Matrix Restart

Written by TOMO
Based on "Matrix" trilogy



塔の上の姫君(下)


ケリーは急いでいた。

彼のまたがっているバイクは、工作室に転がっていたポンコツをD.D.がわずかな時間で直したものだ。腹に響く低音が無機質なワイヤフレームの裏道に響きわたる。彼はゴーグルもかぶらず、かつては毎日のように通った道をすり抜けて行く。やがて、その前方にトンネルの入口が見えてきた。あのバイパストンネルを抜ければ、彼女の領域だ。彼はアクセルを握る手に力を込め、暗いトンネルへ入っていった。


霜掛け山脈の中腹にある秘密の洞窟を抜けると、暗い森の中を曲がりくねった道が続く。木々の切れ目から時折見えかくれする谷間には、うら寂しい冬景色が広がっていた。ケリーは焦る気持ちを抑え、慎重に馬を操りながら、谷を下っていった。

そして突然、わずかに開けた水辺に出た。ここはかつて、幾度となくマヤと逢い引きした場所だ。いつも咲き乱れていた、あのたくさんの花はどこへいった?彼はその枯れた風情に言い知れぬ寂しさを感じていた。彼女は自分の領地にいつでも花を絶やさなかったのに…。そのとき、彼はわずかな茂みに咲く小さな野バラを見つけた。彼女のこよなく愛した野バラ、最後まで残ったちいさな名残り…。かれはその一輪をそっと手折り、マントの中のポケットにおさめた。

水際を続く小道を行きながら、ケリーは昨夜の知らせを思い返していた。ずっと拒んでいた結婚を、とうとう彼女が受け入れた。結婚式はもう来週に迫っている。他の誰かと結婚するくらいなら、いっそ死んでしまうと泣いていた彼女の背中が目に浮かぶ。生きている限り待ち続けるといっていたのに。なにがあったのか?もう待ちくたびれたというのか?彼はほぞを噛んだ。

そのとき、彼は背後に刺すような気配を感じた。かれは振り向くと、なにか灰色の獣が数匹、木立の中を見えかくれしている。狼だ!いつしか彼は、侵入者を無条件で追い立てる見張り狼の群れを引き付けてしまったのだ。なんてことだ、この森に狼だなんて。「ヘイャ!」彼は馬に一声かけて走り出した。

狼の群も、もう身を隠すこともなく道を追って来る。だが、D.D.の世話が行き届いた馬はすばらしい俊足を発揮して、まもなく追っ手を遠く引き離した。森の終わりにやって来たときには、もう狼どももあきらめてしまったようだ、あとをつける気配も失せている。かれは汗をかいた馬をいたわり、また普通のペースに戻って、なだらかな丘のつづく道を進んで行った。

それにしても、侵入者を警戒するプログラムに狼のキャラを当てるなんて!マヤのファンタジー趣味は相変わらずだな、とケリーは苦笑いした。もともとマヤは新しいマトリックス環境のために生まれて来たモデラーだ。だから、練習もかねて自分の家の回りに仮想環境を構築している。もちろん、普通の環境でも良いわけなのだが、人間の勉強のためと読みはじめたファンタジー小説に魅了され、それっぽい世界を築き上げてしまったのだ。彼女のこだわりのカタマリのようなこの領域では、どんなプログラムもこの世界にふさわしいものに変貌してしまう…バイクが馬に化けるように。果たすべき機能は同じだが、その外観はおろか動作さえもファンタジー世界にふさわしいレベルに制限されてしまうのだ。ケリー自身も、黒いフードつきのマントにすっぽり身を包んだ野伏スタイルになっていた。

しかし、警戒プログラムの存在自体が改めてケリーに不安を抱かせた。あれは、本当に侵入者の警戒のためなのだろうか?もしかしたら、逃亡者を狩り立てるためのものでもあるのではないだろうか?ここを逃げ出そうとするようなひとは一人しかいない。それを邪魔しようとするヤツも。彼はまた馬の歩みを早めた。

午後も遅めになるころになって村里にでると、ケリーはそこの唯一の旅籠兼飲み屋でもある「踊る子牛亭」に真っ直ぐ向かった。そこの亭主マーガリバーはむかしからケリーの馴染みだし、口は悪いが信用もおける男だ。すこしは詳しい話も聞けるだろう。彼はそっと店の裏に回って馬をつなぐと、勝手口から中に入った。

「おーい、ここは勝手口だよ!」旅籠の主人は流しに向かったまま、振り向きもせずに言った。「それに飲み食いは5時からだ、そのころになったら表からきておくんな。」

「おれは客じゃないぜ。」「物売りなら間に合ってる。出ってってくれ!」

「なんだい、古いなじみの声も忘れたのか、オヤジさんよ。」ケリーは笑いながら言った。

そう言われてやっと振り向いた亭主は、一瞬目を細め、すぐに丸い顔に負けないくらいに眼を見開いて叫んだ。「おやまあ、ケリーのだんな!お久しぶりで。あんたも祝典に出なさるんで?」

「祝典?何の祝典だ?」

一瞬のうちに笑顔の消えたケリーの厳しい声に、亭主はしどろもどろで答えた。

「いや…、あの、ご存じでしょ?姫様のご成婚祝いの祝典でさあ。結婚式の日に開かれるお祝いのパレードに出るモデラーやレンダラーのみなさんで、うちもこのところ大忙しなもんだから…。」言葉尻が空に消えた。ケリーの厳しい視線に刺しつらぬかれて、いつも陽気な旅籠の亭主の丸い顔がみるみるしぼんでいく。

「…おれは長い旅からたったいま戻ったばかりなんだ。詳しい話を聞かせてもらえないか、マーガリバー?」


夕闇のせまる中、お城にそびえ立つ白い塔だけがまだ夕日を受けて輝いている。だが、回りを取り巻く城壁はすでに灰色の黄昏に沈み、周囲を取り巻く夜の帳との区別もつかない。そしてその暗がりにまぎれて、黒い人影が城壁に近付いていく。

ケリーはそっと裏門脇の小さな扉に近付くと、そっと手をかけた。一瞬の重みに不安が走ったように一度手を引くが、思いきってもう一度押すと厚い木の扉が沈み込む。彼は素早く隙間を抜けると、再び扉を閉めてかんぬきを掛けた。

彼はそのまま庭園の樹木を縫うようにして城へと向かった。そして、背の高い木々の木立を抜けた所で突然立ち止まった。

そこにはしんしんと水をたたえた小さな湖が広がっていた。道は真っ直ぐにその中へと続き、すぐに水に沈んで見えなくなっている。そして、その先には、回りをすっかり水で囲まれてしまったお城がぽつねんと立ち尽くしている。

なんてことだ、あの見事な庭園がすべて水の底に沈んでしまったのか!ケリーは呆然と頭を振った。これでは、お城にはいるにも出るのにも、正面のアーチを通るしかない。それが狙いか、誰かが忍び込むのを阻むため?あるいは彼女がそっと抜け出すのを阻むため…。それにしても…。ケリーは次第に怒りが込み上げてきた。

そのとき、すぐ脇の暗がりから小さな声がした。「ケリーさんかね?」

さっと振り向いたケリーには、ちいさな影が木の陰にいるのがかろうじて認められた。だが彼はその声に聞き覚えがある。「ばあやさんかい?」

「そう。ついて来ておくれ!」そういうと小さな人影は水際を回り込むように動き始めた。ケリーも後に続く。

「はあやさん、いったいこれは…、」「しっ!黙って来るの!」「…」

すこし行ったところに茂みの影に、小さなボートがもやってあった。手ぶりでボートを示しながら、ばあやが言う。「あんた漕いでくれるかえ?あたしゃここまで漕いできたんだ、もうたくさんだよ。」

ケリーは黙ってボートに乗り込み、ばあやが乗り込んで座るのを確認してからボートを押し出した。

「で?」
「あっち、あの茂みの方へやっておくれ。あの陰に勝手口があるのさ。」

ばあやが指差した方向を振り返り、ケリーは漕ぎ出そうとした。その時、オールがなにかにぶつかったような手応えがあり、ケリーは漕ぐ手を止めた。

「なにか当たったかい?気にしなくていいよ、このボートには手を出さないから」様子を見ていたばあやがそっと言う。

「なに?なにかいるのかい?」

「よく分からんのだけど、なにか大きな魚がいるみたいなんだ。噛まれると危ないから泳いじゃダメと言われてるのさね。」

そう言って肩をすくめるばあやの仕草が暗がりの中でもはっきり解った。くそっ、水攻めだけじゃ足りないってのか?ケリーは力強く漕ぎ出した。

湖を渡り、勝手口から中に入って扉を閉めると、ばあやは壁の口火からろうそくに火を移し、それを持って奥に歩き出した。ケリーは回りの様子が気になるものの、とにかく後に続く。

「まあ、マーガリバーんとこのサムが伝言を持って来た時はびっくりしたけどね。」ばあやがいきなり話し出した。「それでもほんとに来るのかは半信半疑だったんだよ。いったい今まで、どこで何をしていたんだい、姫様をほったらかしにして?」

「話せば長くなる。とにかく、おれたちは新規のシェルを創造する呪文を手に入れた。」

「あら、とうとう手に入れたの!それで姫様を迎えに来たってわけね。」

「まあそんなとこだ。だが、来てみればこのざまだ。」そしてケリーはばあやを止めて振り向かせた。

「ばあや!教えてくれ、マヤに何があったんだ?彼女は本当に結婚を承諾したのか?おれは遅すぎたのか!?」

「その答えは、姫様ご本人にしか答えられないよ、わかってるだろうに。しゃんとしな、男の子だろ!」

ばあやはまたむこうを向き、薄暗い回廊を抜けて長い螺旋階段を登りはじめた。白い塔への階段を。

その部屋には、入口が一つしかなかった。ばあやが手ぶりでケリーを促す。ケリーは意を決してドアをノックした(その音は情けないほど小さかったけれど)。

「どうぞ!」すぐさま中から返事が返る。「おはいりになって!」

ドアを開けてケリーは中に入った。それほど大きくはない部屋(お城にしては、だが)の壁には一面に豪華なタペストリーがかかり、高い天井にはたくさんの炎の灯ったシャンデリアが下がっている。しかし、そんな装飾の派手さとは裏腹に、部屋の明るさにはどこか陰りがあり、陰鬱な空気が漂っていた。そして、赤々と焔が揺らめいている正面奥の大きな暖炉の前に、ひとり立ち尽くす女の姿…。わずかに赤みのかかった豪華な金髪が腰の下まで波打ち、青いロングドレスの精緻な刺繍に絡み付いている。それでも隠しきれない体の輪郭に沿って暖炉の焔の光がきらめき、まるで全身から発するオーラのようだ。

ケリーはまっすぐ歩み寄り、すぐ後ろで立ち止まって声をかけた。

「マヤ…。」

ゆっくりと振り向いたその顔は雪のように白く、そしてガラスの仮面のように無表情だった。ただ、その瞳だけが、まるで全てを見通そうとするかのように大きく見開かれている。ふたりは互いの視線を絡ませた。そのまま、無言の瞬間がただ過ぎていく、あたかも失った時を追いかけるように…。

ケリーはマントのポケットから、小さな野バラを取り出して差し出した。おずおずと手を伸ばすマヤ。真っ赤なバラに彼女が触れた瞬間、その色が紫に変わる。青いドレスのせいだろうか?いや、彼女の手にした野バラは見る間に大きく開きゆき、大輪の鮮やかな紫のバラへ変貌していた。それは、ケリーお得意のトリックだった。マヤの目の前で大きく開く紫のバラ、それはふたりが初めて会った競技会でケリーが彼女に捧げたもの。

マヤは顔を上げ、ケリーの胸に飛び込んだ。


…そうです、相手はあの男、あのときあなたを失格に追い込んで、自ら勝利を宣言したウィンゲーツ・コンツェルンの御曹子、ウィリアムなのです。あやつは、ほとんどの領域を独占しているコンツェルンの勢力をバックに露骨な圧力をかけてきました。自分と結婚するほかにマトリックスのモデラーとなる道はない、とまでうそぶいたのです。もちろんわたくしは拒み、拒み続けました。そして、あやつはわたくしを翻意させるのはむりと見て取るや、その矛先をわたくしの両親へと変えたのです。

ご存じの通り、わたくしのお母さまはいまもマトリックス全域を担当するマスター・モデラーです。お父さまもそのモデルを表現するチーフ・レンダラーとして、ほかの全てのレンダラーを統べる立場にあられます。しかし、ウィンゲーツどもは配下のモデラーに密かに手を回し、わざとレンダリング処理の事故を起こさせたり、モデリングの欠陥をでっち上げたりしはじめたのです。お父さまも当初はそんな事など気にもしなかったのですが、その数が増えるにつれ周囲から問題視する声が上がりはじめ、無視するわけにもいかなくなったのです。

それだけなら、もちろんのことお父さまだけで難なく対処できたのですが、そのうちにマトリックス全域で異常な反応が現れはじめたのです。それは、ウィンゲーツの攻撃が引き金になったとはいえ、おそらくあれらの意図するものではなかったはずです。むしろ、なにか見落としていた他の要因の影響で、くだらない攻撃を仕掛けて来た当人たちにも手に負えないようになってしまった、というのが本当のところでしょう。

いずれにせよ、マトリックスの安定を保つためには、お父さまもお母さまも相当の努力をなさざるをえなくなったのです。最後にお会いした時など、それはもうやつれはててまって…。しかしそれでも、あの卑怯なウインゲーツ一派はこれ幸いとばかりに汚い取り引きを持ちかけてきたのです。わたくしとウィリアムが結婚すれば、あらゆる協力を惜しまないなどど、いけしゃあしゃあと!

しかし、実際の問題はそんな駆け引きの段階などとうに超えてしまっていました。お父さまの予測では、単純にウィンゲーツの妨害が無くなったところで混乱が回復する見込みはありませんでした。たとえ全ウィンゲーツが本当に協力してきたとしても、もはや手遅れなところまで来てしまっていたのです!単にレンダリングの不都合に留まらず、お母さまのモデリング・プロセス自体にも障害が発生していました。お父さまのいうところでは、残された方策はただ一つ、完全な二重化で全プロセスを補強すること、つまり…、わたくしがとにかくだれかレンダラーと結婚し、ふたりがかりでお父さまお母さまを支えるしかない、というのです。

ああ、おねがいですわ、そのような目でわたくしを見ないで!わたくしはあなたを待ち続けました。しかしそれも、いつの日かあなたとふたりでマトリックスを統べることができるようにというはかない願いゆえのことでした。でも、いま、そのマトリックスそのものが崩壊の危機に瀕しているのです!わたくしはモデラーとして生をうけたもの、このようなときに何もせずにいることができましょうか?ただ夢を見ながら、その夢が崩壊していくのを、自らの手で運命づけることがわたくしのさだめだとでも?

いいえ、ご自分を責めるのはおよしになって。許していただきたいのはこのわたくしの方。だって、あなたはこうして戻ってこられた、それもまだ間に合うかもしれない今日この日に。あなたがどこでなにをなさっていたにせよ、すべてはそのためだったのではありませぬか?それに、まだ遅くはないのです。あなたと結婚して、ふたりでわたくしの両親を支えることだってできるはずですもの!

…ええ、それはそのとおりですわ。私たちが二重化の支えに入ったとしても、それは対症療法にすぎず、いつまで保つかは神のみぞ知るところです。そもそも、このような事態に陥った真の原因は、いまだわかっておりませぬ。それが解明できさえすれば、根本から解決できるやもしれないのですが…。もちろん、その答えの得られる見込みがまったく無いというわけではありません。しかし、多少の時間の猶予はあるとはいえ、今となっては無限の探求の時間を得ることはままならないのです。いまの時点では、ログ解析からしておそらく、あのネオ戦争の直後から続くなんらかの不整合が次第に蓄積したものらしい、ということくらいしか手がかりはないのです。

…え?何とおっしゃいました?ネオ?あのThe One、マトリックス世界と人間世界を繋いだ唯一の人ですか?たしかに、もし答えの解るものがいるとしたら、それは彼をおいて他にはおりますまい。マトリックスの根源的な問題は、人間との関係性の中にあります。わたくしたちプログラムには、いまだその真実も遠い霧の中です。人間と機械の両方を理解するものだけが、その聖杯を手にすることができるのでしょうね。いずれにせよ、彼の闘いのなかに全ての秘密が隠されている可能性は高いと思いますわ。

とにかく、こうしてあなたがまたわたくしの手の届く所にお戻りになられたのですから、わたくしがあのウィリアムと結婚する必要はなくなりました。そうですわね?そうだといってくださいましな!…、ならば、あとはどうやってあやつの手を逃れるかですね。あの恐ろしい水堀に囲まれてしまったために、わたくしはこの塔を出ることさえできなくなってしまいました。あの水の中には、わたくしにとくに同調した目と鼻をもつけだものが、無数にひそんでいるのです。わたくしがこの城をひそかに抜け出すことはまずできないでしょう。

望みがあるとしたら、式へ向かうためにこの城を出るときですわ。式はマシンシティの中央大聖堂でとりおこなわれることになっています。その日はマシンシティ全域にここと同じ環境が拡げられることになっていますの。ええ、ウィリアムのレンダリングです、あやつのお披露めとウィンゲーツの示威キャンペーンですわね。この城の敷地を出たところからすぐに敵の領域になってしまいますから、ここからあの洞穴までの間の、わずかな道のりにしかチャンスはありません。

…ああ、もうこんな時間!夜が白みはじめていますわ!ここで見つかってはなりません、もうお帰りになられなければ!…、でも、式の前にもういちどお会いできるかどうかも解りませんから、…これを、これをお持ちください。この剣は、わたくしが勝者たるあなたさまのためにモデリングしたもの。あなたが生きておられる限り、決して折れることはありませぬ。それから、この箱の中には八つの玉が入っておりまする。どれも必要な時には光を放ち、これを持つ者同士の間では無言の言葉を交わすことができます。あなたの信頼の置ける者たちにひとつずつ持たせなさいませ。

そして、最後に、わたくしの信頼の印として、秘密の呪文、すべてを統べる一つの呪文をお教えしてさしあげます。いいえ、かまいませぬ!わたしのすべてはとっくにあなたの手の中にあるのですから。それに、この呪文だけでは、単にわたし、そして敵であるウィリアムと同じレベルの権限をもつにすぎませぬ。しかし、これさえあればあなたが負けることはないとわかっているのです、わたくしには。では、お耳をかしてくださいまし!

…わたくしはあなたを信じております。しかし、ひとたび大聖堂で誓いの言葉を口にしてしまえば、それはもう取り消すことができませぬ。もし、その場にいるのがあなたでなければ、わたくしは自らに刃を向けるほか術がないのです。しかし、もしそうなったとき、それはわたくしたちのみならず、お父さまやお母さま、そしてマトリックスに住むものたちすべての破滅であることを、どうか、どうかお忘れにならないで!


城門が開いて現れたのは、まず8騎の槍騎兵だった。槍の先には姫の家紋の旗がはためいている。それに続くのはいくぶん控えめな(それでもいかにもという風情の)弓騎兵の一隊、さらに騎士が続く。そろいの制服に羽飾りの付いた兜といういで立ちは、実戦用というよりは明らかに儀典用の派手派手しいものだ。荷物を満載した荷馬車、そして、そのあとからきらびやかな八頭立て馬車が現れた。見事に極彩色で飾り付けられたその馬車もしかし、その窓は堅く閉じられたままであった…それはきれいに晴れ上がった暖かい日和だというのに。後衛にはまた騎士の一隊がしんがりを務めている。そのままカーニバルのパレードに出てもおかしくないような隊列だ。もっとも、今日の祝典ではまさにそのパレードが予定されているのだけれど。

「出てきたわ!歩兵はなし、全部騎馬ね。槍兵8、弓兵8、剣士16、荷馬車、姫の馬車、それに剣士8…。まあ、予想通りね。弓兵がいるのは予想外だったけれど。ターゲットは見間違いようがないわ、なんてすてきな馬車!」フランソワがつぶやく。だがそのつぶやきが、遠くの山間で待ち受けている他の仲間にはすぐ横でささやかれたかのように聞こえた。

「解った。こっちはもう準備完了だ。見つからないように後をつけて来てくれ。何かあったらすぐ報告するんだぞ。」ケリーの声が返って来る。

「しかし、この玉はすげえな。これで向こうが見えたらもう完璧なんだけど。」アッシュがしげしげと首に下げた玉を眺めた。マヤがケリーに託した八つの玉がそれぞれ仲間を繋いでくれているのだ。

「そうそう贅沢なことは言えないと思いませんこと?なんといっても、きれいじゃない、これ。それで十分よ。」

「まあね。さて、ぼちぼち行きますか、お嬢様?」アッシュはフランソワに手を貸して立ち上がらせ、隠しておいた馬へ向かった。


花嫁の一行は川辺で休憩をとり、それから山道へ入っていった。休憩の時にはたっぷりとお酒と食べ物が振舞われ、もう気分はピクニックという感じで衛兵隊の脚取りも乱れがち。もちろん、そのへんはばあやの抜かりない気配りだ。のどかな天気、のんびりした道行き、お腹もいっぱいで一杯入ってしまえば、もう厳重警戒の厳命が吹き飛ぶのもむりもない。次第に隊列が伸び、騎兵の間隔も広がって来る。 

やっと馬車がすり抜けられるほどの谷間の隘路に差し掛かった所に、ごつごつのこぶのついた太いつえを手にした男が立っていた。全身を覆うマントにフードを目深にかぶり、道の真ん中で身じろぎもせず、隊列がやって来るのをじっと待ち受けている。その目の前まできたところで、先頭の騎士が立ち止まりもせずに叫ぶ。「邪魔だ!道を開けろ!」

「これはマヤ姫のご一行か?」低いが妙に通る声が返る。

「そうだ!ええい、退かんか!」

「さようか…。では、姫にお伝え願おう、お迎えに上がりました、とな!」そういうとセラフはフードを撥ね除けると、手にしたつえで地面を叩いた。

その瞬間、両側の斜面が轟音とともに崩れ落ちた。砂煙とともに大きな岩のかたまりがごろごろと転がりおち、槍騎兵を襲う。セラフはひらりと飛び上がると、転がる岩を避けながら先頭の男を打ち倒した。そしてそれを合図に、左右に潜んでいたものたちがいっせいに隊列に襲いかかった。

崖の上からは槍や弓矢が雨霰と降って来る。D.D.は特製のカタパルトに槍を1ダースもつがえては一気に放っている。矢を放つサティはゆっくりと、しかし効率良くピンポイントで弓兵を打ち倒す。そして、N.K.とケリーは馬で急斜面を駆け降りると馬車前の騎兵に襲いかかった。一息遅れて駆け降りて来たヘポピーは鎖帷子に丸い盾を持ち、巨大な斧を振り回しながら突っ込んでいく。時を同じうして、背後からもアッシュとフランソワが矢を射かける。隊列は大混乱に陥った。

「ほっとけ、逃げる者は追うな!」ケリーが叫ぶ。実際の勝負はあっという間についた。だが、ケリーが姫の馬車に近付くと、御者は一瞬の隙をついていきなり馬に鞭をくれ、むりやり逃げようとした。その瞬間、サティの矢が御者を貫く。だが、すでに鞭の入った馬たちは、手綱が離れるや否ややみくもに走り出した。

「まずい!追え、止めろ!」

この先には切り立った断崖沿いの道になる。暴走した馬車が道を外れたらまっ逆さまだ。ケリーとN.K.は即座に馬車を追った。しかし、道幅が狭くとても馬車の前に出ることはできない。ケリーは迷わず走る馬の上に立ちあがり、馬車へと飛び移った。

もう車軸が折れるかというほどに飛び跳ねる馬車の上にしがみつくと、ケリーはなんとか御者席まで這い上がった。だが、手綱は前の馬たちの間を跳ね回っている。彼はそのまま目の前の馬にとび乗った。鞍もない馬の背を両脚の力だけでバランスをとりながら、なんとか手綱を拾い上げた。だが、そこからでは八頭の馬すべてを抑えることはできない。後を追ってやっと御者席にたどり着いたN.K.に向けて手綱を投げる。

かろうじて受け止めたN.K.は手綱を引いて暴走を止めようとするが、血の臭いに脅えて我を忘れている馬たちは止まろうとしない。まずい、あのかどの先はもう崖だ!ケリーはさらに次の馬へ、そしてまた次へと移り、なんとか先頭の馬までたどり着くと、その馬の手綱をつかみ、引き絞った。

ぎりぎりのところで馬車はスピードを落とし、ちょうど崖道にでるところで止まった。ケリーは飛び下りると、あわてて馬車の扉を開けた。「大丈夫か!?」

馬車の中では、マヤとばあやが抱き合っていた。そうとうあちこちにぶつかったらしく、せっかくのドレスも結い上げた髪もくしゃくしゃだ。だが、彼女はすぐに立ち上がり、馬車をはい出してケリーに飛びついた。

「おお、ケリー!」「マヤ!!」

そうこうするうちに、ほかのものも、それぞれの馬にまたがって追い付いてきた。ケリーとマヤは、そんな面々が全員集まってしばらくしてから、やっと離れた。

「えー、あの、このひとがマヤ姫だ。」ケリーがなんとかかんとか紹介した。

「わたくしがマヤでございます。このたびはひとえにみなさまのご助力のおかげと感謝しておりますわ。」マヤはそう言って、優雅に腰を落としておじぎした。一同はただため息がでるだけ。

「それで、これがサティ…いてっ蹴飛ばすなよっ!」
「なによっ、これって!…初めまして、わたしはサティです。よろしくねっ」

まあ、そんな感じで一同の紹介が終わると、アッシュが聞いた。「で、これからどうするんだい?さっさととんずらするのかい?」

ケリーとマヤは顔を見合わせ、そして皆に向き直った。

「いや。我々には果たさなければならぬ務めがある。」そういうケリーの言葉には、もう浮かれた所はみじんも見られなかった。

「いま、マトリックスの舞台裏では大変な危機が訪れようとしている。マヤと私はなんとかしてそれを食い止めなければならない。それには、私の正当な権利を宣言し、そのための力を手に入れなければならぬのだ。」ケリーは一同を見回した。

「本来の私の地位はマヤとともにある。その地位を不正に襲おうとし、そのよこしまな企み故に危機を引き起こしたものどもを放っておくことは、もはやできないのだ。きゃつらを倒し、無法にも独占されて来た我らの力を取り戻さねばならぬ。よいか、これは単に姫を巡るいざこざではない。マトリックスの大権を引き継ぎ、次の機械世界を統べるうえでの大きな力を巡る闘いなのだ。私は逃げるわけにはいかぬ。このままシティへすすみ、そこに待つ宿敵ウィンゲーツ一族のウィリアムを倒して、私の権利を天下に要求するのだ!」


メインストリートは見事に飾り立てられていた。両側のバルコニーは花で埋め尽くされ、きらめくランプが処狭しと並んでいる。そして、石畳のストリートを、沿道を埋め尽くす群衆に見守られながらやって来るのは、婚礼に向かうマヤ姫の一行だった。

だが、一行は一見不釣り合いなほど無骨なものだった。先頭を来るのは、古びた鎧兜に見事な剣を腰に差した男、顔には鉄のマスクをかぶっている。そのすぐ後ろ一歩下がって、魔法使いの杖を抱えた男が続く。さらに黒い髪を肩まで垂らした男装の麗人と弓矢を背負った金髪の美少女、そして血気さかんな若い戦士が二人、左右ににらみをきかせている。その後を鎧兜で身を固めたちいさな戦士の御する八頭立ての馬車には花嫁の紋章が輝く。そしてさいごには、黒々と鈍い光を放つ巨大な斧を軽々とふりまわしている鎖帷子の大男。

つめかけた群衆はなにか変だなと思ったかもしれないが、いちおう花嫁の馬車はあるし、まあいいかっという感じで花ふぶきを投げかけている。警備のものも、不安を感じながらも手を出すには恐れ多い雰囲気でそのまま見送っていた。

そのメインストリートの終点では、すべての飾り付けの整った大聖堂前に、その数数千という衛兵が整然と並び、一行の到着を待ち受けていた。そして、入口階段を上がった所に一人立っているのは、黄金の鎧を身にまとい、真っ赤な生地に銀糸の刺繍もあざやかなケープを肩から垂らし、こうべの兜には七色の羽飾りを突き立てた、やや太り気味で丸顔の男。ストリートをやってくる一行を怪訝な顔をして眺めているこの男こそ、あのウィンゲーツ・コンツェルンの後継者ウィリアムであった。

馬車の一行が近寄るにつれ、衛兵の隊列が道をあける。ためらうそぶりも無く進むわずかな人数の一行を取り囲むようにして、衛兵たちが背後を閉じる。そして、大聖堂の階段下までくると、いまやぐるりと遠巻きにする衛兵の中央で、先頭の騎馬の男は歩みを止め、馬をおりた。あたりを静寂が包む。

「そのもの、何者だ!?姫君はどうしたのだ?」ウィリアムが甲高い声で叫んだ。

「私は姫君を連れて来た。」男はマスクの下からくぐもった声で答えた。「だが、それはお前のためではない。」

「無礼な!マスクを外せ!衛兵、そいつを取り押さえろ!」

「動くな!」バラバラと走りよる衛兵に向かって、魔法使いが杖を掲げて叫んだ。その威圧するような声に衛兵の足が止まる。

男はマスクを外し、壇上の男に向かって言った。

「私は、私の権利を求めてやって来たのだ。」

「お前は…!だが、これはお笑いぐさだ。お前に何の権利があると言うのだ、もはやエグザイルに過ぎないお前に?」

「マヤ姫を娶り、マトリックスを統べるレンダラーは、全ての中で最強の者でなければならぬ!そうではないか?私は競技会でお前に勝ち、マヤ姫の合意をも取り付けた。私には権利が、いや義務があるのだ、私の務めを全うする義務が!」

「ええい、なにをたわごとを!斬れ、斬って捨てい!姫を奪い返すのだ!」

いっせいに襲いかかる衛兵たち。だが、馬車を守る戦士たちの動きは異様に速い。まるでクロックアップしたアクセラレーションが効いているようだ。衛兵の一人として馬車に近寄ることはできない。

そのとき、馬車のドアが開き、マヤが姿を現した。彼女は石畳の上に降り立つと、背筋を伸ばし、悠然と大聖堂の方へ向かった。お付きの戦士たちが回りを固める中、ゆっくりと進み、大聖堂の石段を登る。

「おお、マヤ姫!おいでになったのですね…」ウィリアムの言葉は冷徹なマヤの視線に撃ち落とされた。

マヤはウィリアムに対峙した。

「あなたは、まだ、わたくしに対する権利を主張なさるのですか?」マヤはウィリアムに直裁に尋ねた。「その権利を証明する用意がありますか?」

「もちろん!私には権利がある!」ウィリアムは叫び、そして一瞬辺りを見回した…まるで、なにかまずいことでも言ったかと心配するように。だが、それはもう手遅れだった。

「よろしい。」マヤはケリーに振り向いた。「あなたは権利を主張し、それを証明する用意がありますか?」

「はい、私は正当な権利を主張し、いかなる方法をもってしても証明する用意があります!」

「よろしい。」そしてマヤはその場で見守る数万の群衆に向かって叫んだ。

「この二人は共にわたくしに対する権利を主張し、それを証明する意志があることを認めました。わたくしは、両者の一騎討ちによる証明を要求します、いま、この場で!」


近衛兵の取り囲む丸い空間の中央に、ケリーとウィリアムが向き会っていた。それを壇上からマヤが無言のまま見つめている。立会人を勤めるのは…ギリシャ風のローブをゆったりと絡めたアーキテクト。かれはマトリックスの最高責任者という立場上、当然のことながら式に呼ばれていた。その場では彼の上位に来る者はいない。かれは二人に剣を抜かせ、目の前で交差させた。

「勝負は、どちらかが死ぬか、あるいは降参するまでとする。…では、はじめ!」

レンダリングの処理はスピードが命だ。だが、スピードだけでは守りを固めることができない。正確な質感の再現に失敗すると、鉄の盾もバターのように貫かれてしまう。むろん、攻撃の強度も処理の適切さに大きく依存する。リソースの割り振りや周辺機器との連携はいわんやだ。二人の闘いはそうした全体的なパフォーマンスの闘いなのだ。なんといっても、3Dレンダリングの起源は戦闘ゲームといってもよいのだから。

最初のうちは、若干ウィリアムのほうが優勢に闘いを進めていた。そのパワーはすざましく、一撃一撃にケリーのからだが揺れる、だが、ケリーはうまく受け流しているので、その実ダメージは少ない。むしろ、ウィリアムの剣は力まかせの撃ち込みに火花が散り、そのたびに刃がわずかずつ欠けていくようだ。

しかし勝負が長引くにつれ、ウィリアムの動きが鈍くなってきた。彼はまた同じ間違いを犯していた。リソースの配分を考えず、一気にかたをつけようと焦ったあまり、スタミナが切れてきたのだ。ケリーは徐々に攻勢に出た。剣を交える時に手首を効かせ、相手の腕に負荷をかけ続ける。見る間にウィリアムの剣は動きが遅くなってきた。そして、ついに、絡んだ剣の強力な返しに耐えきれず、ウィリアムの剣がその手を離れて飛んだ。

「降参するか?」ケリーは剣を構えたまま、静かに聞いた。

だが、ウィリアムは答えるかわりに、懐から拳銃を取り出した。

「ふっふっふっ…。降参するのはそっちだ。」

「くっ、卑怯な!」

撃鉄を起こしながらウィリアムが笑う。「何を甘いことを言ってるんだ?使えるものは使った方が勝ちだ。」

「…そうか。じゃあ、おれもそうさせてもらおう。」

そして、ケリーが消えた。

うろたえるウィリアムの握る拳銃が、突然はね飛ばされて宙を舞い、地面に落ちた。

剣の切っ先をのど元に突き付けたケリーが突然現れる。

「文句はあるまいな?」ケリーは静かに言った。「降参するか?」

「ぼっ僕は殺せないぞ!いまこの環境をレンダリングしているボクが死ぬと、この世界はいっきに崩壊する!みんな道連れになるぞぉ!」

「最後にもう一度だけ訊く。降参するか?」

「こっ、降参する!」

ケリーは剣を下ろし、振り向いてマヤの方へ向かった。

そのとき、ウィリアムは地面に転がっていた拳銃にとびついた。

「ケリー!」マヤの悲鳴が上がる。

銃声が響くのと、ケリーが振り向くのはほとんど同時だった。ケリーの左腕から血がしたたる。そして、ウィリアムが仰向けにどうと倒れた。その額には、ダーツの矢が突き刺さっていた。


その瞬間、世界のすべてがぐにゃりと歪んだ。そして、一瞬だけもとに戻ると、遠景の方から急にぼやけて来る。今日の式のためにマシンシティ全体に構築された環境は、ウィリアムがバックグラウンドで維持していたものだ。そのウィリアムがダウンしたとき、それによって構築されていた環境もダウンしてしまうのだ。

もちろん、マシンシティそのものやその住人には正規のバックアップがあるから、環境がダウンしたといっても最起動すれば済む。だが、ケリーやサティのようなエグザイル、それに本来ここにいるはずの無いN.K.やアッシュは環境のクラッシュに巻き込まれると致命的なダメージを負いかねない。

次第に遠い雷鳴と異様にうごめく暗雲が近付いて来る。一刻の猶予もできない。だが、いまのケリーたちには脱出する方法がないのだ。見る間にあたりが暗くなって行く中、八人の戦士の胸に下がる八つの玉が光を放ち、なんとか闇を押し返そうとしている。その中をマヤがケリーに駆け寄り、ささやいた。「ケリー、呪文を!」

ケリーはうなずき、そしてしっかりと両脚をふみしめ、両手を高く掲げて叫んだ。

「開け、ソース!」

それは全てを統べる一つの呪文、ルートを開くパスワードだった。そして、かれはあらゆるソースへのアクセス権をつかみ、それを使って崩れ行く環境の実行権を引き継いだ。かれはリアルタイムで現在の状況とモデリングパラメータを把握し、即座に環境への指示を反映させて行く。近寄りつつあった渦巻く暗雲が停止し、そして逆転を始める。薄れていた世界の光がまた明るさを取り戻し、確固とした大地と蒼々とした天空が展開していく。

しかし、ケリーはウィリアムの構築した世界を維持しただけではなかった。かれはそのモデルをより鮮明に、そして精緻に描き出した。さらに、そばに寄り添うマヤもまた両手を拡げると、新しいイメージが広がって行く…。より高く澄んだ空、そよぐ南の風、緑の芽吹き、小鳥のさえずり…。長い冬の終わり、春の到来だ!

世界が安定を取り戻した時、ケリーとマヤは握り合った両手を高く掲げていた。そして、二人が手を下ろした時、立会人のアーキテクトが宣言した。「勝負あった!」

二人は手を取り合いながら、大聖堂の階段を上り、その上で何万と言う群衆に向き直った。

「私はマヤ姫に対する権利を証明したか?」ケリーが叫んだ。

「然り!」の嵐につづいて大きな喝采が巻き起こる。

ケリーは手を挙げて群衆を静めると、こんどはマヤに向き直り、ひざまずいて言う。

「マヤ、姫は私の権利をうけいれてくれましょうや?」

「はい」

マヤはケリーを立たせ、そして二人は長く待ち望んだくちづけを交わした。

それから、そのときすでにすぐそばまで来ていたマヤの父母に目を向けた。

「お父さま、お母さま…。わたくしの伴侶となるレンダラーのケリーを受け入れていただけますでしょうか?」

「われわれにどうして異論があろう?ケリーよ、そちは自らの権利と能力を見事に証明し、わが娘もそれを受け入れた。…だが、わしはどうしても念を押して置かねばならぬ。そちは娘とともにわしらの後を継ぎ、マトリックスの環境を維持する務めを果たす意志があるか?それなくしてはわが娘をゆだねるわけにはいかんのだ、いまこのときのわが務めとして。」

「私は喜んでその責務を負うものであることを慎んで申し上げます。ただ…。」

「ただ?無条件ではない、というのか?わしは取り引きなどはせぬぞ!」

「いえ、そうではありませぬ。ただ、その方法はわたしなりのやり方があることを申し上げたかっただけなのです。…聞く所によれは、マトリックスの環境は重大な危機に陥っており、しかもその原因がはっきりしないとか。」

「そうじゃ。だからこそ、わしらにはそなたたちの手助けが必要なのじゃ。」

「私が思うに、いま必要なのは単なる手助けではなく、問題を解決することではないかと思うのです。実は、われわれの握ったある情報により、あのネオ戦争の明らかにされていない謎が解き明かされる可能性が出てきました。いま、私たち二人にその謎を解く時間を与えていただければ、そもそもの根源を解き明かし、直面する困難そのものを消滅せしめることができるのではないかと考えるのです。」

花嫁の父は何も言わない。ケリーは先を続けた。

「マトリックスの不安定化は、単にモデリングやレンダリングだけの問題ではありません。他にもいろいろな不整合が現れて来ているのです。私はエグザイルとしてすごした年月のなかで、なにかがおかしいと確信するようになりました。それは、プログラムやシステムだけの問題ではなく。もっと大きな範囲、現実世界や不確定要素である人間をも含む問題なのではないかと思えるのです。実は、私の仲間にはエグザイルだけでなく人間もふくまれております。人間たちも、なにかがおかしいと感じています。そして、かれらの直感によれば、全ての鍵はあの戦争で象徴的な役割を果たしたThe One、ネオのまわりにあるに違いないというのです。私は彼等と行動を共にするうちに、彼等の無意識の判断というものをおろそかにしてはならない、と思うようになりました。それこそがマシンがまだ踏み込めない数億年の神秘とでもいうべき領域なのです。」

ケリーは、相手がマトリックスという世界を通じて人間と長いこと接して来た偉大なプログラムであることも忘れ、一気にまくしたてた。

「しかし、ネオについては、人間はおろかプログラムに対しても情報が封鎖されています。なぜ?なにを隠しているのか?そして、なにを恐れているのか?そのようなものに目をつぶったまま、やみくもに現状を維持しようとしているのが今の混沌とした情勢の遠因ではないでしょうか?私にはデウスのような高位のプログラムの考えることはわかりません。しかし、システムの外側にいた経験で得たものといえば、つねに別の考え方もできるのではないか、ということなのです。それは、言われるままに納得していたのではえられるものではありません。自ら求めて行かない限り、手の届かないものなのです。そして、いま必要なのは、思いきって探求の旅に出ることではないのでしょうか。」

「では、そちは探求の旅に出たいと申すのだな?それも、わが娘とともに?」

「そうです。」

「だが、時間は限られておる。探求の成就の見通しは?どの程度の時間がかかるのじゃ?われわれだけで維持して行くにも限度がある。…だが、いまのやり方で助力を得たとしても、やはり維持していく見通しが立つともいいきれんのぉ。むしろ、単に先延ばしするだけで解決の見込みは薄いのかもしれん。」

「お父さま…。わたくしたちは必ず戻ってきますわ。それから手助けすることもできましょう。しかし、その探求の旅を行うのは今でなければならないのです。おそらくチャンスは一度きり、そのチャンスで成就させない限り、聖杯をつかむことはまずできますまい。」

「殿、私は自分の務めも重大なものとして考えていますが、それ以上にマヤ姫のことも慮っているのです。わたしには、先の見えない苦役に姫を陥れたくありません。たとえわずかでも解決の可能性が見えている以上、たとえそれが苦難の道であろうとも、安楽で緩慢な死出の道よりも望ましいものに思えるのです。」

突然、アーキテクトが口を出した。

「私は、この者の言う可能性とやらを理解できるとは思わん。だが、先がわからないということでは、私らもおなじではないのかな?この者の願いは確かに論理的ではないかもしれん。だが、論理的に解くのも、非論理的に解くのも、結果は同じかもしれんのだ、プロセスが違うだけで。われわれ年長者は現実の重みを担っているが故に現実的であらざるを得ない。だが、若者に同じ荷を負わせるために長年苦労して来たわけでもあるまいよ。どうだろうか、若者に選択の余地を与えてやっては?かれはかれなりの方法で自らの使命を果たす権利がある。それに、彼には許しを得ずに旅立って行くことも出来たはずだ。選択の余地を与えてくれた事に免じて、許してやってもいいのではないかね?」

思わぬ助太刀に言葉もないケリーだった。あのアーキテクトが!かれが『解らない』ということを認めるなんて、よほどの状況に違いない。かれは身が引き締まる思いで、横にいるマヤを抱き寄せた。

王はうなずいた。「よかろう。行くがよい、息子よ、わが娘とともに。われわれの方は心配におよばん。だが、早く帰って来るのだぞ!」


大聖堂の前に、巨大な龍が二頭舞い降りてとぐろを巻いた。大きい方は全身が黄金色に輝いている。わずかに小さい方は青銅色だが、より引き締まった感じだ。そして、その背にマヤとケリー、それに仲間たちが別れて乗り、いま最後の挨拶を交わした。

「では、父上、母上、しばしのおいとまを頂戴いたします。きっと秘密を解く鍵を手に入れて戻って参りますぞ!」

「お父さま、お母さま、ありがとうございました。お体をおいたわり遊ばされませ !」

「いざ!」

ケリーが声をかけると、二頭の龍が起き上がり、大きく翼を拡げたかとおもうとあっという間に飛び上がった。龍は大聖堂の上空を二回旋回し、一つ大きな炎を吐き出すと、空の高みへ消えて行った。

それを見送る人たちや街のすがたが、次第に白く明るさを増していく空に照らされている。そのうちそれぞれの人々も輝く輪郭へと移りゆき、町並みもしだいにテクスチャーが薄れていく。こうして、すべてが元通りの無機質なマシンシティのそれへと戻っていった。

そんな中ただ一人、変わらぬ姿で立ち尽くすアーキテクトがつぶやいた。

「かれらなら、封じられている情報をつかみ出すことができるかもしれぬ。しかし、私でさえアクセスを禁じられている情報とは、いったい何なのだ?デウスよ、あなたはいったい何を考えておられるのです?」

(2004.1.24)


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