。」そして、彼女はだらりと下げた両手の拳を握りしめた。
どこか悲しそうな目のセラフが、ぽつりとつぶやく。「申し訳ないとは思っている。」
再び、ヒルダがセラフに襲いかかった。目にも止まらないような突きを入れて来るヒルダ、そしてそれを紙一重で受け流すセラフ。旋風のように回転するからだから飛んで来る蹴りを飛び上がって避けながら胸元に飛び込もうとするが、隙のないブロックにはね飛ばされてぱっと離れ、ふたたび対峙するふたり。
なんども互いに打ちかかりながら、どちらの攻撃もかすりさえしない。それは、息の合った優雅なダンスのようだった。しかし、必殺の拳がひとつでも当たれば、それで勝負がつく…。二人の技量はほぼ拮抗していた。
何度目かのせめぎあいののち、二人は離れて向きあったままにらみ合った。どちらもまるで何も無かったかのように息も切らさず平然と向き合っている。
すると突然、ヒルダが両手を左右に真っ直ぐのばす。それがふっとぼやけた次の瞬間、彼女の回りに千手観音像のような無数の手が出現した。かすかに透けるようなその手はちらちらとうごめき、球形の殻のように彼女の上半身を取り囲む。柔らかいように見えるその手も、実はどんなナイフよりも危険な威力を秘めていた。そのどれひとつにでも触れようものなら、あっというまにボコボコにされてしまうだろう。そして、そのままの体勢でヒルダはセラフにむかって接近してきた。
セラフは近付いてくる彼女を見つめたまま、全く動かない。そして互いに手の届く距離になろうというとき、セラフがすっと右手をあげ、何気ない様子で真っ直ぐ手のひらを前に突き出した。次の瞬間、ヒルダの千手が消え、静止した二人の姿があった。セラフの手のひらはヒルダのみぞおちに真っ直ぐ当てられ、ヒルダの手刀はセラフの首筋に当てられている。どちらも目を見開いたまま凝固しているようだ。
セラフは、くずおれるヒルダを受け止めると、両手で抱き上げた。そして、先ほど脱ぎ捨てた自分の上着の上にやさしく横たえる。そのとき、彼女の首にかかった小さなロケットがこぼれ落ちた。
セラフはそれを取り上げると、ぱちんと開いた。すると、小さな紙片がひらひらと落ちる。そこには急いで書き付けたようなラテン語の文字でこう書いてあった。「叩けよ、されば開かれん。」
セラフはロケットの中の写真を一瞥し、すぐに閉じてまた彼女の胸元にもどした。そして、眠るように横たわる彼女の乱れた髪をそっと整える。セラフは、自分の首に掛けた鎖を引いた。それは、ヒルダの首にかかっているものと同じロケットだった。それを開き、小さな紙片をしまおうとしたセラフの視線が一瞬止まる。そこには若い二人の写真がはめ込んであった。
そのドアには、ドアノブが無かった。セラフがドアを押すと、ドアは軽く開く。次の部屋には、また同じようなドアがある。同じような?全く同じにしか見えない。そのドアも、押せば開いた。だが、その次の部屋もまた同じだった。
「セラフ…。」マヤが戸惑ったように声をかけた。
「なにかがおかしいようですわ。わたしたちは全く移動していません。」
「どういうことですか?」
「ドアを開けて次の部屋に入れば、わずかずつでも現在位置が変わるはずです、しかし、このドアを抜けても、位置ステータスが変わらないのです。」
「なるほど。ちょっと見てみましょう。みなさんはここにいてください。」
セラフは次のドアを開けて、ひとりで次の部屋に入った。
「ふむ。どうやらループしているようですね。」いきなり背後からセラフの声がした。一同が振り向くと、たったいま目の前のドアを抜けて行ったかれが後ろのドアの前に立っていた。
「最後のトリック、とでもいうところでしょう。ドアを開けると後ろのドアへ戻るようにループが組んであるのです。」
セラフはまた目の前のドアのところにくると、丹念に調べた。だが、鍵穴はおろか傷や汚れすらない。
「D.D.、このドアに穴をあけてみてもらえますか?」
D.D.がレーザーで1cmほどの穴をあけた。しかし、そこから覗くと、向こうにはドアの前に集まっている自分達の背中が見える。
そこで、爆弾でドアを枠ごとふっ飛ばしてみたり、ドアではなくその横の壁に穴をあけてみたりしたのだが、結果はなにも変わらなかった。相変わらず無愛想なドアが立ちはだかっている。
「くそっ、これじゃ切りがない。セラフ、ここしか入口は無いのか?」ケリーがいらだたしげに言った。
「ええ。目的のアドレスはこのドアの向こうです。ドアといっても物理的な空間のドアではありませんからね。ここを入るしかないのです。」
「でも、ここを入ることのできるひともいるわけでしょう?」サティが間の抜けた質問をした。
「もちろん、ドアですから。目に見える認証システム機器は見当たらないので、音声認識によるパスワード、あるいは遠隔操作による解錠かもしれませんね。」
かれはいくつかのパスワードを唱えてみたが、さすがに古いパスワードでは役に立たない。
「無駄ですわ。認証プロセスが起動している徴候さえありません。なにかのクエリは発生しているのですが、一方通行でなにも戻ってきませんのよ。」マヤが報告した。
「では、ここに我々がいることはシステムに通知が行っているわけですね。」
「ええ、おそらく。」
「つまり、こちらのアクションはむこうにも伝わっている…。」
彼はもう一度自分の首に掛けたロケットを取り出し、それを握りしめた。
「そうか…。」
そして、セラフはドアをノックした。
「だれじゃ?」ドアの向こうから声が返ってくる。
「わたしはセラフと申します。ほかにも数名おります。」
「なんの用じゃね?」
「わたしどもはマトリックスのThe One、ネオについての情報を求めております。こちらにあると伺ったので。」
「たしかに。で?」
「…入れていただけますか?」
ドアが手前に開いた。
「入りなされ。」
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2004.10.15 編集